第五章 A列車でどこまでも
「えっ!送別会で、三年生との最後のセッション!?」
「そう!凄くいいと思わない?」
それは、先日杏奈が出してくれた案で、先輩たちとの思い出が詰まった『A列車で行こう』で、最後のセッションをしようというものだった。
「物凄く素敵だと思います!私もやりたいです!」
その案に一番食い付いたのは、ホルンの一年生、松島怜香だ。怜香は以前から美生に密かに憧れていたらしいが、文化祭以降、開き直ったように美生にベッタリ懐くようになった可愛い後輩である。
「でしょ?流石怜香ちゃん!」
美生は怜香の肩を叩いた。『A列車で行こう』は難しい曲なので、多少は反対意見が出ると思っていたが、他の部員たちも喜んで賛成してくれた。
「送別会はいつ?」
「例年通り、冬休みに入る前がいいよね」
「だったら、今年もゲームとか色々用意する?」
「うん!いいじゃん!」
気が付くとどんどん話は進んでいき、部員たちのやる気を感じさせた。それを見ているうちに、美生の気持ちも高まってきた。
「なんかワクワクしてきた!」
「よぉし、みんなで頑張って、先輩たちを喜ばせよう!」
熱気とやる気に満ち満ちた部員たちが、笑顔で拳を高く突き上げた。
演奏曲を『A列車で行こう』にして良かったと思った。冬休みに入る前の余裕のある時期に、と設定した送別会の日にちまで、あまり時間がないからだ。文化祭で一度演奏した曲なので、練習にはそれほど苦労しなかった。
改めて自分のソロパートを吹き、念入りに確認を行う。連符が多い美生のソロは、小さな指間違いだけでも一瞬でこんがらがってしまうので、丁寧に練習して完璧にする必要がある。何度も同じメロディーを吹き過ぎて、指にも耳にもタコが出来そうだ。
流石に疲れたので、楽器を置いて一息つく。──その時、聞き覚えのあるメロディーが耳に入ってきた。美生のソロの一歩手前、もう何度も聴いて覚えたトランペットのメロディーだ。
「……野坂先輩?」
それにしては若干ぎこちない音な気がする。練習を始めたばかりのような、頼りない雰囲気の音。
二年階の方から聞こえてくるので、音楽室を出て階段を降りた。そして、二年B組の教室を見ると、そこには、例のソロパートを吹く杏奈の姿があった。「杏奈?」と呼び掛けると、杏奈は振り返り、パッと目を輝かせた。
「あ、美生!」
「野坂先輩のソロ吹いてたの?」
「うん、まあね」
「でも、本番では先輩が吹くから今まで練習してなかったでしょ?なんで急に?」
素朴な疑問だった。杏奈はいつも自分の練習で精一杯で、他のパートに挑戦している暇なんてないと、自分でも笑いながら言うほどだからだ。
「んーなんだろう、──恩返しがしたいのかも」
杏奈はこう呟いた。一瞬分からなくて、「え?」と聞き返すと、杏奈は続けて話した。
「あたしって、まだまだトランペット下手じゃん?文化祭の練習も正直大変で。それでも由香先輩は、あたしと一緒になって頑張ってくれてた。だから恩返ししたくて。このソロパートを完璧にして、あたし成長したよって、ありがとうって伝えられたらと思ったの」
美生も、杏奈が由香のことを慕っているのはよく知っていたので納得した。「あとさぁ」と杏奈は続けた。
「あたし、美生のことも想いながら練習してたんだよ」
「えぇ?」
「美生、あたしのおかげで変われたって言ってくれてたでしょ?あたしだって一緒だよ」
再び頭の上に疑問符を浮かべる美生に、杏奈は微笑んだ。
