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前の8:遺される者


「お前たち、親戚か何かなのか」

 寝具の上転がったまま、綾都は蓮を見上げて問いかける。

「まあね」

「本当に駆け落ちか」

「信じてるなら、それでもいいけど」

 寝具の横に膝を立てて座り、興味の薄い顔で蓮が答える。ひねくれた答えに、綾都はくすくすと笑った。

「本当だったら、追っ手には嘘を教えておいてやるから、心配するな」

「それはどうも」

 蓮はやはり気のない返事をする。そんなことよりも明確でない答えが気に入らないようで、綾都はつまらなそうに言う。

「駆け落ちだったら、おもしろいのに」

「あんたね」

「ちょっと、仲間意識だよ。うちも家が面倒だから」

 別に不幸とか苦労を面白がってるわけじゃない、と綾都は手を振る。物語のような恋愛に憧れる少女でもあるまいし、夢を見ているわけでもない。

「うちは、名家と呼ばれているだけで、実際にはいろいろあってさ」

「相続争いね」

 ありがち、と呟く声が聞こえる。

「まあ。似たようなもんかな」

 それはとても長い間、慎司と綾都が捕らわれてきたことだった。

「大事なのは家の体裁だ。それだけのために、俺も慎司も、親たちも振り回された」

 澱んだ思惑。どす黒い血だ、と苦々しく思う。

 家が長く続くところほど、黒い血が流れているものだ。嫌になるくらい。この肌を切り裂いて溢れてくるものは、本当は赤く熱い血などではないのだろう。泥の血、と祖母が言ったように。泥なのは、久我の血だ。大名家筋だとか宮家の姫君をお嫁にいただいたとか、大層な事を口にしたところで、実際にあるのは、どれほど卑しい身分の者よりも穢れた血でしかない。だから病に憑かれるのだ。

 祖父も、叔父も、同じ病に斃れている。

 血に潜む病。淀んだ人の意識がこごったかのようだ。何かの呪いのように、赤い膿が飲み込んでいく。

「本当は、俺が家を継いだかもしれなかった。誰もに騙されてるのかもしれないな」

 言いながら、ようやく、綾都は先程腕を怪我したのを思い出した。寝具から腕を出して月明かりにかざして見ると、血はとっくに止まっているようだった。衣服に擦れた血は、薄く伸び広がって固まっている。土に汚れ、赤黒くこびりついている。妙に納得して綾都は笑った。見知らぬ人間に気を取られた慎司は気づかなかったのだろう。それで十分だ。手当てなど、必要も無い。

