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後の3:あやふやに塗りつぶす

 山中の久我の家は、場違いなほどに大きく立派だ。元は大名家筋というだけあって、無骨で圧力を放つ。町の人間が近づきたがらないのも、遠慮をしてしまうのも分かる気がした。

 この土地と関わりをもたない人間にとっても、その威力は十分なものだった。とはいえ、奏はそもそも身分だとかそういうものを気にしない性質だから、他の人間とは比べられないのかもしれない。それでもこの門からは強さを感じる。他者を圧しようという、抑圧を感じる。容赦なく、他者と切り分けようとした意志が、確かにあった。砦のようだ。

 一人で久我家を訪れた奏は、木と鉄で出来た重圧な門を見上げ、少し考え、結局拳を持ち上げた。

 どんどんと、強く叩く。傷口に響いたが、仕方ない。

 最近、慎司も綾都も町にも姿を見せないというから、突然押しかけても出てきてくれるかどうかわからなかった。だからこそ、遠慮よりも、呼ばわり続けないと駄目かな、という意識があって門を叩き続ける。


「誰かいるか」

 それでも、反応が無い。

 傷の痛みがひどくなってきて、拳も痛みだしたので、奏は眉をしかめながら門から離れた。拳をさすろうにも、空いた腕も怪我をしているので、思うようにならない。

 お前は騒ぐから、と蓮を置いてきてしまったが、来てもらったほうが良かっただろうか。わざわざ機嫌を損ねてまで言い聞かせたのに。

 やれやれ、と大きく息を吐く。

 日は高く上っていて、太陽の光は暑いくらいだ。久我の家は強固にそこにあるが、周囲は草木に満ちている。木上にも、根元にも小さな花が咲き、のどかな風景が広がっている。

 昼になってしまえば、陽があれば、夜の恐怖など、幻のようだった。

 自由が利くほうの腕を腰に当て、そびえる門を見て、どうしたものか考える。真正面から正攻法で行くつもりだったのだが、やはり、どうしたものか。

 もう一度声をかけてみようか。そう思い、再び門に近寄って拳をあげようとしたときだった。

 がたん、と向こう側で音がした。

 大きな門の下、出入りのための戸が小さく口を開ける。あげかけた拳を下ろし、様子を見ていると、身を屈めて少年が姿を現した。

 少しまぶしそうな顔をして、中天の太陽を見上げる。その顔がいやに青白い。


「驚いた」

 ひと月しか経っていないとは思えないくらいの変わりようだった。少し髪が伸びたせいもあるかもしれないが、以前よりも頬がこけ、顔に落ちる影が濃い。

 慎司は奏を見て、少し考えるように目をさまよわせ、ああ、と声を出した。

「お久しぶりです」

 眩しそうに目を細め、茫洋な笑みをうかべる。曖昧な表情に、奏は不安を抱きながらも、普段通りに「おう」と軽く応えた。

「迷惑かなと思ったんだが、やっぱり放っておけなくてさ。戻ってきたんだけど」

「そうですか。それは、気にかけていただいてありがとうございます」

 丁寧な物腰は変わらない。だが、以前と何かが違う。――覚えている姿よりも、痩せたように見える。そのせいだろうか。

「大丈夫なのか。随分痩せたな」

「そうですか。あまり、気にしていないので」

「看病する側が倒れないように、気をつけろよ」

「ええ、まあ」

「綾都は」

 問いかけに、慎司はぴたりと口を閉ざした。奏を見ているのに、視線は結ばれていない。

 聞いているのかと不審に思い、奏は再び問うた。

「先に町を通ってきたら、誰も最近綾都を見ないって言うから。どうしているのか、心配になって」

「それは、ありがとうございます。心配されていたと伝えておきますから」

「うん」

 以前は、見知らぬ彼らを気軽に家へ招き入れたのに、彼の口ぶりからだと、門から中に入れるつもりはないようだった。別に期待していたわけではないが、態度の豹変振りが気になる。

 それとも、外部の人間を入れたくないくらい、綾都の病が悪化したということだろうか。――それとも。

 慎司は奏の着物の襟から覗く包帯に気づいたようで、驚いたように声をあげた。

「その傷は」

「ああ、昨夜ちょっと」

「ちょっと、というものでもないでしょう。どうされたのですか」

「町の方で騒ぎがあって。知ってるかい」

「――ああ」

 嘆息のような声で、慎司はただ声を出した。曖昧で、明確に答えない。手応えのなさを感じながらも、奏は続けて言った。

「死体を狙った盗人が出ているのを知っているかい」

「ええ、騒ぎくらいは耳に届きます」

「ここのところずっと、町も人が襲われているそうだな」

「恐ろしいことです」

「お前さん、この町の名士なんだろう」

「ええまあ、名目上はそうですが」

「把握していないとまずいんじゃないのか」

「ぼくが、何から何まで、面倒を見ないといけないのですか」

 少し憂鬱そうに彼は言う。

 綾都のことであれだけ必死になっていたから、他が疎ましくなるのは仕方が無いのかもしれない。けれど以前見た慎司は、町の人間に対して丁寧に接していた。久我と町の人間は同じ土地に囚われながらも、違う位置に座していたが、慎司は同じであろうとしているように見えたのに。彼の言葉とも思えないことに、奏は驚きを禁じえない。けれど同時に、妙な納得があった。先刻からの、気だるそうな様子を見れば。


