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前の3:かつて

「は」

 少年からの唐突な提案に、奏はぽかんとした顔をして、少し間抜けな声を出してしまった。

「なんだよ」

 ぶすっと脹れた顔をして少年は不機嫌な声を出した。茶店の主人に向けたような表情ではなく、思い通りに物事が進まなかったときの少年そのものの顔だった。くるくるとよく表情が変わる。

「不満なのか。子爵様の家だ、そこいらの高級旅館など足元にも及ばない。お前ら、飯だって部屋だって寝具だって、一生できないような贅沢だ」

「いや、そういうことではなくて」

 困ったように奏が言う。

「人とあんまり関わりあいになるのは、困るんだ。覚えられちゃったら、あと五十年はここに来られないから」

「なんだそれ」

 綾都が眉を吊り上げて、奏を睨み付けた。奏が、しまった、という顔をする。少年には冗談が通じなかったらしい。その横で、蓮が飄々と言い返す。

「駆け落ち中だから、人に顔覚えられるの歓迎できないんだよねえ」

 断る口実とも冗談とも、本気ともとれない、得意満面だった。

「いや、だから蓮は、人に誤解されるからそういうことを言うなって、いつも言ってるでしょう」

 奏は困ったように、小さく息を吐く。

「それはともかく、お前さん無用心だろう」

「なんだよ、遠慮しているのか。俺が言っているのだから、気にする必要ない」

「いや、そうではなくて……」

「うちの財産なんて勝手に持って行けばいいし、俺だって慎司だって、勝手に殺して逃げればいい」

 まるで分かっていないような綾都の言葉に、無用心だ、と重ねて言おうとした奏の先を制して、少年は言った。その危険性に気がついていないのかと思っていたが、そうではなかった。相変わらず高飛車で、陽気な表情のままだったが。

 こうなると、その危険は知っているが、理解はしていないのではないかと思えてくる。

「いちいち説教じみたことは言いたくないけどね、命は大事にしなさいよ。先が見えててもね」

 病弱だ、という、小耳に挟んだ程度のことだったが、嫌味でもなく親切めかしてでもなく、忠告を口にする。言われた少年は、少し驚いた顔をした。

「あのな」

 怒るかと思った。けれど少年はにやりと笑う。

「そんなこと、お前に言われなきゃならないことか」

「俺に言う筋合いがなくても、俺は言います」

 何せ、お節介だそうだから、と奏は言う。

「お前さん自身の命を秤にかけるのもあまり、歓迎はできないが、それに増してあんたの従兄弟も勝手に乗せたらいけないよ」

「いいんだよ、それは」

「あんたのそれは、人を殺すのと変わりないよ」

「そうかな」

「正しいこととか、悪いこととか言うものは、最低限、どんな事情があろうとも、許されるものと許されないものがあるだろう」

「慎司を振り回すなっていうことか」

 自嘲気味に、少年は問う。先刻までは楽しげに笑っていたくせに。

「お前に、何が分かるって」

 その声音は、憐憫のようだった。



「綾都」

 後ろから突然声をかけられて、綾都が振り返る。奏が綾都の肩越しに見遣ると、少年が駆け寄ってくるところだった。

 綾都が、大げさに舌打ちをする。

「綾、やっと見つけた」

 辿り着くと、慎司は肩で息をしながら、顔をそらした綾都の前に回りこむ。荒い呼吸で声がはねている。

「綾、お願いだから、戻ろう」

「そんなの、お前が決めるな」

「でも綾、朝より顔色が悪いよ。安静にするようにって、医者に言われてる」

「綾、綾ってうるさいな!」

 容赦のない声が、相手を怒鳴りつけた。人々が、遠巻きに見ている。特に町の人間の視線が、集まっている。嵐のようだ。くるくると表情が変わる。笑い、疲れ、自嘲し、怒り、思わぬところから風が吹き付ける、気ままな嵐のようだ。