「そういえば、奪われたとか言ってたっけ」

 そう、と綾都は笑う。

「騙されていたら、俺は可哀想だな」

 あっけらかんと。悲観している様子も無く、能天気に言う。

「二十年も生きられなかった。家をとられた。もっとやりたいことがあった。外を走り回るのが好きだった。閉じ込められて、何も出来なくなった」

「決め付けるなんて、馬鹿馬鹿しい。諦めが潔いとでも思ってるわけ」

「決め付けてるんじゃない。事実だ」

 蓮には、奏を思い出させて少し腹が立った。飄々と、暢気に覚悟を決める人種だ。

 そんな彼の耳に、ぽつりとつぶやいた綾都の言葉が忍び込んでくる。

「でも慎司の方が、可哀想だ」

 静かに、それは悲しく。

 蓮は大仰にため息をつく。この部屋には、この家には、病の気配が、月も暴き出せない四隅に満ちている。揚々とした人の息は、その狭間に沈んで落ちる。

「どうしてぼくに構うわけ」

 綾都は、何を言われたか分からなかったようで、少し考えるような仕種をした。それからまた笑う。

「ああ」

 昼間、うちに泊めてやる、と言った。自棄なのも、嘘ではない。それに。

「一心同体なんて恥ずかしげもなく言うからさ」

 一緒にいた男だって、それを否定はしなかった。

「能天気でいいな。何も考えないで、二人で暢気に生きていられて、うらやましい」

 馬鹿にされているようだが、本人にその気がないのが分かっていたから、蓮は黙っていた。いつもなら、それが分かっていても文句を口にするのに、黙っていた。

「見え透いてるよ」

「それでもなにかせずにはいられないものなのさ」

「無意味だって言ってるんだよ」

「知ってるよ。それでも、希望を持つのを止められるのか」

 願うことを否定できるか。

 不可能だと、無意味だと知っていても。

「非力だね」

 人の、力なんて。

「まったくだ」

 願うことしか、できない。託すことしか。

 祈ることしか。

「ひとつ、聞いてくれないか」

 蓮を見上げる綾都の顔は、月に照らされて青い。水底みなそこで息を潜めている貝のように。波の揺らめきに体を染める魚のように。けれど綾都の表情は、密やかな営みを押しのけるように明るい。

「後のことを頼むよ」

「どうしてぼくに」

 不機嫌な顔で蓮が返す。どうして余所者に。よく知りもしない人間に。そんな面倒なことを何故、わざわざこの自分がしてやらなければならないのか。

 言葉が透けて見えそうな蓮の問いに、綾都は破顔した。病にかかる前の、ひねくれて慎司に当り散らす前の、彼の素直な性格が見えるような表情だった。

「お前たちは、同類の臭いがするよ」

 指を突きつけて言う。

「死の世界に片足突っ込んでいるからかな。直感も信じる気になってきている。考える時間もあまりないから、決めたら行動するしかないんだ」

 迷っている暇は無い。少しでも、後悔している暇はない。

 わずかでも、今できることを、残していくしかない。

 かけらでも。砂粒でも。

「死にいく人間の願いだ。華族とか、余所者だとか、そういうことにこだわらず、聞いてくれ」

 それは彼のような、名家の人間が言うことでもないようだった。

 二人とも、よく似ている。そんなところは。




 門前、わざわざ慎司は旅立つ奏たちを見送りに出ていた。外は快晴、よく晴れて気持ちがいい。

「慎司」

 呼び捨てられても、慎司は気にした風も無く奏を見る。

 風が、揺らいでいる。咲き始めた花の香りをゆるやかに運んでくる。季節が移り変わる。人は、取り残される。

 奏は、眼差しを受けて、微笑う。

「月は江を照らし、松風が吹いている。この永夜の清らかな宵の景色は、何のためにあるのか」

 朗とした声が、詠みあげる。

「意味を知ってるかい」

 真意を測りかねて、慎司は口を閉ざしたままだ。

 決してからかうようでもない、まっすぐに向けられた奏の目を受けて、静かな表情でたたずんでいる。

 曖昧に。

 進むでも逃げるでもなく。

「よく考えてごらん。あまり、悲観せずに」

 残された言葉は、ゆるやかに風に乗る。




 ※



 祖父が息を引き取ったのもまた、夏の盛りのことだった。

 果たして、綾都が発病したのと祖父が発病したのと、どちらが先だったのか、今となっては分からない。祖父はかなりの間隠していた筈だった。だからと言って、病に苦しんだ時間が長かったのかと問えば、単に老人は体力がもたなかっただけかも知れない。

 祖父がそれを露呈させたのは、綾都がとうとう学校へと通うことができなくなり、どうすべきか苦慮していた頃だった。自宅で倒れ、それからしばらく経つこともなく死んだ。祖母はその知らせを受け取った後、眠るように息を引き取ったと報が届いた。

 おかわいそうに、と声をかけてくる人々に、淡く微笑んで応える。これからは皆であなたを支えていきますから、と言う祖父の配下たちにはただ、ありがとうございます、よろしくお願いしますと、しおらしく振舞った。

