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前の1:旅人


泣に涙なく叫ぶに声なく、


後に心神こころみだれ、

其肉の腐りただれるをおしみて、

肉を吸、骨をなめて、はたくらひつくしぬ。




 そこは様々な土地の人々と物が行き交う、賑やかな宿場の町だった。街道を挟むように店が軒を連ねて並んでいる。

 通りすがる人々に土産物を売ろうとする店、軒先にも座敷をもうけた飲食店、町の中心事業となる宿屋。呼び込みをする元気な声に、思わず足を止める人がいて、先を急ぐ人がいて。たくさんの人にあふれた町だった。

 しかしそれは、ほとんど昼間に限ったことだ。

 夕刻も近くなれば山越えをあきらめた人が、山の向こう、隣りの町で宿を取る。先を急ぐ人は、町に見向きもせず夜になる前に山を越えようと、とにかく去ってしまう。山に囲まれた宿場の町は、もう一つの山越えをあきらめた旅人が頓挫する場所だった。

 東京を遠く離れた田舎には珍しく、瓦斯灯がしつらえられ、夜が安全なようにと図られてはいるが、夜はやはり暗く、ざわめきは昼とは異質のものになる。

 まだ夕刻の手前、茶店の軒先に設けられた座敷に、長い黒髪を肩に垂らしてくつろいでいる人がいた。

 男子はさんぎり頭、未婚の女性は前髪や横髪をあげて背に流すこの時代、ただ長く垂らしただけのその髪は少し変わっている。

 着物の丈を短く着込むのは旅人なら当然だが、少し短く着込みすぎというものだろう。袖も短く切り取られていて、貧困した者と大差ない恰好だったが、見れば、艶やかな生地は上等のものだと分かる。生地と変わらぬ色合いの糸で施された刺繍は、目立ちすぎず細やかで、上品だった。

 けれど、誰もが振り返らずにいられないのは、むしろ中性的な美貌のせいだろう。本人にしては滅多にないほど楽しげに笑ませて、焼き団子を頬ばっている。

「店員さん。お団子追加」

 れんは弾んだ声で店の中に向かって声を上げる。明快な声は、女性とも男性ともつかなかった。体つきで、なんとなく少年だと分かる。

 かけられた声に応えて、店の中から顔を出す者がいる。暖簾を両手で押し分けて、長く伸ばした髪を後ろで束ねたきりの男が姿を見せた。端整な顔立ちを渋くして。

「お前、いい加減にその辺りで」

「お客様に向かってその口調は良くないと思うけど」

 団子の串をくわえたままで楽しそうに言う。

「お客様、食べ過ぎはお体によろしくないかと存じます。最近、お顔が以前よりふっくらなさってきていらっしゃるようですし、おやめになった方がよろしいかと。串をくわえるのも御下品でございますよ」

 にこりと、整った顔立ちで笑ってそうは言う。本人がどう意識しても嫌みがこもらない、穏やかな笑みだった。それが、今彼にとって不本意であっても。

 中途半端に慇懃無礼な言葉で返してきた相手に、蓮が厳しい目で睨む。

 こちらは奏とは正反対に、我が儘のよく似合う人だった。それは相手に、仕方がないな、と思わせるようなものを匂わせたものであったけれども。甘えることにも、それを許されることにも慣れている。

「旦那さん。お宅の店の人が生意気なんですけど」

 首を伸ばして奥へ向かって大声を上げた蓮に、慌てて奏が同じようにして奥へ怒鳴る。

「なんでもありませんから。……追加、持ってくればいいんだろ」

「十、数えるうちね」

「無理だって」

「そうだねえ、財布すられて文無しになっちゃったとろくさい誰かさんには無理かもね」

「うるさいやい」

「ま、どうせ大した金額入っていなかったし、掏摸すりの方も、奏の財布なんか盗って後悔してると思うけれど」

「どうせ、蓮ほど金持ちではありませんとも。お前は、金持ちをたぶらかすのがうまいから」

 揶揄するように言われ、奏はいじけて奥へと引っ込んだ。蓮は後ろ姿を満足そうに見送り、艶やかな笑みを浮かべて、嬉しそうに道を眺めて待っている。

 この町に足を踏み入れる人の例に漏れず、旅人の彼らがこの町に立ち寄ったのは、未だ太陽が中天にあった頃だった。このまま山を越えれば昼食を逃すことになると蓮が駄々をこね、山越えの力づけにということでこの店に入ったのだ。そして食事をして店を出ようとしたとき、奏が財布をすられていたことに気がついた。

