駅の美味しいうどん店。
うどん屋、というのは、新幹線の駅ホームや、そこそこ大きい中継駅の構内にはあるものだが、一般の急行列車の停車駅などのホームに、そうそうあるものではない、と思う。
「いや、本当にあったんだって」
ホームの端から端まで歩いた後、ついでにぐるりと駅構内も一周して、いいかげん疲れてベンチに座り込んだ私に、友人はそう主張した。
同じ会社の別部署に勤める彼が、あまりに言うので、休日にわざわざ、会社の最寄り駅まできているのだが…… 当の店が全く見つからず、一方で彼は、この件に関してやたらと頑固である。
「気のせいだったんだろ。それか、ほかの駅と間違えたか」
「いや、絶対にこの駅だった。本当に美味かったんだよ」
ダシはもちろん、麺のコシといい小麦粉の味といい最高でさ、さすが、出店80年なだけ、あるよな……
と、友人は夢見心地で語る。
「80年。そんな老舗なら、もっと紹介されてそうなのにな」
「んー取材お断りとかじゃないか、たぶん」
でもどこかで見知った顔が何人もいたよ…… 徹夜残業明けのぼーっとした頭でよくは覚えていないんだが、地元有名なんじゃないか。
友人は首をひねってみせるが、現に見つからぬものは仕方がない。
……私たちはその後、近くのチェーン店で蕎麦を食べ、まぁこれもなかなかイケる、などと言いながら、別れたのだった。
――― それから、数ヵ月後。
私はとあるプロジェクトのデスマーチに巻き込まれ、会社に寝泊まりする日々が続いていた。
デスマーチとはIT関係の業務では珍しくない用語で、低予算や仕様の変更、短納期などにより、殺人的なものになったプロジェクトのことだ。
我が社は、IT業界の中ではホワイトな方で、これまであまり無理なことはなかったのだが……
この不況で、そんなことは言っていられなくなったのかもしれないし、なにぶん職を失うことに比べれば、残業が月300時間に上ろうと、マシな方だと思う。
そうしてやっと仕事に目処が立ち、「たまには家に帰って寝ろ」 と上からお達しがあったのは、月曜日の夜だった。
終電も近い時間なのに無茶を言うな、という気持ちと、とにかく家でグッスリ寝たい、という願望がないまぜになったまま、私はフラフラと駅へ向かった。
ホームの一角が、妙に明るいのに引き寄せられて足を向ける。
そこにあったのは、どこにでもありそうな、 『 う ど ん 』 という暖簾のかかった小さな店だった。
薄ぼんやりとした明かりに包まれ、客の訪れを待っているような佇まいである。
――― 日頃は気にも止めなかったのに。友人とあれだけ探しても、無かったのに。
しかし、そういうことは、たまにあるものだ。
ここ数日、温かいものを口にしていなかった私は、ためらわずに暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませ」
カウンターのみの小さな店は、主1人で切り盛りしているらしい。
麺をゆでる濛々とした湯気の中で、ねじり鉢巻のごま塩頭が振り返った。
目じりの笑い皺が、穏やかに過ぎただろう人生を感じさせる、そんな男だ。
「好きな席にどうぞ」
言われて、席を見回す。両端にはすでに人が…… おや、右端に座っているのは、友人だ。
私が、やああれ以来だな、と声を掛けて隣に座ると、友人も懐かしい笑みを見せて手を上げた。
「やっと、見つけたか」
「おお、ここなんだな」
「そうだよ。狭いけどなんだか居心地がいいだろ?」
「ああ。今日は簡単に見つかったよ」
「そうなんだ。もしかしたら、昼は営業してなくて、目立たないのかもしれないな」
友人の言葉にふむ、とうなずく。
確かに昼間のホームは雑然としているし、暖簾をおろした店に全く気づかないのも、やはりあることなんだろう。
きつねうどんを注文し、また友人と話し込む。
「しょっちゅう来ているのか」
「まぁ、見つけた時はね。ここのうどんは、本当に美味いんだ。食べると元気が出る気がする」
と、左端に座ってた人がこちらを見た。
「そうそう、オススメですよ。なんだか、またバリバリ働こうっていう気になれますからね」
にこやかに話し掛けてきたのは、見覚えがある……
「高橋さんじゃないですか」
数年前に隣同士の席で一緒に働いていた、同僚だ。
好条件で同じビルの中の別のIT企業にヘッドハンティングされて、別の階で働くようになった。
その後、残業中に眠気対策用の栄養ドリンクを摂取しすぎてカフェイン中毒で亡くなった、とまことしやかな噂が流れたものだが。
おそらくは、彼に嫉妬した誰かが面白半分に言い立てたことなのだろう。
現に、彼は元気でこうして、私の目の前にいて、ぱっと顔を輝かせている。
「覚えていてくれたんですか」
「当然でしょう。その後、どうですか。今でも16階?」
「ええそうです。おかげさまで、元気にやってますよ。家に帰る暇もなくて、この店には、毎日のようにお世話になってますけど……」
文句なく美味いから文句ないですね、と笑っている。
「柴本さんは相変わらず、13階ですか。でも出世はしたでしょう?」
「まぁ、役職だけはついたけど…… 前より馬車馬になっただけの気がするよ」
ははは、と彼が笑って、店主が 「お待ちどう」 と我々の前にうどんを置いた。
私はきつねうどん、彼と友人はかけうどんである。
「皆さんお知り合いでしたか」
話し好きの男なのだろうか、にこやかに話し掛けてくる。
「ええ。偶然にも」
私はうなずき、逆に店主に質問した。
「80年も続いている店なんですってね」