 いらないものに、意識を傾ける必要も感じなかった。

 祖父母のことを憐れだとは、少しも思わない。気づいてやれたはずだとか、考えたこともない。

 もし、不孝者と叫ばれれば、自業自得だ、と返す。育ててもらったことがどれほどの恩だ。彼らにとっては、子は慈しみ育てるものではなく、家を残す証でしかなかった。必要だから育てた、それだけのことだ。

 絵を描くという、たったひとつの楽しみを取り上げられた位ならば、何程のこととも思わなかっただろう。綾都が喜んでくれなければ、続けようと思ったかも定かでないから。

 だけど、病の子を軽んじておいて、何が高貴な血筋だ。こんな呪われた病を宿らせていて、何が名家だ。

 ――だけど、あんなに清く気高い綾都まで、同じ病に。

 血に宿るものならば、何故綾都を苦しめるのか。この身に降りかかったものなら、どれだけ良かっただろう。

 ――本当は、弱っていく綾都を見て、祖父母の気持ちも少しは分かる気がした。

 早くに息子を亡くして、二人とも寂しかったのだろう、と。怒りの向けどころが、分からなかったのではないかと。遺された二人の孫の扱いに惑い、病の恐怖を押しのけるために、厳しく接したのかもしれなかった。

 自分がその立場に立って、分かることがある。むしろそんなことばかりだ。ようやくそうやって、相手の思いを知る。その時にはもう遅い。

 知ったところで、許せるかどうかは、また別のものだけれど。

 そしてもう二度と、彼らの意志を分かろうと思うこともないだろう。




 ※



 手燭で照らされた部屋に、小さな溜息が落ちた。

 そこだけ洋風の物で溢れた空間で、慎司は吸いかけた息を詰め、立ち上がり、身をそらすようにして目の前の物を眺める。キャンバスにかけられた一枚の大きな絵は、町の風景を描いたものだった。月の光に照らされ、闇に沈み、同時に淡く瓦斯灯に照らされた町並み。自然の風景と、割り込むものとの均衡。

 人物はあまり描かないことにしていた。描きたいと思うほどの人もなく、題材も見つからなかった。そしてもし描いたなら、自分の心の中の、人に対する暗い思いが余すことなく表れてしまいそうな気がした。決して明るいとは言えない思いを自分で暴き出してしまいそうで、それは自分でも気味がいいとは思えなかった。

 再び息を吐き、慎司は筆を置いた。思ったよりもうまく進んだ絵を見て、少し頬に笑みを浮かべる。気がついたら夜が更けている。描いている時は、打ち込むあまりに時間を忘れることが多かった。今日はもう休もうと立ち上がる。

 衣服の上にまとっていた、絵の具で汚れた布を脱いで、座っていた椅子の背もたれに丁寧にかける。明かりを消して部屋を出た。寝る前に綾都の様子を見ようと、彼の床が敷かれている部屋へ向かう。

 慎司のいた部屋の、すぐ隣り。物音も聞こえず、女中の声もなく、綾都はめずらしく、大人しく部屋にいるようだった。

「綾、具合はどう」

 襖の前に立ち、声をかける。返答がなかった。木板の長い廊下で所在なく首を傾けて、慎司はもう一度声をかける。やはり声は返らない。

「綾都」

 無視をしているだけなのだろうか。もう眠ってしまったのだろうか。

「入るよ」

 それとも、気づかない間に外にまた出かけてしまったのだろうか。訝しみながらも、慎司はそっと襖を開けて部屋の中へ足を踏み込んだ。

 隙間から差し込む月明かりに照らされて浮かび上がる。敷かれている布団には、人が入っている膨らみがあった。戸口の方、慎司の側へ背を向けて横たわっている人の姿が見えた。掛け布団がずれて、横向けに伏している綾都の肩が出ている。

 なんだ、寝てしまっていたのか、と胸をなで下ろした。畳の上、音をたてないように布団へ近づいていく。綾都の横、背の後ろに膝をついて、身を屈めた。少し笑み、慎司はそっと丁寧に、布団を引きずり上げた。