「美生が生まれ変わって、生き生きしてるのを見てると、嬉しいし眩しくて。こんなに胸がいっぱいになれたの初めてで。だから、そんな美生の親友として恥じない自分になりたくて、やったことのないことをやってみようと思ったの」
可愛くて優しい笑顔で、杏奈は言った。驚いたけれど、同時に凄く嬉しくて、美生もつられて笑った。
自分が、人にこんなに良い影響を与えることが出来るなんて思ってもみなかった。文化祭のあのステージが、人の心を動かしたんだと思うと、胸が熱くなる。
「──杏奈なら出来るよ!応援してる!」
「ホント?ありがとう美生!あたし、頑張るね!」
「うん!」
杏奈を見ていると、再びやる気が込み上げてきた。美生はそのまま教室を出て、音楽室に戻った。
「野坂先輩がインフルエンザ!?」
博美からそう聞いたのは、送別会の三日前のことだった。
「うん、だから集まりには参加出来ないって。せっかく色々準備してくれてただろうにごめんなさい、って言ってた。……去年は大丈夫だったのに、今年は運が悪かったみたい」
残念そうに博美は言った。
予想外のことに混乱した。用意していたのが色紙などのプレゼントだけであったら、それほど困らなかっただろう。だが、今回は違う。
大した言葉も発せられず、美生と杏奈は顔を見合わせた。特に杏奈は、顔面蒼白といった感じだった。
「杏奈、こうなったら、A列車のソロは杏奈がやるしかないよ!」
「やだやだむりむり!!絶っっ対無理!」
由香がいないということは、ソロパートは誰かが代わりにやるしかないということで、それは必然的に、唯一のトランペットパートである杏奈が任されることになる。放課後、美生は必死に杏奈を説得していた。
「いけるよ!練習してたんだから!杏奈しかいない!」
何度も言うが、杏奈は首を横に振るばかりだ。
「無理だよ!あたし、先輩みたいに上手じゃないもん!」
「先輩たち、どうしたんですか?」
そこへ、ホルンを抱えた怜香がやってきた。これから練習をしに行くところだったらしい。美生は怜香に大まかな事情を説明した。
「あ~!杏奈先輩がこんなに駄々こねるなんて珍しいなーと思ったら、そういうことかぁ!」
「そうなんだよ~。あと三日しか無いのに他の人に押し付けるわけにもいかないから、杏奈がやるしかないんだけど──」
「やだっ!失敗したら先輩に合わせる顔がなくなる!」
「そんなことないって!……ほら、怜香ちゃんからも何か言ってあげてよ」
後輩から押されれば、杏奈も首を縦に振るかもしれないと思い、手を合わせて頼んだ。だが怜香は、返事をするでもなく、「う~ん……」と唸りながら、美生と杏奈を交互に見ていた。
「れ、怜香ちゃん?どうしたの?」
しきりに唸る怜香に、再び声を掛けると、怜香は、少し間を置いて、呟くように言った。
「──こうやって見ると、今の先輩たち、文化祭のときとは立場が真逆ですね」
「え?」
突然わけの分からないことを言い始めた怜香に、二人は固まった。怜香が笑いながら続ける。
「だってほら、文化祭のときは、緊張する美生先輩を、杏奈先輩が励ましてたじゃないですか。絶対大丈夫!って。あの時の先輩たちのやり取り、青春ドラマみたいで眩しかったなぁ」
そう言って、さぞ羨ましそうに満面の笑みを浮かべる怜香を見ながら、美生はそのときの杏奈の顔を思い浮かべた。
美生なら絶対に大丈夫。あたし、信じてる、応援してるから!自信持って!
