第二章 美しく生きる!~秋~
週が明けて、文化祭まであと三日となった。それまでの美生の様子はいたって普通といった感じだったが、正直なところ、杏奈は心配していた。
美生のためとはいえ、半ば強引にステージ発表を決めさせてしまったことを、美生は嫌がっていないだろうか。直前でやっぱりやりたくないと言われたらどうしよう。仮にステージに立てたとしても、美生が恐怖やトラウマを感じてしまっては可哀想だ。──パンクするのではないかと思うほど頭の中でずっと美生のことを考えていたので、最近なぜか杏奈の方が寝不足気味である。月曜日なのに先が思いやられる。
「杏奈ちゃん、おはよう」
不意に後ろから声が掛かり、杏奈ははっと我に返った。振り返ると、愛が心配そうに杏奈を見ていた。
「あ、おはよう、愛」
「大丈夫?なんか元気ないみたいだけど」
「いや、大丈夫だよ。ただの寝不足だから」
「……美生ちゃんのことだよね?」
……流石は頼れる学級委員長、何でもお見通しである。
「……美生さぁ、文化祭で歌うって言ってくれたけど、時々、本当は嫌なんじゃないかって思うんだよね。私、美生が小さい頃から引っ込み思案だったってことをよく知ってるはずなのに、ちょっと無理やりだったかなって」
息を吐くように言うと、愛は杏奈の肩をポンッと叩いた。
「しっかりしてよ、美生ちゃんなら大丈夫!なんでしょ?」
そう言って愛はニコッと笑って見せた。愛の笑顔を見ていたら、何だか安心してきた。
「……そうだね、うん!ありがとう」
笑いかけると、愛はもう一度肩を叩いてくれた。
その直後、もう片方の肩が、別の人に強く叩かれた。
「おっはよー杏奈!愛ちゃん!」
その人がよほど元気だったので、まず少し驚いたが、振り返り、──それが誰であるかが分かった瞬間衝撃を受けた。
「────────美生!?」
そこには、丸眼鏡の奥で幼い子供のようなキラキラした笑顔を浮かべた美生の姿があった。綺麗なセミロングの髪も、高めの位置でハーフアップにされていた。
「どうしたの急に!?」
「いや、私視力悪くなっちゃったでしょ?だから、週末に眼鏡作って、で、そのまま掛けても微妙かなーって思ったから、髪の毛結んでみたんだっ」
美生はそう言って、自分の眼鏡と髪をつついてみせた。
「びっくりしたぁ。雰囲気、凄く変わったね」
「っていうか、性格も先週とは別人な気がする。明るくなったんじゃない?」
杏奈が言うと、美生はまたパッと顔を輝かせた。
「本当!?そう見えるなら良かった~!まだちょっと演技してる部分もあるんだけど、これがそのうち私の本当の性格になればいいなぁ、って思うんだ」
……美生ってこんなに演技力高かったのか、意外過ぎる。というより、それを本当の性格にするという発想が、なんというか凄過ぎる。
「そんなに頑張らなくてもよくない?無理して明るいキャラ演じてたって疲れるだけでしょ」
「ダメッ!私は変わりたいの!」
突如、美生の声が鋭くなった。杏奈と愛がぎょっとして声を詰まらせたので、美生は話し続けた。
「私は、ずっと殻の中で動けずにいた。自分のすることに全く自身が持てなくて、周りにどう思われるか恐くて、閉じ籠って何もしようとせずにいた。……でも、杏奈が声を掛けてくれて、チャンスをくれて、みんなも応援してくれてるって気づいて、──私、嬉しかった。モヤモヤした気持ちが全部なくなったみたいで。勇気出して、今までの自分を変えたい、変えようって思えたの。だから、」
不意に美生が、杏奈の手を握った。まっすぐ見つめられて思わずドキッとした。
「ありがとう、杏奈。私、頑張るからね!」
「う、うん!応援してるからね!何だかよく分かんないけど、美生が前向きになってくれて嬉しいよ!」
そう言うと、美生は満面の笑みを浮かべた。胸が熱くなってきた。
「……で、その決意も込めてこんなイメチェンを?」
