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後の7、いのちの在処

「月は江を照らし、松風が吹いている」

 朗とした声が、耳に届いた。

 雨脚が強くなったわけではないのに、最前までよりも、雨の音が鼓膜をきつく叩く。その中を、通りの良い声が言った。

 はじめからずっとそうだったが、彼の声音が決して責めるようではないことに、慎司は改めて気づく。何もかもの所業を分かっていながら、彼は変わらなかった。

「この永夜の清らかな宵の景色は何のためにあるのか」

 以前残した言葉を、また奏は口にした。


「どういう意味か知ってるかい」

 問われた言葉に、慎司は力無く笑んだ。嘲弄ではなくて。

 ――月の光と、かわと、風。雨はなく。

 ゆっくりと息を吸う。

「知っています」

 穏やかに言葉を返す。厳かに。意味も無く、雨にまぎれて涙が流れていく。嘔吐して苦しいからだ。それだけだ。


「ただそれは、あるがままにそこにあるということ」

 月も江も風も、それらの作り出す佳景も、なにもかもが、ただそこにあるもの。何者でも何物でも。誰のためでもなく、誰ものためでもあり。

 何者であっても。

 ただ、あるだけのもの。

 何かの意義なんて、何かを成そうなんて、おこがましいことだ。

 月は姿を変え、川は流れ、すべては同じままにとどまらない。それを引きとめようとするのは、あまりにも、愚かしいことだ。

 静かにそこにある世界。鎮まり、移り変わり行く世界。新しく生まれ、死んでいく。繰り返し、繰り返し。


 再び奏が問うた。

「綾都は」

 つかの間、舞い風が辺りを揺らす。翔り去るものが、空気を、髪を、衣服を乱す。重く濡れた草木をざわめかせて、逃げていく。

 相手を視界におさめ、慎司は身を伸ばして向き直る。手をあげて、掌を己の胸に向ける。

 抑える。


「ここにいます」

 ――まだ、しつこく、動き続ける心の臓。

「ぼくが、食べました」


 雪は絶えても、まだ夜は冷えた。花冷えの季節に、屍体の衰えは遅かった。それでも、血の巡らない体は朽ちていく。あるべき姿を失っていく。

 耐えられなかった。

 呼吸を止めた肉体は、灯火を消したように精彩を失う。心の臓が止まった生き物が、ただの物に成る。腐臭をさせながら朽ちていく。


 認められなかった。

 だって、生きていたのに。笑っていたのに。怒っていたのに。意志があって感情があって、そこにいたのに。壊れていく。


 許せなかった。

 眠っているだけなのに。それだけなのに。そのはずなのに。


 血の巡らない、色を無くした唇に歯を立てれば、硬直から解けた柔らかい肉は思うよりも簡単に裂けた。食い千切る意志を持ったなら人の歯は十分な凶器だ。あまりにも容易く、それが余計に悲しく、そういったひとつひとつが、精神こころを弛緩させた。澱んだ血の一滴も、骨すら砕いてすべて。

 奏は、表情を変えずただ聴いていた。責めず、詰らず、罵らず、逃げもせず。慰めもせず。わずかに哀しみのこもった声を出す。


「肉を手に入れたところで、同じものにはなれないのに」

 いくら肉の塊を飲み込んでも、ひとつであることはできないのに。

 それを租借して、飲み込んだところで、事実は消えないのに。糧になって体の一部になって、臓腑が吸い上げても、彼は戻ってこないのに。

「知っています」

 失われたものを取り返すことはできないのに。

 あの声も言葉も微笑みも、気遣ってくれた思いすら、遠くなるだけなのに。汚濁させてしまうだけなのに。

 肉の内に、思いは、どこにもないのに。

 痛感した。何もかもが抜け落ちていくのを感じていた。壊れていくのを感じていた。

 だからこそ、無関係の人間を襲い続けた。


 死を、否定して。眠りの領域を侵して。取り込もうとして。分かっていたから、自棄になった。何もかもを恨み、何もかも巻き込んでしまいたかった。

 闇を拡大させるように。

 ――床が延べられたままの部屋。彼がいたときを保とうとして。意味も無いのに。

 綾都、ぼくが持っているものならば、何であっても君にあげたのに。

 どうしてこの灯あかりだけは、誰の自由にもならないのだろう。


「わかって、いました」

 多分、本当は正気だった。

 ずっと正気だった。ただ、悲しかっただけで、自分が何をしているのか、知っていた。

 よく、分かっていた。

 ただひたすら悲しかった。




「あなたたちは何者なのですか」

 出会った頃と変わらず、知性の潜む目は、奏を見ている。

 今までとは逆に問いを向けられて、奏はくすりと笑いを落とす。

「何も持たない、ただの旅人だけど」

「町の人間が駆けつけてくるだろうと言った。ぼくはこの家と道と町を知っているから、誰よりも早くこの家に戻れた。でも、どうして、余所者であるあなたが、誰よりも早くここに来ることができたのです」

