第四章 美生と杏奈
文化祭終了から数週間ほど経ったが、いまだに美生の人気は冷める気配を見せない。同級生や先輩からはすれ違うたびに歓声を上げられ、後輩からは神様扱いされていた。喜ばしい半面、杏奈は、誰にも言えないある不安を抱えていた。
「おはよー杏奈!」
「あ、おはよー、美生」
相も変わらず可愛らしい丸眼鏡姿の美生が、杏奈に元気良く挨拶してきた。揺れるハーフアップも板についてきている。
「ねぇ杏奈、もう文化祭終わってしばらく経つじゃん?だから、そろそろ三年生の送別会について話し合った方がいいと思うんだよね」
「あぁ、そういえばそうだね」
三年生は文化祭が終わると引退なので、送別会についてや新部長を決めるためのミーティングなどで、この時期は地味に忙しくなる。ちなみに、美生たちの代の新部長は当然のように美生に決まった。
「去年はゲームとかしたけどさ、今年は何かこう、大きなことしたいんだよねぇ。先輩たちには本当にお世話になったしさ、……って、聞いてる?」
「……えっ?あ、ごめん。何だって?」
ついぼーっとしてしまって、美生の話がよく聞こえていなかった。ちょっと恥ずかしい。
「珍しいね、杏奈がそんなにぼーっとしてるなんて。考え事でもしてたの?」
「あぁ、大丈夫だよ、何でもない」
顔を覗き込んできた美生に、杏奈は笑って手を振った。
「そっか、ならいいんだけど」
美生はまだ若干首を傾げていたが、すぐに笑顔に戻って相談の続きをしてきた。
「それで、杏奈はどう思う?送別会の出し物」
「んー、あたしは去年と同じでも十分楽しめると思うけど、美生は他にやりたいことでもあるの?」
「具体的には決まってないんだけど、今までとは違うことしてみたいんだよね」
「なるほどぉ……」
杏奈は腕を組んで考えてみる。合唱……では卒業式と同じだし、一人ずつ手紙を読む……感動は呼びそうだが、楽しめるようなものではない気もする。
「──あ、こんなのとかどう?」
「おぉ、なになに?」
「へぇ、それはいいな。先輩方きっと喜ぶよ」
「だよね!中内くんがそう言ってくれるなら間違いないや!」
放課後、健人が一緒に帰りたいと言ったので、少し迷ったが、結局近くの喫茶店に立ち寄った。
迷った理由は、美生の家と健人の家が学校からほぼ真逆の方向にあり、話しながら帰るということが難しかったからだ。それに、帰る方向は違っても、恋人と一緒に過ごしたいのは美生も同じだ。
部活の送別会について嬉しそうに話すと、健人はカフェラテを冷ましながら賛同してくれた。
「絶対最高の会になるよ。応援してる」
「えへへ、ありがとっ」
健人に優しく言われて、照れ臭くなった美生は、カップで顔を隠すようにして熱いミルクティーをすすった。見かけによらず猫舌な健人は、いまだにカフェラテに口を付けられずにいる。「まだ飲めないの?」とからかうと、ちょっとだけむくれて、「熱いんだよっ」と小さな声で反論してきた。
そのうち自力で冷ますのを諦め、健人は「そういえば」と切り出した。
「最近、藤木の様子がおかしくないか?」
「あ、それ私も思ってたんだよね。今日もなんだかぼんやりしてる感じでさ。何かあったのかな」
今日だけではない。部活の時、顧問に呼び掛けられても反応が遅かったり、忘れ物が若干増えていたりと、ここ最近の杏奈はどこか気が抜けている感じがする。
「……悩みがあるなら言ってくれたらいいのに」
「訊いてみればいいじゃん。お前ら、そういうことも気軽に話せる仲だろ?」
「まあそうだけど、だからこそ話せないってこともあると思うんだよねー。杏奈があんなふうに物思いにふけってることって滅多にないし」
ウダウダ言っていると、健人は少し身を乗り出して、
「──だから、訊くんだろ?」
美生は目を丸くした。そして軽く首を傾げて、健人の次の言葉を待った。
「きっと藤木はさ、切り出すタイミングが掴めてないだけなんだよ。思い悩むことが滅多にないってことならなおさら。だから、お前から訊いて、相談に乗ってやればいいんだよ。吉原にだったら絶対話す、っていうか、聞いてほしがると思うな」
健人は美生の目を見つめてそう言った。
──そうか。杏奈は、本当は誰かに話を聞いてほしいんだ。
考え込むようにわずかに下を向いていると、健人がクスッと笑った。
