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後の6:消えない

 慎司はふらふらと歩を進め、開け放ったままだった門を抜け、ただ惰性で閉めた。家の門は、家の大きさを象徴し、外から来る人を圧倒するものだから、こんな場所なのに威圧感を放っている。

 家にあがり、汚れた足のままで長い廊下を、畳の上を歩く。屏風で囲まれ、多くの襖で仕切られた室内は、開け放つと、ただひたすら広い。音も無く人の気配も無く、光も無く。

 惰性のまま歩き続け、何とはなしに辿り着いた部屋で足を止める。床が延べられた部屋。

 眠ろうと思っていたわけではなくて、ずっと敷かれたままのもの。その脇にすとんと腰を落として、座り込む。そして咥えたままだった血肉の塊を、口から離す。それの指先についた血を舐め、掌を舐めあげ、再び歯を立てる。


 口の中に広がる、苦味。滴り落ちる雫。租借して、飲み下す。

 異物感。それでもまだ、繰り返す。

 不味いとも旨いとも思う前に飲み込んで押し込めていく。

 消してしまわなくては。何もかも、目の前から消し去って。離れることのないように。

 けれど突き上げてくるものがあって、慎司は貪るのをやめた。

 胃から物がこみ上げてくる。激しく嘔吐して、床にぶちまけた。臓腑が拒んでいる。

 腐臭の漂う部屋にえた臭いが混じる。その臭いに誘われて、また胃の中身が逆流する。体に吸収される前の、形を留めたままの物が、唇から溢れ出た。全身を脱力感が襲う。まるで汚物の溜まりのようだ、この体は。


 精神は常軌を逸しても、臓腑は飲み込むのを、受け入れるのを拒むのか。脳が命じても、無意識は道徳を重んじるのか。意志を持たない無機物が、正論を語るのか。

 ふいに、笑いがこみあげてきた。くつくつと喉を鳴らす。気がつくとそれは口からあふれて、哄笑が辺りを満たしていた。ごろりと転がって、天井に向かって、笑いを撒き散らす。

 湿った空気の中を、窮屈に広がっていく。


 慎司は口をぬぐい、頬に笑みをにじませたまま立ち上がった。つながる肩のない腕を掴んだまま、ゆらゆらと歩き出す。

 雨が降っている。

 細く儚い雫が、霧のような雨が、地面を叩いている。柔らかい音で、屋根や草木を叩いている。髪や服を湿らすように濡らしていく。

 庭土に降りて、天を仰ぐ。薄く雲の幕を張った空。月が、ぼやけて見える。明かりすら薄く、空気は黒い。だが地面に落ちた水が、僅かな光を返してきらきらと揺れている。


「やあ」

 雨の幕の向こうから、庭の中を、ひたひたと地面を渡って歩いてくる影があった。

 目を瞬いて、睫毛に乗る水を落とす。にじむ視界を払って、慎司は相手を責めるでなく、静かに問いかけた。

「どこから入ってきたんですか」

「俺はどこからだって入れる」

 奏は少し物騒で、あまり答えになっていない言葉を、たいしたことではないように答えた。長身を頓着なく雨曝しにして。


「物騒ですね。ここが華族の家だと承知で、勝手に入ってきたのですか」

 責めるような口調で、慎司が言う。けれど問い詰めるようではない。本当に不審に思ったからではなく、こういう時はそう問いかけるものだろうという、ただの惰性のようなもので。