「俺の命だ。どうしようと俺の勝手だ」

「でも綾、それだったらもっと、大事にして」

「お前が言うな」

 再び吐き捨てられる。

「俺にないものを何もかも持っているくせに。何もかもお前が奪ったんだ」

 怒気を向けられ、慎司が声をなくしてしまう。

 言葉を無くし、ただひたすら悲しい表情で、口を閉ざす。苦しそうに呼吸をして、それが更に彼の悲しみを物語っているようだった。

 なんとか唇を開き、喘ぐように、声をだす。

「綾」

「うるさいなあ」

 綾都は顔を背け、さえぎるような大声をあげた。くるりと踵を返す。遠巻きに彼らを見ていた人々を、無言で睨みつけた。

 人々は慌てて目をそらして、そ知らぬふりをする。わざとらしいくらいに、最前までの行動を再開する。その間を縫って、綾都が大またで歩き出した。ハッとした様子で、慎司が彼の背を見る。

「すみません」

 取り残された慎司が、奏と蓮に言う。そして、誰にとも無く頭を下げた。

「すみません。お騒がせしました」

 それから、慌てて綾都の後を追う。



  ※



 黒い沼に水を擦り合わせる。水は滲み、黒が染み出し、濁りを帯びた光りを放つ。

 硯に満ちた黒い波に、まろい手が握る筆が浸された。丁寧に筆先に墨を含ませ、白い紙の上に降ろす。柔らかな紙に触れると、黒い染みが落ちた。迷いのない曲線は形を成していき、ましろな世界に命を吹き込んでいく。

 その軌跡を横から見ていた少年は、形作られていくものに、感嘆の息を吐いた。

「椿」

 紙面に、墨だけで描かれた椿の花。色彩のない世界に鮮やかさはないものの、ぱきりとした椿の、清涼な佇まいが静かに描き出されていた。

「うん。ちゃんと、椿に見えるかな」

「当たり前だ。うまいな、慎司は」

 幼い少年の顔が華やかに笑う。

「綾、椿が好きでしょう」

 うん、と今度は綾都が笑って応える。

「これ、すごく好きだ」

「もっとたくさん、色が使えたらいいのに」

 慎司は、小さく嘆息してつぶやいた。

 鮮やかな、赤。花弁に色を添えたい。そうしたら、もっと綺麗に咲いてくれるだろうに。色見のない自分のようではなく、命の明るさに溢れた綾都のように。

「俺はこれも好きだけど、確かに、色があっても綺麗だろうな」

 絵の道具がほしいな、と悔しそうに綾都が言う。

 外には雨が降っていた。開け放した戸から、さざめく様な音が忍び込んでくる。降りしきる紅雨に、庭に満ち満ちた緑が、花が、土が、煙るような香りを漂わせていた。湿り気を帯びた、匂い香のように閉じ込められた空気だった。

 軋む廊下を歩く足音が聞こえ、絵を描いていた慎司は、ぎくりと顔を上げる。筆を置き、座卓の上の紙を隠そうとしたが、失敗した。慌てたせいで筆を置き損ね、黒い墨を吸った筆は、白い紙の上に咲いた花の上に落下した。無残な染みを残し、転がっていく。

 姿を見せた人物は、その物音に、眉根を寄せた。

 動きを止めた筆を見て、慎司の前に置かれたものを見た。

「慎司さん。またそのような」

 少し癇の強さを滲ませた声が降る。老いた女は、少しの姿勢の歪みもなく、背筋を伸ばして立っている。佇まいは品に溢れ、仕草は優美だ。だけども彼女の姿は、気の強さを、折れ曲がることを知らない、許せない性格を感じさせる。声そのままの、神経質さの表れた顔立ちだった。

「すみません」

 でも、と続けると、祖母は更に顔を顰めた。不快、というわけではなく、不機嫌と言うわけではなく、ただつまらないことを耳にした、と言う顔だった。

「慎司さん。そのような、はしたない物言いをなさるものではありません」

 少年は、ますますうなだれて、はい、と応える。

「あなたは、久我のお家を担って行かなければならないお人です。絵など描いて遊んでいる間に、たくさんやらければならないことがおありでしょう」

「……はい」

「書き取りは」

「終わりました」

 隣に広げた論語の書籍と、ずっと続けていた書き取りを見せる。祖母はそれを認めても、良いとも悪いとも何も言わず、ただ、つと手を出した。

「お貸しなさい」

 問うように、窺うように、そっと慎司が見上げる。相手の目線は彼の手元を見ている。

 慎司は再び目を落とし、もう、すでに命を無くした椿の花を、祖母に渡した。細く骨筋ばった手で、祖母はつまらなそうに受け取ると、そのまま紙を二つに切り裂いた。何の感慨もない表情で、無慈悲に。簡素な音が空気を細く乱す。