「だってよく言うでしょ?何事もまず外見からって」
愛が訊くと、美生は今度はいたずらっぽく笑って言った。杏奈は思わず小さく吹き出した。
美生がこんなに楽しそうにしてくれているなら、声を掛けて良かったと、心からそう思えた。
意気揚々と歩き出した美生に、杏奈と愛も続いた。「おはよう!」と元気に教室に入った美生は、案の定クラス中の視線と歓声を浴びていた。
「──お疲れ、美生」
「……うん、ありがと」
今日一日、イメチェンした美生はクラスメートにも吹奏楽部員にも声を掛けられ続け、既にヘトヘトになっていた。──にも関わらず、美生は「本番に向けて練習したい」と、放課後、杏奈を連れていつものカラオケボックスにやってきた。さすがに着いてすぐはいい声が出ないので、冷えた烏龍茶で一息ついていた。
「……無理してない?」
「してないしてない」
ニコニコしている美生は、見事に丸眼鏡のよく似合う可愛い女の子になっていたが、その顔がなんとなくまだ硬いような気がしてずっと気になっていた。
「……ねえ、杏奈」
その心配が見透かされていたのか、突如美生が静かに話し掛けてきた。
「私、前はずっと人の顔色伺いながら恐る恐るって感じで喋ってたじゃない?でも今日眼鏡かけて、物理的に周りがはっきり見えるようになってから、凄く堂々としていられるようになった気がするの。そうしたら、自然と喋るの楽しいって思えるようになって。嬉しくなったの、私は変われる、きっともっと変われるって思った」
遠くを見つめるようにしながら話す美生を、杏奈も真剣に見つめていた。
「……本当は凄く恐かったの。こんなイメチェンして、周りにどう思われるのか。……でも、私は生まれ変わりたかった、これまでの自分を、──引っ込み思案な自分を変えたかった。そして、いざイメチェンして学校行って、みんなの反応を目の当たりにして、──ああ、挑戦して良かったって思った、文化祭で頑張りたいって改めて思ったの」
一瞬言葉を切り、美生は杏奈と向き合った。その目には強い光が浮かんでいた。
「私、文化祭頑張って、生まれ変わりたい、引っ込み思案を完全に克服したい。そう思えたのは、やっぱり杏奈やみんなが応援とか期待とかしてくれたからだと思うの。──本当にありがとうね」
杏奈は顔が熱くなるのを感じながら、若干俯いた。特別何かした訳でもないのにこんなに感謝されていたのがなんだか恥ずかしくて、美生が本心で頑張りたいと言ってくれていたことが何より嬉しかった。「期待しててね」と言って笑った美生に、杏奈も思わず微笑んだ。
「──『美しく生きる』って感じだね」
「え?」
美生が不思議そうに聞き返してきたので、杏奈はクスッと笑って続けた。
「イメチェンしたことで、今までよりも強く、かっこよく変われたら、名前の通りになるなぁって思って。『美しく生きる』。……ほら、美生にぴったりだよ」
美生はちょっと間をおいてから「あ~!」と声をあげて、そして顔をほんのり赤らめた。
「これでステージも成功したら、完璧だね」
「……うんっ」
美生は小さく、でもしっかりと返事をしてくれた。──そして、急に立ち上がり大きく息を吸って、もう一度深く頷いた。杏奈は少しびっくりしてしまった。
「私、頑張る!名前の通りになりたい!美しく生きていきたい!美しく生きる!」
希望に満ちた、子供のようにキラキラした笑顔で、美生は宣言した。杏奈も、なんだか嬉しくて仕方なくなってきた。
「さっすが私の美生っ!」
「よーし、マイク貸して!歌うぞ~っ!」
杏奈は美生にマイクを手渡した。いつもの曲をいつも通り歌っているようにも見えるが、その顔には、これまで以上の自信と希望が溢れていた。杏奈がさっきまでしていた美生への心配も、もはや思い出すことも出来そうになかった。
──この日、美生は九十八点を取り、再び自己記録を更新したのだった。