「お前、そうやって若干踏み留まるところ、まだ前のまんまだな」
「え、そうかな?」
「そうだよ、いつもそうやって次のステップまであと一歩のところで躊躇しちゃってさ。あ、でも、その時はいつも藤木が背中を押してたよな」
言われてみればそうだ。文化祭の時に、怖じ気づく美生に杏奈が強く言ってくれなければ、美生はステージに上がることも出来ていなく、ましてやイメチェンなんて目立つこともしていなかった。小さい頃だって、引っ込み思案で友達の輪に入りたくても入れない美生に、杏奈が話し掛けてくれなければ、美生には友達がほとんど出来ていなかっただろう。
そうやって、昔から杏奈は美生の傍でずっと美生のことを支えてくれていた。助けてくれていた。そんな親友の杏奈に、美生が返してあげられることは……
「……私、明日杏奈に訊いてみるね」
美生が言うと、健人は微笑んだ。
「うん、それがいいよ」
その顔を見て、美生も思わず顔がほころんだ。
──ありがとう、中内くんも、私を支えてくれた人の一人だよ。
ようやくある程度冷めたカフェラテに口を付けられるようになった健人に、美生は心の中でお礼を言った。
「今日カラオケ行こう」
次の日の放課後、美生が以前の杏奈のように、杏奈をそう誘ってきた。
「え?いいけど、急だね」
杏奈は不思議そうな顔をしてからそう言った。美生は笑ってみせた。
「いいじゃん、今日は部活無いんだし。じゃあ、学校終わったらいつも通り昇降口で待っててね」
「あ、うん、分かった」
流れるように会話を終え、美生は授業の準備に取り掛かった。
「……美生、どうしたんだろう」
すると、「杏奈ちゃん」と後ろから声が掛かった。振り返ると、愛がちょっと心配そうに杏奈の顔を見ていた。
「あ、どうしたの?愛」
「それはこっちの台詞だよ。最近ずっと心ここに在らずって感じだし、何かあったの?」
……流石は学級委員長。愛の目は誤魔化せなかったか。だが、杏奈は素直に答えることはせず、誤魔化すように少し首を傾けながら困ったように笑って、結局、
「……大丈夫だよ、ちょっと疲れてるだけだと思う」
と答えた。
「そっか……、無理しないでね?」
「うんっ、ありがと」
これ以上心配をかけまいと、杏奈は頼れる学級委員長に笑顔を見せた。
放課後、美生と杏奈はいつものカラオケボックスに行った。個室に入ると、杏奈は嬉しそうにソファに座った。
「あーまた美生様の美声を拝めるのかぁ、あたしって幸せ者だなぁ」
ニコニコしている杏奈を見て、美生は少しだけ安心していた。その笑顔が、いつもの杏奈が見せるキラキラした可愛らしい笑顔だったからだ。
歌おうか話そうか少し迷ったが、結局杏奈の期待に押し負け、マイクを握った。そして、杏奈の歓声を聞きながらいつもの得意曲を歌い上げ、九十四点を叩き出した。
「きゃーっ!流石あたしの美生!」
「ありがとっ、やっぱり気持ちいいな!」
上機嫌の杏奈を見て、美生も楽しくなっていた。──お陰で本来の目的を忘れるところだった。
ある程度落ち着いた頃、美生は少し真剣な表情になって、杏奈に話を切り出した。
「……ねぇ、杏奈」
「ん?どうしたの?なんかやけに堅いね」
「杏奈さ、何か悩んでることでもあるんじゃないの?」
そう訊くと、わずかに杏奈の表情が動いた。見抜かれていたのが意外だったのだろうか。そして杏奈は、少し下を向いて小さく笑った。
「……そっかぁ、あたし、美生にもバレちゃうくらいおかしかったんだね」
「悩みがあるなら言って?私、何でも聞くよ?」
「んー、でも、あんまり大したことじゃないって思うかもよ?」
「いいよ、私が聞きたいんだから」
「……じゃあ、分かった」
美生が言うと、杏奈はとうとう折れた。黙って心の準備をする杏奈を黙って見つめる。やがて杏奈は、「……あのね」と口を開いた。
「あたし、──寂しいの」
「……え?」
……ちょっとよく分からなかったので、首を傾げると、杏奈は美生の肩を掴んで話し続けた。
「あたしね、小さい頃から美生のことずっと好きで、だから、お節介かもしれなかったけど、美生のためなら本当に何でもしてた、美生が幸せになれるように。今回だってそう。美生の自分の殻を破りたいっていう思いを実現出来るように応援して、結果、美生は殻を破れて、今じゃあ学校の人気者!こんなに嬉しいことって中々ないよ?」