「せっかく、慎が描いたのに」

 高い声が上がった。

 背筋を伸ばし、座卓に手を突いて半ば膝立ちになった綾都が、鋭く続ける。

「きちんと、言われたことは終わらせていました。慎司は悪くありません」

「終わったなら、次にすべきことがある筈です。怠けてよろしいなどと言ってはおりません」

「でも、慎司には折角、才があるのに」

「そのような小才、役には立ちません」

「おばあ様に、小才かどうか、分かるのですか」

 はきはきとした声で、綾都が言い返す。さすがに言い過ぎだ、と慎司は色白な頬を更に青褪めさせた。綾都の袖を引く。けれど綾都は少しの怯んだところもなく、歪みない眼差しで祖母を見上げていた。

「綾都さん、あなたは黙ってらっしゃい」

 祖母の眦が釣り上がる。

「どうしてですか」

「綾都さん」

 声が乱れる。辛うじて、甲高く喚き散らしたものにならないのは、彼女の誇り故か。

「あなたは、久我の家の者であって久我の家の者ではありません。泥の血の混ざる子は、お黙りなさい」

 慎司の顔がますます蒼白になる。対して、綾都は怒りに頬を染め、強く相手を睨みつけた。更に言葉を口にしようとするのを、慎司が必死に袖を引いて止める。それにようやく気がついて、綾都は慎司を振り返った。そこにある怯えた、そして悲しそうな顔を見て、瞳に篭っていた怒りが引いた。腰を落とし、座り込む。

「口答えの罰です。二人とも、廊下に出て正座していらっしゃい」

 しかしとうとう、祖母の勘気に触れてしまったようだった。雨の吹き込む渡廊を指して、彼女は言った。いつまで、とは言わない。以前も、数刻もの間、同じように座らせられていたことがあった。冬の寒い最中に、凍えて立てなくなる程。

「お爺様にもお伝えしておきます。明日には戻っていらっしゃいますから」

 祖父は、武士が刀を挿して歩いていた頃の、武家の人間だ。今は貿易などの事業を主に人間を動かしているが、元は武断の人だった。厳格で、融通の利かない、そして弱いものが嫌いな人だった。絵を描くのも教養のうちとは認めず、子供たちが自分の許容の内にないことをすれば、容赦なく打ち据えた。

 慎司の肩がびくりと震える。それを見て、今度は綾都が、悲しそうに、そして再びの怒りを込めて唇を噛み締めていた。



「綾都、ごめんね」

 青褪めた唇を震わせながら、慎司は揺れる声で呟いた。

 しとしとと、雨が膝を濡らしている。ぬるい香りの中に、冷たい雨が降る。目の前の庭の草木が、しずくの重みに揺れている。

 並んで木の床の上に正座した綾都は、首を振って言う。

「口答えしたのは俺だから、ごめんな」

「ううん、ありがとう」

 慎司は頭を振り、笑みを滲ませて綾都を見る。綾都は、安堵したように笑みを返した。それから、強く怒気を孕んだ息を吐いてから、顔を前に向けて言った。

「どうせもう少し大きくなったら、東京の学校に行くことになるんだ。こんな家、出て行ける。もう少しの辛抱だよ」

「家を捨てるの」

「別に、捨てなくたっていいよ。いつかは慎司のものになるんだから、今だけ頑張って我慢していれば、いつかたくさん、楽しいことができるから」

 それも決して、遠い先のことではない筈。そればかりを思い描いて、耐えている。

「いつか、一緒に、外国に行こうな」

 二人で痛みを分け合って、先の楽しみを語ることでしか、歩んでこれなかった。

 だがそれは、何にも勝る楽しみだった。現実になることが難くない、絵空事ではない物事のはずだから。今さえ耐え抜けば。

「うん」

「たくさん、色んなものを見て、色んなことをして、お前は、色んな絵を描くんだ」

 それが俺の楽しみでもあるから、と綾都は笑う。

 慎司は、素直に頷く。

 閉じ込められた世界。歪められた、押し込められた世界だった。

 それでも、明るかった。例え淀んではいても、痛みばかりでも、明るかったのだ、本当に。


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