 蓮の財布は無事だったのだからかわりに払ってやれば良いものを、おもしろがって拒絶したので、奏は警察へ突き出されるかわりに、店で働くことで許してもらうことになったのだった。

 彼も掏摸の被害を届け出れば良いのに、まるでその気はないようだった。蓮の言う通りに、わずかしか持っていなかったからということもあるのだろうが、例え大金が入っていても、届け出なかっただろう。役人は苦手だから、と分かるような分からないような理由で。

 おもしろがって、蓮が先刻からからかっている。この町に一日足止めを食らうのも一向に気にした様子もなく、店に居座っていた。

「はい、お客様。お団子とお茶をお持ちしました」

 盆に載せた皿と湯飲みを持って、奏が再び蓮のところへくる。淹れたてのお茶の爽やかな匂いが、湯気と共に漂った。蓮の横に気をつけて置くと、引っ込もうとした奏の腕を蓮が掴んだ。満足げな中に、新しい思いつきをした、底知れない笑みをして。

「ねえ、店員さん。肩こっちゃったあ。そのくらいおまけして欲しいなあ」

「お前な」

「ぼくがさっきからこの店でどれくらいお金使ってるか知ってるよね」

「それとこれとは別問題」

 あきれたように奏が言って、店の中をうかがって振り返るが、会話が聞こえているはずの店の主人は彼らの方を見ていない。怒られないと言うことは、別に構わないということだろう。実際今は忙しい時間ではなく、客などちらほらといる程度だった。つい、つぶやいてしまう。

「俺の方が肩揉んでほしいくらいだよ」

「なんか言った」

「いいえ、なんでもありませんよ」

 奏はため息をついて、少し行き過ぎていた体を戻すと、蓮の細い肩に手を置いた。

「こってるところがあったら言ってくださいねえ」

 やれやれ、という調子の声音ではあるものの、投げやりではなかった。もともと、人に何かをしてあげることが好きな彼である。それに、にこにこと笑って嬉しそうな蓮を見るのが嫌なことではないので、ついつい甘やかしてしまう。


 そんな彼らの視界に、少し違和感のある光景が入ってきた。道を行き交う人々、立ち止まって話をしている人々、その向こうに困惑した顔の少年が見えた。形振なりふり構わないほどに必死な様子で、目に留まる人を捕まえては何かを聞きまわっていた。きちんとした洋装を着込んでいるから、それがまた目立つ。

「道にでも迷ったのかねえ」

 蓮の後ろで、奏が気にかかったように言う。けれど少年はそんな様子ではなかった。

 道を尋ねるのは町に不慣れな者で、ここならば、旅人と大抵相場が決まっている。ところが、尋ねられている人々は少年のことを知っている様子だった。声をかけられ、困った様子で問いかけられると、皆申し訳なさそうに首を振る。彼が何を問いたいのかもう知っていて、応えられないのが申し訳ないというように。

 観察するように見ていた彼らの視線に気がついたのか、少年はふと首を向けた。目があって、奏は困ったように笑う。すると少年は彼らの方へ駆けてきた。

「すみません。お尋ねしたいのですが」

 声をかけられて、蓮は渋い顔をして相手を見遣った。

 問いかける声は丁寧で、慌ててはいても捲し立てるようなものではない。おっとりしているような印象があった。相手を見る眼差しも仕草も上品だ。纏っている洋装は、一目で仕立がいいのが見て取れた。皺ひとつなく、それがどれだけ手入れされているかも分かる。たが少年自身に、どこか疲れた雰囲気があるのは否めない。

「道聞かれてもわからないよ。ぼくら地元の人間じゃないし」

 奏が何かを答える前に、蓮が言った。あまり善意とは言えない態度の蓮にも気にせず、少年は続ける。それだけ、必死なようだった。

「いえ、あの。人を探しておりまして」

「ああ。人探しか」

 今度は、蓮が何か言う前に、奏が応える。それで得心がいった。

久我綾都くがあやとという人を探しております」

「男の子なのか」

「ええ、歳はぼくと同じで。短い真っ黒な髪をしています。ちょっときつめの顔の子なのですけれど。今日は、緑の着物を着ていたはずで。……もしかしたら、少し様子がおかしいかも知れません」