「へえ、その頃から、させてもらってますね。偉い文士の先生が来たこともあるし、そうですね、やはり戦時中や戦後すぐは、腹を減らした子や傷病兵もよくきていましたね。
最近はやはり、サラリーマンの方が多いです。
皆さん、ウチのうどんで元気が出た、明日も頑張って働ける、と喜んでくださるのが嬉しくて、続いておりますなぁ」
前の店主から聞いていたのだろうか、昔のこともまるで昨日のことのように懐かしげに語る親父である。
きっと親子か何か、そういう間柄で、店の歴史もうどん作りも、何もかも仕込まれたんだろう。
……そう思えるくらいに、うどんは美味かった。
昆布とかつおのバランスの良いダシが絶妙に絡んだ、程よいコシの麺は、確かに友人の言っていた通り、小麦粉からこだわっていそうである。
「な、美味いだろう」
「うん美味い」
「元気が出るでしょう?」
「本当ですね」
我がことのように口々に自慢する友人と、高橋さんの気持ちもわかる、というものだ。
私は夢中になって麺をすすり、合間に友人や店主と談笑した。
「さて」
友人が立ち上がった時には、夜は少し更けていた。
「もう少し、仕事しないと」
「忙しいのか」
「ああ。そっちは。デスマーチって噂で心配だったんだ」
「なんとか終わった」
「よかったな……まぁ今日1日、ゆっくり休め」
「ああ、そうだな。お前も無理すんなよ」
「大丈夫だよ。この店もあるしな」
軽口を叩いて手を振り、店を出ていく友人を見送った後、続いて高橋さんが立ち上がる。
「僕もそろそろ行きますよ」
「高橋さんも、無理しないでくださいね」
「大丈夫ですよ」
彼も友人と同じに、元気よく笑い、この店がありますからね、と軽口を叩く。
「僕はいつでも16階にいますから、もし機会があれば、寄ってみてくださいよ」
――― それか、また、この店で会いましょう……。
飛ぶような足取りで扉を出た元同僚の背を見送り、私も、そろそろ行くかと立ち上がった……。
――― お客さん、お客さん……
――― おーきゃーくーさーんー!
呼ばれる声が段々と近くなり、揺すぶられて目を開けると、間近に駅員の帽子をかぶった顔があった。
「あー意識戻りましたね、良かった」
「あれ…… 私、寝てたんですかね?」
「というか、数分前に倒れたんですよ。覚えてませんか?」
ぐるりと見回せば、どうやら、ホームの上。周囲には夜中にも関わらず、そこそこ人だかりができている。
駅員の隣に立っている、パンツスーツの女性が知らせてくれたんだろうか。目を向けると、心配そうな顔がほっと緩んだ。
「すみません、ご心配をおかけしました」
よろよろと立ち上がり、頭をさげる。
「ありがとうございます」
「いえ、こういう時はお互い様ですから」
彼女が微笑んだ時、電車到着のメロディーがのんびりと鳴り、少し間があってホームに電車が滑り込んできた。
今日の、終電だ。
私は彼女と電車に乗り、彼女が降りるまで気づまりな話をして、最後に 「よろしければ、またお礼させてください」 と名刺を渡した。
こうして、ほぼ1ヶ月ぶりに家に戻った私が早速見つけたのは、運の良くないことに、黒枠で飾られた訃報ハガキだった。
『○月○日に死去しました。葬儀は本人の希望により身内のみで行いました……』
簡潔にその死を告げられている、『故……』 は何度見直しても友人の名前だった。
それだけ確認し、倒れるように眠り込んで、夕方、線香を上げに行こうとハガキを確認して、肩を落とす。
……彼の位牌があるはずの実家は、1日ではとても行けない距離だったのだ。
すまんな、と心の中で詫び、手を合わせる私の耳には、「またこの店で会おうや」 という、彼の明るく人懐こい笑い声が、蘇っていた。
――― 翌日、私は出社した。
昼休みを利用し、16階を訪ねる。
「開発部の高橋さんを」
その名を告げると、受付は怪訝そうな顔で何度か名簿を見直し、「もういらっしゃいませんが……」 と言ってきた。
示された名簿の 『高橋』 の文字は、赤の二重線で消されていた。
――― そして、また、数ヶ月。
「こんばんは」
「こんばんは! 今日どこ行きます?」
「少し歩いて、決めましょうか」
私は以前駅で助けてくれた女性と、何となく親密になっていた。
残業の入らない夜、連絡を取り合って食事に行く仲だ。
待ち合わせは、ふたりの会社の位置関係上、大抵、駅の構内である。
ぼちぼちと、気づまりでもなく、あたりさわりもない会話を繰り返しながら歩く時間も、嫌いではない。
「……あ」
駅のはずれに来たとき、彼女がふと、足を止めた。
「たまには、うどんとか、どうですか?」
――― そこにあったのは、どこにでもありそうな 『 う ど ん 』 の暖簾がかかった、小さな店。
薄ぼんやりとした明かりに包まれ、客の訪れを待っているような佇まいである。
「……あ」
私も足を止め、言葉を探した。
「うどんなら、家で作りましょうか…… あの、ちょうど、実家から美味い麺が届いてるので」
「………………」
彼女の、少し戸惑う気配。
しばらくして、コクリ、とうなずく。
「…………じゃ、行きましょう」
言いながら、私は、自分の言葉が持っていた意味に思い当たり、年甲斐もなく頬に血が昇る感覚を味わった。
踵を返し、 『 う ど ん 』 の暖簾から遠ざかる私たちは…… いつの間にか、手を繋いで歩いていた。
――― あの店には、今夜も、友人や高橋さんがいるのかもしれない。
温かいうどんを囲んで談笑し、明日も、元気に働くために。