 手が、綾都の肩に触れる。そして指先が違和感を拾い上げる。

 外気に触れて冴えた肩からは、吐息の気配がない。身じろぎがないのはともかく、微かに上下して息を吸う、寝息の気配すら感じられない。

 何となくただ不思議に思って、今度は掌を肩に乗せた。

 異様に冷えている。冬もようやく終わる兆しが見え始めたばかりだ、寒いからだろうとは思う。体に毒なのに、と思うが。

 あまりに、冷たすぎる。

 堅く強張っている。寒さか恐怖にか、息を詰めて、身を縮こませているかのようだった。

 ――悪夢でも見ているのか。

「綾都」

 起こさないようにと配慮していたのも忘れて、声をかける。上擦った声が出た。自分でぎくりとする。

 ――ちがう。

 自分の声に含まれる恐れを否定する。それに思い至る自分を、意識の中で叱り付ける。

 違う、まだ決めつけるな。

 背を向けたままの綾都の、布団の上に投げ出された片手、固く握りしめられた拳に、身を乗り出して触れた。冷たい。

 これが人の手だろうか。氷のようだ。夜の藍に染まった、華奢な氷細工のようだ。あり得ない、信じられない。信じたくない。避けていたい事態に、目の前が揺れた。血の気が引いて、慎司の指先までもが、同じように冴えた。

 息がうまく吸えない。浅く早く繰り返す呼吸を宥め、抑えて、背けられた顔を覗き込めば、綾都の顔はとても穏やかな表情を浮かべていた。瞳を閉じて眠っている。ただ、眠っている。

 寝息もたてずに。

「綾都」

 呼びかける声が震えた。綾都の手を握る慎司の手が、大袈裟なほどに揺れていた。

 たどたどしい動きで、綾都の肩を揺する。起こさないと。そんなはずはない。まだその時期じゃない。あり得ない。否定する言葉を、ただただ並べ立てながら。

 けれど、声をかけられて、手に触れられて、揺さぶられて、それでも彼は目を覚まさなかった。瞼は閉ざされたまま、震える気配すらない。

 そんなはずはない。

 死に至る病だと知っていた。今の医療では治らないと言われていた。覚悟するようにとも。けれども、それは、もっと先のはずだ。まだまだ、ずっと先の話のはずだった。

 綾都の病は、衰弱が激しくなり、末期になれば立つこともできなくなると言われていたのではなかったか。死ぬときには、これ以上ないほどに苦しんで、苦しんで、悶えて死んでいくのだと。かつて同じ病の者を見たことがあるが、目を背けたくなるような、苦悶を浮かべた死に顔だったと、医師は言っていた。

 祖父はどうだったか思い出そうとする。だが分からない。知ろうともしなかった。

 でも、綾都は。彼はまだ、つい最近まで走り回って、外へ出掛けたりもしていた。近頃は表へ出る前に、慎司が見つけて連れ戻すことの方が多かったが。そんな考えに至って、ぎくりとする。でも。

 今の彼の、この顔の、どこに苦悶の痕があるというのだろう。

「ばか」

 綾都が少しでも苦しんで声を上げれば、暴れていれば、慎司は気がついた。どんなに小さな声でも呼んでくれれば、駆けつけた。何をしていても、自分がどうなっていても、絶対に。

 なのに綾都はただ、静かな顔を床に押しつけて、眠っている。

 どうして。どうして気がつかなかったのだろう。彼が苦しんでいることを察して、駆けつけられなかったのだろう。心臓が止まって、それでもしばらくは温もりが残るものなのに、こんなに冷たくなるまで気がつかなかったなんて。

 ひとりで、放っておいたなんて。

「……ごめんね、綾都、ごめんねぇ」

 病み衰えた細い肩に額を押しつけて、つぶやく。涙が、綾都の衣服に、透明な染みを広げていった。声が揺れて、悲しく響く。

 ――――綾都。



 二人きりで、生きてきた。


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