「今更、権力を振りかざすのかい。前はあんなに居てほしいと言っていたのに」

 相手も動揺などせずに、くす、と笑いを落とした。

「綾都が望んだから」

「今は望まないのか」

「さあ、どうでしょう」

 ことり、と音が聞こえそうな仕種で、少年は首を傾ける。ほんの僅か思案してから、けぶるような笑みをうかべる。

「ぼくは綾都で、綾都はぼくだから、ぼくが嫌だと思ったら、綾都も嫌だと思っていると、思います」

 曖昧に答える。眼差しの先は奏を見ているのに、据えられてはいない。奏は束の間口を閉ざし、同じように首を傾けて、淡く笑んだ。

「それじゃあ、綾都に聞く」

「やめてください」

 先刻とは打って変わって、切り返すような声が返ってきた。奏はやはり、動じない。

「どうして」

「関わらないでください。もう」

「どうして。本当のことを見るのが嫌なのかい」

 今度は、慎司が口を閉ざす。

 どうして。

 さわさわと、そぼ降る雨が木の葉を鳴らす。

 答えが返らないことなど気にしない様子で、奏は、問いを降らしていく。


「何をしているか分かっているのかい」

「分かっています」

「あんたが持ってる、それは何だい」

 言われて初めて、それに気づいたかのように慎司は自分の手元へと目を落とす。

「人の腕です」

「かじりついてたものは何だい」

「人の肉です」

「その血は、なんだ」

「人の血です」

 淡々と言葉が返ってくる。

「あんたは、何をしているんだ」

「さあ、なんでしょうか」

「どうする。町の人間は、お前を許さないぞ」

「許さないって、何のことです」

「あんたは、やりすぎた。死体を荒らすまでならば、町の人間もこらえたかもしれないが、人を襲いすぎた」

「そうでしょうか」

 何か問題でもあるのか、と曖昧に問う。奏はその慎司に対し、強く言い返した。

「食らっている姿を人に見られたのでは、どうにもならない。怒りも驚きも恐怖も、何も、もう誰も抑えてくれない」

「そうですか」

「しかもあんたは、この雨の中、裸足で下におりた。逃げてきた足跡が、ぬかるんだ地面に残っていた。皆がすぐにここへ押し寄せてくる」

「でも、ぼくではありません」

 手に、体の無い腕を持ったまま、少年は奏を見上げた。邪気のない目で、まっすぐに。

 歯車が欠けたカラクリのようだ。

 そのままで、慎司は唱える。


「恐怖……」

 何への。怒り。何への。

 それじゃあ。奏は問いを口にする。

「あんたが持ってる、それは」

 再び、慎司は手元へと目を落とす。

 ――――なんだろう。

 なんだろう、これは。断面から血を滴らせて、黒い庭土の上にさらに黒い染みを広げるもの。赤く爆ぜた、醜い傷口をところどころに刻んで、歯の形を見せている。

 動かない肉体。


「綾都は、寝ているのか」

 苛むように問いかけは繰り返される。決して、問い詰めるようではない口調で、繰り返し追い詰める。そのくせ雨の中の人は、変わらず静穏な眼差しを向けてくる。

「綾都は」

 考えてはいけない。

 二度と開かない瞳のことなど。二度と開かない唇のことなど。

 冷たい皮膚のことなど。血の流れる音がしない臓腑の事など。

 あれはきっと、そのときのことを恐れるあまりに見てしまった夢なのだから。ひどく恐ろしい悪夢だ。

 ぼくらが離れるなんて、ありえないもの。

「放っておいてください」

 ぼくらは、同じものになったんだもの。

 ――でも、では、鬼の仕業は。

 あの非道は、誰がしたものだと言うのだろう。眠りの域を侵し、人を傷つけ肉を食らい、命も尊厳をも奪い踏にじる、畜生のような所業は。絶望に翻弄され、欲望の向くままに意志を失い抑えつけ、夜の誘いによろめき彷徨うなど、彼がすることではない。

 綾都は、いつも毅然としていた。許諾できないことには真っ向から立ち向かった。気遣うことを知っていた。耐えることを知っていた。明るく優しかった綾都が、そんなことをするはずがない。鬼に成り果てるわけがない。

 では、綾都はここにはいないのか。

 ――そうではない。

 そんなはずはない。


「あなたがおっしゃっていることが、分かりません」

 あの出来事は、関わりのないところで起きたものだから。

「壊さなきゃ」

 夜は苦悩。

 後ろ暗い意識が浮上する。ふらふらと彷徨いだす。

 だけど夜は救いだ。

 偽る必要がもはやない。曖昧に揺れているものが開放される。月だけが静かに赦す。

 ――――壊しても、赦される。


「綾都が望んだのか。それを」

 欺瞞を、怠慢に逃げる意識を、その一言がまたつなぎとめる。

「あんたが道を外れるのを、望んだのか。生きることを望んだんじゃないのか。だからあんたを否定したんじゃないのか」

「違う!」

 喉の奥から悲鳴のような声がほとばしる。慎司の手から、人の残骸が零れ落ちた。

 考えてはいけない。その考えがたどり着く先のことを、考えてはいけない。だけど本当は。

 ――知っている。

 痛ましいまでの、突然の綾都の拒絶が、何を意味していたかなんて。

「違う」

 一緒に、いるはずだから。

「だって、綾都が」

 いない。

 呼んでも応えてくれない。

 いるはずなのに。

「綾都」

 声を求めて呼ぶ。

「綾都。綾都、綾都」

 狂ったように。浮かされるように。酔ったように。狂ったように。

 どうして。

 何も聞こえない。雨の音が邪魔して聞こえない。応えてくれているはずなのに。

 壊さなくては。消さなくては。目の前のものを否定しなくては。


 朽ちていく。

 白い頬。凍りついた頬が脳裏を渦巻く。二度と赤みのささない頬。青白い唇。強張った手。混濁する。目の前の緑と混濁して、催花雨さいかうに誤魔化されて、水の臭いに花の香にかき乱されて。咽返むせかえるような湿った空気の渦。

 呼吸が忙せわしくなる。息を飲み込む間もなく、吐き出す。苦しい。

 胃の腑がたぎる様だ。体の中の物が逆流する。身の内で蠢くものが拒絶する。飲み込んだものを、辿り着く意志を。

 身を屈め、激しく嘔吐えずいて、黄色い液を地面の上にぶちまけた。

 何も、受け入れられない。


 汗がふきだし、何もかもを体の内から吐き出すように涙がふきだいし、身を覆う雨にまみれて滴り落ちた。咳き込みながら、再び笑いの渦が身の底から沸いてくる。嗤笑ししょうが。溢れて溢れて、庭の草木を浸していく。

 喉が、張り裂けるように痛む。息が続かなくなり、眩暈に襲われて、声が止まった。体中の血がどこかへ消えたかのように、体が冴えた。

 温度さえも、逃げていく。

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