「綾都は、生きているのか」

 言葉を口にした途端、横をすれ違うようだった慎司の目が、奏を捉えた。

「無遠慮に過ぎませんか。どういう答えがほしいのですか。あまりにも不躾ではありませんか」

 眇すがめられた目が、敵意を孕んだ視線が真っ直ぐに向かってくる。以前、綾都を背負って現れた奏を見たのと同じ目だった。害するものを見る目だ。

「ああ、悪い」

 奏は朗らかに、素直に謝った。

「最近誰も、綾都の姿を見ないって聞いたから」

 心配になって、と言うと、慎司は表情を和ませた。微笑むのとは違う。以前は悲痛に眉を寄せていることが多かったが、そうではない。悲壮感の漂う、そのくせ悠然とした笑みだ。

「安静にしているからでしょう。今までの方が、おかしかったのですから」

「綾都に会えないかな」

「いえ、それは」

 間をおかずに拒絶が返る。

「無理させるつもりはないんだけど。そんなに悪いのか」

「そういうことではありませんよ。綾都もやっと、ぼくの言うことを聞いてくれるようになったというだけで」

「家で雇っていた人間に、暇を出したのだって聞いたが」

「ひとりですることに慣れてきましたので、必要ないかなと」

「前までは医者が多く出入りしていたのに、その様子もないと聞く」

「もっと良い医者を雇っただけです」

「言うね」

 奏も笑みを返す。

「だけど、その医者だってここに来るには、町を通るだろう。町の人間は、誰も知らないみたいだけど」

「噂話ばかり好きで、困った人たちですね」

 哀れむような吐息がひとつ。

「そう、変な噂話が流れてるよ」

 慎司は、何ですか、とは問わない。興味がないということなのだろうか。以前なら、お愛想でもそう尋ねたと思うのに。


「人を食う鬼が出るって」

「何が、おっしゃりたいのです」

「用心しろよってだけ」

「ご忠告、痛み入ります」

「あんたや綾都が姿を見せないから、町の人間が不安がってるんだ。綾都の様子が落ち着いたら、少し散歩でもさせてやれよ」

「そうですね」

「お前さん、様子がおかしいぞ。大丈夫なのか」

「ええ」

 何を言っても、慎司は淡々と相槌を打つ。水面をたゆたうように、頼りない笑みをにじませたままで、あやふやに。迷惑がられているのはあからさまで、奏は少し困ってしまった。

 それでも、再び問いかける。何よりも、気にかかる問いを。

「綾都は本当に、ここにいるのか」

 慎司はもう、過敏な反応を見せることも無かった。風に揺れる花を見遣り、少し睫毛を伏せたまま応える。

「何をおっしゃっているのか分かりません」

 考えては、いけない。

「綾都はいつだって、ぼくのそばにいます。ぼくらはもう、別の者ではなくなったのだもの」

 少年はしあわせそうに、やわやわと微笑んだ。

「何をした」

「ぼくは、何も」

 ――――何も。



 お大事に、と言った奏に慎司は、あなたも、と返して、道を下っていく背を見送る。のどかな風を感じ、大きく息を吸い込んでから家に戻り、門を固く閉めた。軽い足取りで広い家を渡り、自室に戻る。

 家の中で、ここだけ異質な空間だった。和風にしつらえられ、無骨な空気を放つ家の中で、ここだけが西洋のものにあふれている。切り取られたように。切り離したように。

 キャンバスの前に座る。筆を手に取り、パレットで絵の具を捏ねて混ぜて、画面に押し付ける。何度も何度も。塗りこめていく。鮮やかな血の赤。空の青。夜の藍。繁る緑。灯火の色。どんどん、厚さを増していく。

 もはや画面には、何の形も残っていなかった。何の造形も。

 ただ、感情だけが押し付けられて。




「待って」

 唇から声がついてでた。絵筆を放り出し、いつの間にか眠っていた慎司は、床の上で伏していた顔をあげて身を起こす。瞳を開き、瞬いて、目の前を確認する。うつらうつらとしていた眼差しのまま。

「待って、綾」

 ゆらゆらと、まどろむように現実と夢を行き来する。ただよって、ただよって、目覚める気もないまま、ただ揺られている。

 男ならしゃんとして武術を学べ、とやかましく言う祖父もいない。久我の次期当主が絵だなんて、と叱る祖母もいない。父も母も、始めから記憶には遠い。そして。

 慎の絵は奥が深いな、と悟ったような、半分おどけたような口調で言ってくれた綾都も、もういない。幼い頃からずっと一緒に育って、助け合いながら生きてきた綾都は。

 彼はもうあの頃のように笑ってはくれない。

 深く深く病の底に眠るだけで。

「綾?」

 ぼんやりとした声を出しながら、立ち上がる。仕草が危うく、歩くことを覚えたばかりの赤子のように、ぽてぽてとした動きで、歩を進める。

 嫌な、夢をみた。

 綾都がいなくなるなんて、とんでもない夢だ。

「綾都」

 そして庭を眺めて、少年はふわふわとした笑みを浮かべる。嬉しそうに笑う。

 綾都は寒椿が好きだった。雪の中に、緑と赤の花はとても鮮やかによく映えた。静謐の中にも、綾都がとても華やかだったように。けれど決して賑々しくはなかったように。精悍でも、存在を強く教える強い花。だから、慎司も好きだった。

 今、その花はもうない。

 変わりに、別の季節を告げる色とりどりの花が、むせ返るような匂いを振り撒き、満ちている。

 先陣を切る沈丁花。淡い色合いとは真逆に、香りを撒き散らす花。艶やかな寒緋桜。つぼみをつけた鶯神楽。家を出れば、蒲公英たんぽぽや菫が咲き始めているはずだ。命が沸き返る季節。

 だけど、少年の姿は。



 すこしずつ、ひとつずつ、壊れていく。

 ゆるやかに。

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