「少しばかり、普通より足が速いのは、確かだな」

「呼吸も乱さずに、ですか」

 姿を見せたとき、彼は少しも焦った風でもなく、苦しそうな息をする様子でもなく、空気を乱さず雨の中にまぎれていた。駆けて来たのではなく、空間を割って現れたかのように。

 まるで、はじめからそこにいたかのように。

 首に巻かれた包帯も、雨に打たれて塗れている。なのに血が滲む様子もなく、彼は少しの痛みも見せない。

「気のせいじゃないかな。あんたは、動転していたようだし」


「ぼくは、あなたを殺しました」

 はぐらかすのを許さず、慎司は続ける。

「ぼくは確かに、あなたの首を狙って、祖父の脇差を刺したんです。暗かったけれど、手ごたえはあった。家に戻ったとき、確かにぼくの手は、血で真っ赤だった。あなたに血まみれで捕まれた手の跡が残っていた」

「血の量の割りに、たいした傷じゃないと言われたけど」

「そんなはずありません。ぼくはこれでも、武術を叩き込まれています。だいたいの予想はつきます」

「ただの予想だろう」

「もし、急所を外したのだとしても、数日のうちに、そんなに動き回れるはずがありません」

 相手は、そうかい、とつぶやいて、何も答えなかった。それ以上は、余計な言葉を挟まなかった。 


「あなたたちは何者なのですか」

 言葉は、ゆるやかに空気を渡る。

 月は、空高く遠い。薄く覆う雲に隠れて、仄かな明かりを地面に投げている。触れるように降る雨が、その姿をさらに滲ませる。さわさわと耳をなでるような音で、静かに、静かに濡らしていく。

 問いかけに、束の間表情を消し去ったそのひとは、そうしていると端整な顔立ちを思い出させる。いつもは、懐こい表情に、言葉に誤魔化されている。ただびととは思えないような、冴えた容貌だった。


「さあ、何かな」

 そして彼は笑う。前髪から雫を落としながら、人の姿をした何者かは、いつも通りに、人のような笑みを見せた。

「それはあんたが決めればいい」

 穏やかに、ゆるやかに。

「俺たちは、財産も住むところも、自分自身とお互い以外には何も持たないただの旅人だ。あんたにとって何者かは、あんたが決めれば良い」

 謎かけのように。はぐらかすように。

 楽しそうに一つ息をついて、彼は続ける。

「弾劾するかい」

「いいえ」

 睫毛の上に雨が降る。重く瞬いて、慎司はにじむような笑みと共に言った。

「ぼくも、もう人ではありませんから」

 人のようではない存在に、人から外れたことを指摘される不可思議さが、おかしくも楽しく滑稽だ。けれど、不快ではない。ただ無責任な正論を、正義を突きつけられ、偽善に溺れられるよりは、余程心地が良かった。


 密かに揺らぐ月の光と共に、雨露が落ちている。雫が地面を、屋根を叩き、風が草木を揺らす音にまぎれて、人の声が聞こえてきた。少ない数ではない。そして、囁くような声でもない。