杏奈の言葉が、美生には心強かった。あの言葉を胸に、ステージに立つことができた。あのときの杏奈には、感謝してもしきれない。
美生は杏奈の両肩を掴み、笑顔を見せた。
「杏奈、杏奈なら大丈夫だよ。私も一緒だったんだもん。野坂先輩に恩返しするんでしょ?自信持って!」
「……ホントに大丈夫かな」
不安そうに見つめる杏奈に、美生は大きく頷いた。
「絶対に大丈夫!出来るに決まってるよ!」
そう言うと、杏奈は少し考え直してから、決心したように頷き返した。
「──分かった、あたし、頑張る!先輩に、感謝の気持ちを届けたい!」
「ありがとう杏奈!頑張ろうね!」
「うん!」
もう一度笑顔を見せてくれた杏奈に、美生も笑い返し、軽いハグをした。
「もー先輩、眩し過ぎです!映画みたいです!いいなぁ、私もそういう青春してみたいなぁ」
すぐ隣を見ると、怜香が羨ましそうに、熱い視線を送っていたので、二人は少し恥ずかしそうに顔を赤らめた。
そして、送別会当日。一番に部室に入ったのは美生だった。やはりこの時期の朝はとても寒い。先輩たちが集まってくる前に準備を済ます必要があるので、美生は昨日途中までした飾りつけの仕上げに取り掛かった。その後、続々と部員たちがやってきて、三年生の集合時間の三十分前に設定した集合時間に一、二年生全員が集まった。バタバタと最後の準備を整え、完全に終わった頃に、その場で待っていたかのようなタイミングで涼介が部室に入ってきた。
「おぉー!みんなめちゃくちゃ気合い入ってんな!」
「谷先輩!おはようございます!」
「何か手伝うことある?」
「いえ、もう全部終わってますよ」
「あ、マジ?もう何もすることない?」
「いいから先輩は座っててください!」
杏奈に背中を押されて、涼介は用意された椅子に座った。何も知らない(ほとんどが例年通りなので、おそらくわかっている)涼介は、大人しく座って会が始まるのを待った。その後すぐに、博美もやってきた。
「あ、谷じゃん。相変わらず早いね~」
「お!おっはよー江口っ!」
笑顔で手を振る涼介に「おはよ~」と片手を挙げてから、博美は美生に声を掛けてきた。
「美生ちゃん、今日の様子を動画に撮ってもいい?由香に見せてあげたいの」
「あ!もちろんです!たくさん撮っていってください!」
「ありがとう」と言って、博美は涼介の隣へ腰掛けた。
全員が揃ったのは、集合時間の二分前だった。時間になると美生が挨拶をし、ビンゴゲームをしたりプレゼントを渡したりと、会はスムーズに進められた。涼介だけが一度もビンゴ出来ず、景品を貰えなかったというのは余談である。
例年通りならここで記念撮影をしてお開きだが、今年は違う。美生は、部員たちのざわつきを静めるべく、パンパン!と手を叩いた。
「では皆さん、これより、先輩方への感謝の気持ちを込めて、『A列車で行こう』を演奏したいと思います!」
「おぉー!今年はそういうのもするのか!」
感心しながら元の席に座りかけた涼介に、杏奈が「何言ってるんですか?」と笑顔で声を掛けた。
「え?」
「先輩たちもやるんですよ」
「えぇ!?」
思いもよらない言葉に、三年生たちは驚きの声を上げた。敢えて予告せずにいたのだから当然の反応だと思った。美生がすかさず説明に回る。
「今年はいつもとは違うことをしてみたいって言ったら、杏奈が提案してくれたんです。先輩たちと最後のセッションで思い出を作ろうって。──一緒に演奏してくれませんか?」
問いかけると、三年生からはつかの間の沈黙が返ってきた。初めてのことだし、やっぱり少し困るかな……、そう思った直後、
「──それ、めちゃめちゃいいじゃん!」
涼介が声を上げた。
「ホントですか!?」
「おう!マジでもう一回吹けるとかめっちゃ嬉しいぜ!」
嬉しそうに笑う涼介に続くように、他のメンバーも笑顔で言った。
「……実は私も、もう一度やりたいと思ってたの!」「あたしも!」「俺もやりたい!」
「わぁ、嬉しいです!ありがとうございます!」