杏奈は肩を掴む手に少し力を入れながら話した。美生は驚きつつも、そのことと最近の杏奈の様子とにどのような関係があるのか、少々疑問に思っていた。
「ただね、そうなっちゃうと、美生がどんどんあたしから離れて行っちゃう気がして、もうどうしようもなく寂しいの!美生はずっとあたしと一緒にいてくれてたから、人気者になって、遠くへ、広い所へ行っちゃうって思うと、なんだろう……、あたし、美生の大勢の友達の中に埋もれちゃうんじゃないかって不安で不安で……」
半分泣きそうになりながら、杏奈は、美生の想像の斜め上を行くようなことを言った。杏奈にここまで好かれていたことも、杏奈の異変の原因が自分にあったことも、正直驚きだった。
と、杏奈が今度は抱きついてきた。
「あたし、美生のこと親友だと思ってる。大好きなの!だから、美生が人気者になるのも、それで自信持ってくれるのも、すっごく嬉しい!……嬉しいんだけど、本当はどこにも行かないでほしいとも思ってる!──美生、わがままかもしれないけど、ずっとあたしのものでいて!」
そう言いながら、杏奈は美生を強く抱き締めた。
杏奈は、──そんなことで悩んでいたのか。
美生は杏奈の体をゆっくり離し、目を見つめた。杏奈の目は、こぼれずに瞼に引っ掛かった涙で濡れている。
「……杏奈、何か勘違いしてる?」
「……え?」
若干困惑する杏奈に、美生はゆっくりと話を続けた。
「私、杏奈にはすっごく感謝してるよ。文化祭の時だけじゃなくて、小さい頃からずっと。杏奈は、引っ込み思案な私といつも一緒にいてくれてて、私はそれが嬉しかった。杏奈が友達になってくれて、杏奈に出会えて良かったって思えた。だから、私にとって杏奈は特別なんだよ。私の大勢の友達の中で、杏奈は、私が一番大好きで、一番大切な親友だよ」
美生は、そう言って笑ってみせた。杏奈は目を丸くして聞いていた。
「……本当?本当に美生は、あたしを親友だと思ってくれてたの?」
「何言ってるの、当たり前でしょ?今までもこれからも、杏奈は私の大切な親友だよ」
精一杯の笑顔を向けると、杏奈は顔をくしゃくしゃにして美生を見つめた。そして、強く抱きつき、今度は声を上げて泣き始めた。
「うぅぅ良かったよぉぉ……!ありがとぉぉ美生ぅぅ……!」
「も~、そんなに泣かないでよ~」
「あたし、ずっと美生のこと大好きだからね……!」
強く抱き締める杏奈を、美生も抱き返した。
「私の方こそありがとう、こんなに好きになってくれて。大好きだよ、杏奈。これからもよろしくね」
「うん!」
美生の顔の横で、杏奈が力強く頷いた。体と一緒に胸も温かくなった。
──私、杏奈と親友で本当に良かった。
***
ずっと気になる子がいた。いつもいつも絵本とにらめっこしてるように見えて、仲間に入りたそうにこっちをチラチラ見てくる子。きっとみんなも気付いてるんだろうけど、静かでちょっと不思議なあの子に誰も声を掛けようとはしなかった。
「今日は何して遊ぶー?」
今日もいつもの友達と話し合っていたけれど、今日はちょっと気分が違った。
「んー、──ちょっと待ってて?」
「え、何?──えっ、どうしたのぉ!?」
友達が訊いてくるのも聞かずに、まっすぐあの子の所に走った。そして、目の前で止まる。あの子はちょっとびっくりしているようだった。
「ねぇ、いつも何読んでるの?みうちゃん」
「え、あんなちゃんもこれ好き?」
「見せてー。──おー!面白そうだね!うさぎさんも可愛い!」
絵本を見て笑うと、みうはキラキラした可愛い笑顔を見せた。──その笑顔に思わず目を奪われた。
「でしょ!わたし、このお話大好きなんだ!一緒に見る?」
「あ、うん!見たい!ちょっと待ってて」
そう言ってみうに背を向け、あんなは声を張った。
「みんなー!みうちゃんが一緒に絵本見たいってー!」
「おーいいねー!どんなどんな?」
呼び掛けると、みんな駆け寄ってきて興味津々でみうの絵本を覗き込んだ。みうは、みんなに囲まれて、ちょっとだけ緊張していたけれど、すぐ笑顔になって、
「えっとね、──寂しがり屋の泣き虫うさちゃんが、素敵なお友達と出会って幸せになるお話だよ」
と教えてくれた。