 様子がおかしいとは、やはり尋常ではないようだった。もう興味を失った蓮のかわりに、奏が首をひねる。

「この辺りに来たのは、確かなのかな」

「いえ、それが分からなくて」

 行方をくらました、ということか。奏は随分と長い間この店にいるが、そういった少年は見かけていない。

「ごめんな、見かけてないよ。どうかしたのか」

 すると、期待した答えが返ってきたわけではないのに、少年はさほど気落ちした様子を見せなかった。落胆するのには慣れているのだろうか。急いでいるからだろうか。

「いえ。お時間取らせてしまって申し訳ありません。ありがとうございました」

 少年は礼と謝罪をしただけで、事情を教えてはくれなかった。それだけ急いでいるのだろうに、すげない印象を与えない丁重さで頭を下げる。

 そして身を翻して駆けていくと、同じように人を捕まえては問いかけている。そうして人混みにまぎれて遠ざかって行ってしまった。

「なに、あれ」

 見送って、不満そうに蓮が言う。

「さあなあ。どこかのお坊っちゃま、て風だったけどな」

 対して、奏は心配そうだった。お人好し、と蓮が顔を背けてつぶやいている。奏の手が止まっているのに文句を言おうとしたが、続けられなかった。

「あれは、お山の久我家の御曹司で、慎司しんじ様だよ」

 横から声がかぶせられる。少し離れた辺りに、蓮と同様、長々と店に居座って話し込んでいた中年女性たちのうち一人だった。身を乗り出して、興味深げに蓮と主に奏を見ながら、教えてくれる。

「慎司様って」

「華族様さ」

「ああ、なるほど」

 妙に納得してしまった。物腰の柔らかさも丁寧さも、育ちだろうか。

「お山に大きな屋敷が見えるだろ。あれが、久我のお家」

 彼女が指さしたのは、町を挟む二つの山のうち北に当たる方だった。見ると確かに、山の中腹から少し下のあたり、木に囲まれた中に大きな屋敷が見える。

「この辺りの土地はほとんど久我の家のものだよ。あの家のある山も、反対の山も。高貴な血筋の方で、皇家の血筋の姫君をお嫁にいただいたこともある家系だそうだ」

「貴族か」

「元は、武家だって聞くけど、今は外国との商売もしているみたいだね。おかげさまで、この町も、他よりは栄えてる」

 なるほど、と再び納得する。だから町の人も彼には丁寧に接する。慎司と言う少年自身、町の人に好意をもたれているのだろうことが、なんとなく分かった。

 国が引っ繰り返り、政府が入れ替わり、新政府の立てた新しい政策は、欧米諸国におもねるようなものばかりだった。身分の壁を払うために作られた法令もあったが、完全に機能しているとは言い難く、そもそも法令自体が曖昧に過ぎた。完全に捨て去ってしまうには、元々身分を持っていた者が納得しないのだから、仕方ないと言えばそれまでなのだが。

 けれど少年は、平等とは名ばかりの社会で、よほど優位に立つのに、決して高圧的などではなかった。誰に対しても、ただの旅人の奏たちに対しても、すげなくされても、丁寧に接していた。町の人も、彼の問いに答えられないのが申し訳なさそうだった。

「名家の跡取りか。それにしては、なんでこんなところを一人でうろついてるんだ」

「ああ、それは」

 少し、言葉を濁すように女性は困った笑みを浮かべた。けれどその顔には少しばかり好奇の色があって、話したがっているのがなんとなく分かる。

「慎司様は学生さんでね。東京の学習院に行かれていたんだけど、先頃、先代のご当主が亡くなられて」

「ああ、跡目相続か」

「そう。跡目のために学業をお休みして帰っていらしている、っていうのが表向きだけどね」

「表向き」

「お葬式の時に、一緒に東京に行かれてた従兄弟と帰ってこられたんだけど、その従兄弟がご病気で。それからずっとこちらにおられるから、ご自身のためというよりは、従兄弟の休養のためなんだろうねえ」

 東京は随分と、狭苦しくて騒がしいところだというからね、と彼女は言う。

「まあ、確かに。ここ程のどかではないね。近頃は、西洋文化を取り込むのに忙しくて、明るくて暗い」

 奏が応じると、おや行ったことがあるのかい、と女は大仰に受けてから、続けた。

「なのに従兄弟の綾都様が、安静にせずに、家を抜け出しては町を徘徊しているものだから、いつも走り回っては探しておられるんだよ。慎司さんは、綾都さんの他に近い身寄りもおられないみたいで、昔からたくさん苦労をなさっていて、おかわいそうだよ」

 この町では、誰もが知っている事情なのだろう。町の名士が、毎日毎日、従兄弟の行方を捜していては、それは話題にもなる。日常の風景にもなるだろう。

 大変だなあ、と奏がため息を落とす。まるで俺みたいだとつぶやいて、蓮に手をつねられた。

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