「よしっ、そうと決まれば、楽器出すか!」
そう言って動き始めた三年生たちは、本当に楽しそうで、美生も嬉しくなった。そのとき、博美が美生の肩を軽く叩いて声を掛けてきた。
「大丈夫なの?ソリストの由香がいないのにあの曲を演奏するなんて──」
「ちゃんと準備してますから大丈夫ですよ!ほら、江口先輩もカメラ置いて楽器出してください!」
美生は笑顔で言って、博美の肩をトントンッと叩き返した。博美は若干不安そうな顔をしつつ、でもせっかくだからと、部室全体が映るようにカメラをセットして、自分も準備に入った。
それから十五分ほどで全員の準備が終わった。上手い先輩ばかりなので、ウォーミングアップにもそれほど時間はかからなかった。博美のカメラを回して、美生が挨拶を始める。
「ではこれから、全員で『A列車で行こう』を演奏したいと思います。私たちの感謝の気持ちと、成長した自分たちの姿を先輩方に示したいと、そして、三年生の最後の思い出作りができればいいなと思い、今年は合奏をすることを計画しました。この演奏で三年生とは最後になりますが、私たちはこれからも頑張ります。先輩方も、これからも頑張ってください!今まで本当にありがとうございました!」
美生が深くお辞儀をし、拍手が起こる。これで最後、と口に出すと妙に気合いが入る。席に着いて指揮者である先生に合図を送った。心なしか、先生もいつもより楽しそうな表情を浮かべているように見える。
指揮者と奏者の息が合うと、いつもとても気持ち良くなる。そこからどんどん曲に乗れるようになって、楽しくて仕方なくなっていく。力強く吹きながら、軽快なこの曲を楽しんで聴いた。トランペットのソロが近づき、杏奈が立ち上がる。
その迫力には驚かされた。発音もはっきりしているし、ロングトーンも綺麗で、先日聴いたときよりもはるかに上達しているようだ。何より、とても楽しんでいることが音から伝わってくる。
気付けば杏奈のソロは終わり、美生も慌てて立った。杏奈に負けないくらい、気合いを入れてサックスに息を吹き込む。
気持ち良くリズムにのりながら、やっぱり音楽って楽しい、と、心から思った。
トランペットとサックスの、華やかな掛け合いが響き、曲が終わった。つかの間の沈黙の後、部員たちは、ワァ!と声を上げた。
「あ~楽しかったぁ!」
「やっぱ、A列車はテンション上がるね!」
「ねぇ!ソロめっちゃカッコよくなかった!?」
「だよね!藤木さんめちゃくちゃ上手くなったね!」
「えっ、本当ですか!嬉しいです!」
他の部員たちも美生と同じことを思っていたらしく、みんなで杏奈を囲んで称賛した。杏奈も嬉しそうに笑っている。博美も駆け寄って、笑顔で言った。
「すっごくよかったよ!動画、由香にもちゃんと見せるね」
「ありがとうございます!」
そのやり取りを見届けて、美生も杏奈に飛びついた。
「杏奈ぁ!カッコよかったよ!大成功だね!」
「うん、ありがとう!ドキドキしたけど、やっぱり楽しかった!セッションしようって言ってよかったよ!」
満面の笑顔で言う杏奈に、美生も「そうだね!」と笑った。
最後の記念写真、一緒に写る楽器以上に、みんなの表情は輝いていた。
数日後の昼休み、教室で過ごしていた美生と杏奈のもとに、勢いよく由香が飛び込んできた。体調はもうすっかりよくなったようだ。そのままの勢いで、「杏奈ちゃぁん!」と、杏奈に抱きついた。
「演奏聴いたよ!上手くなってるね!めちゃくちゃカッコよかったよ~!ありがと~!」
「先輩……!」
教室内の視線が集まるのも気にすることなく、杏奈は由香を抱き返した。
「ありがとうございます!あたし、これからも先輩のこと想いながら頑張っていきます!」
「うん!応援してる!」
隣で美生が笑うと、由香は「美生ちゃんもありがとね!今までお疲れ様!」と、頭をクシャクシャと撫でてくれた。照れ笑いしながら、「こちらこそ、ありがとうございました」と返す。
抱き合う二人は、やっぱり眩しかった。