 夜、人は出歩かない。瓦斯灯が、皓皓と夜を照らし出すようになっても、まだ深い闇は残っている。押しのけられ、さらに濃く、強く蟠っている。この山の中のように。

 この、人の心のように。そうして人々は、怒りの声を発しながら登ってくる。道すがら数を増やして、追いついてきた。


「行ってください」

 慎司は、急に少しだけ眉を強くして、奏に言った。

「あんたは」

「ぼくのことは、どうとでもなります」

「俺たちのことだって、どうとでもなる」

「でも、あなたたちがここにいるのを見られるのは、良いことではないはずです。ぼくのことは気にしないでください」

 権力と金がある。

 だが人の怒りと恐怖は、それを上回ったとき、どうなるか分からない。

「あんたひとりなら、連れて逃げることくらい簡単だ」

「ぼくを助けるのですか。ぼくは人を食らったのに、命も何もかも奪い尽くしたのに、ぼくのような者を助けるというのですか」

「それが綾都の願いだろう」

 ――――たったひとりになっても、生きて。


「いいえ」

 けれども慎司は、確とした態度で首を横に振った。清々とした笑みを浮かべて、言った。

「ぼくも、あなたたちのように生きたかった」

 財産も家も、名もいらない。ただ、綾都と生きていければそれで良かった。たとえ己が何者であろうとも。

 何もいらない。何も何も、何も。

 願った。綾都もきっと、同じように願っていた。


 だからきっと彼は、自分がいなくなった後、慎司が生きていけるようにと願ってくれたはずだ。だけどそれが願いでしかないことも、分かっていたはずだ。逆に彼自身だったら、どうするかも。だから、強要しようとはしなかった。何も約束をしなかった。

「行ってください。人の記憶に残るのは、あまり良いことではないのでしょう」

 慎司の言葉に、奏は、聞こえていたのかと、少し困ったように笑った。

 外から、門を打ち叩く音が響いている。



 奏が踵を返し、薄雨の向こうに消えていくのを見送って、慎司は外の松明や人の怒号を気にもかけず、ひたひたと音を鳴らして歩き出した。

 霧のようだとは言え、ずっと雨の中に立っていたせいで、着ている物や髪が濡れて重い。庭から上がり、広々とした廊下を歩くところに、水の跡が残っている。

 外はけたたましいのに、門と塀を隔てた屋敷の内は、寂せきとして重い。光の届かないところばかりだ。闇が息を潜めている。


 慎司は倉へ行き、西洋灯ランプのための油を入れた一斗缶を引きずり出した。油を滴らせながら、また屋敷の中を歩いていく。独りでいるには、あまりにも広い。そして目に付く部屋に向かって、順番に、念入りにぶちまける。


 綾都が寝ていた部屋にも。

 祖父の部屋、祖母の部屋、両親や綾都の両親が住まった部屋。食事をした部屋。

 遊んだ庭、美しい草木が咲き誇った庭にも。むせ返るような油の臭いが、しめやかな空気の中に満ちていく。花の香は雨に閉じ込められ、重みを持った油の臭いに蓋をされる。

 そして慎司は、自分の部屋に戻ってきた。部屋に満ちた油彩の臭いと石油の臭いが混じって、部屋の中で重く淀んでいる。


 燐寸マッチを擦り、西洋灯に火をつけた。暗い室内を、日中のような明かりが照らす。色とりどりの絵画を。祖父母が亡くなってから、この部屋でひたすら絵を描いた。描きあげたたくさんの絵と、画材と、絵画の勉強のためにかき集めた本が積み上げてある。貴重で、大事な書物だった。祖父母が生きていた間は、こういったものに気づかれ、取り上げられるのをひどく恐れたものだ。今はそれすら遠い。

 慎司はまるで何かの儀式のようにランプを持ち上げ、絵の上に落とした。硝子ガラスの割れる鋭い音が響き、炎が噴き出した。火の舌は、絵を舐めあげていく。


「鬼の所業を繰り返して、綾都のところに行けるわけもないのにね。清らかな者の元に行ける道理もあるわけないのに。死んでからでさえ、引き離される羽目になるのに」

 だけど悔やんでいない。死した人に、謝罪の気持ちも、哀れだという思いもない。

 このまま朽ちれば、自分はどうなるのだろう。どこに行くのだろう。鬼は死んだらどうなるのだろう。

 塵になって、消えるのだろうか。どこへ行くことも出来ずに。

 目を延べて庭を見る。雨に霞む花が見える。

 季節が戻ったような錯覚に陥らせる、雪柳。枝の上に、空の欠片が降り積もったかのようだ。重たげに枝を揺らしている。溶ける事なく。消えることなく。

 彼が笑んでそこに佇んでいた頃を、錯覚させる。


「綾都。ぼくに嫌われようとして懸命だったけど」

 雨がなでるように降っている。だけど大した妨げにはならないだろう。

「嫌いになるわけ、ないんだよ」

 炎は、油にまみれた床を本を舐め広がっていく。

「ごめんね」

 ぼくのために一生懸命になってくれたのに。



江月照松風吹こうげつてらししょうふうふく 永夜清宵何所為えいやせいしょうなんのしょいぞ

 月の光はあえかなり、雨の帳とばりは、幽冥への扉。

 そこにただある風景。

 美しい風景。

 ぼくの目に映る世界を彩るものすべて。

 何のためかなんて。



 それはただ、君のためだけだったのに。

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