第一章 決意
美生は返されたばかりの健康診断の結果表を見つめた。ほぼ規則正しい生活を送っていたつもりでいた美生は、ある一つの項目と激しいにらめっこをしていた。
身長も体重も平均的な数字を記録し、聴力、歯科、その他もろもろ異常なし。──おかげで最低結果がよく目立っていた。
「……視力が」
薄々気が付いてはいた。最近、黒板の文字や楽譜がぼやけてきたり(美生は中学生の頃からアルトサックスに打ち込んでいる)、遠くからでは人の顔が分からなくなったりと、確実に視力が落ちている自覚はあった。が、まさかここまでとは思っていなかった。
「みーうっ」
いきなり声をかけられ、完全に自分の世界に入っていた美生は、「ふわぁ!」とすっとんきょうな声を出し、体で覆うように結果表を隠した。そして振り向くと、相手は幼馴染みの藤木杏奈だった。
「あーびっくりしたぁ」
「ごめんごめん、ところで、結果どうだった?真面目っ子の美生は全部良かったんでしょ」
「うーん、それが……」
美生は恐る恐る結果表を差し出した。
「おーさすが!ってあれ?視力が──」
「あああっ、あんまり大きな声で言わないでぇ」
何しろこれまでにない最低結果だ。多分家族と親友以外には誰にも教えられない。
「原因に心当たりは?」
「えぇと、勉強したり本読んだり……かな?」
「そこでゲームとか夜ふかしとかって言わないところが美生って感じで好きよー」
「でも、やっぱりショックだなぁ。眼鏡作らないといけないし」
「そうだね。でも意外と似合うかもよ?美生って顔可愛いし、髪も綺麗だし」
「……でも、そんなに急に眼鏡なんてしたら、……変に目立たない?」
「あはは、何の心配してんの?大丈夫だよー」
杏奈はそう言って、笑顔で立ち去った。
そして美生もそれを見送ると、また結果表に、──視力の項目に書かれた「D」の文字に向き直り、ため息をついた。
吉原美生、十七歳の秋は憂鬱な気分で幕を上げた。
「今日カラオケ行こう」
杏奈が唐突にそう言ったのは、結果表返却の二週間ほど後だった。
「え?いいけど、何でそんな急に?」
「うーん、美生が最近すっごく疲れた顔して見えるから、ストレス発散して欲しいなー、って思って」
おどけた様子で杏奈は言った。確かにここ最近行っていないし、今日はちょうど部活も休みだけれど、さすがに平日に誘われたのは初めてだ。
「今日木曜だよ?週末じゃダメなの?」
「あ、その方ががいい?」
「いやぁ、別に」
「じゃあ今日で。相談っていうか、提案したいことあるんだ」
よろしくね、と言って杏奈はニコッと笑った。今日にこだわるということは、急ぎの用なのだろうか。ここでは話せないようなちょっと深刻な相談でもあるのだろうか。
これは以前、学級委員長の岡田愛に聞いたことだった。愛は世話焼きなところがあるので、放っておけなかったのだろう。
「美生がアンケートにそんなこと書いてたの?」
「うん。他の人と比べて、ちょっとだけ深刻な内容だったよ。杏奈ちゃんって美生ちゃんと仲いいから、相談してみたんだけど」
それは、悩みや相談事を書く調査アンケートのことだ。
──何かあったわけじゃないのに、自分に自信が持てない。喋れないわけじゃないのに、口が動かない。自分の言動や行動を周りにどう思われるか恐くて殻に閉じ籠って、気付いたら出られなくなってしまっていた。どうしたらいいか分からないし、恐い気持ちは変わらないけど、本当は出たい。殻を打ち破って出たい。……どうすればいいでしょうか。
「余計なお世話かもしれないけど、美生ちゃんの力になってあげられないかな」
愛が言ったが、杏奈には聞こえていなかった。
知らなかった。美生がそんなことを一人で抱え込んでいたなんて。見ていても分からなかったけれど、美生は自分が引っ込み思案であることをそれほどにまで気にしていたのか。
考えてみれば、美生は頭がいいのに授業では全く手を挙げなかったり、自分から人に話しかけることをしなかったりして、クラスでも無口なキャラが定着していた。
小さい頃もそうだった。幼稚園で初めて会ったときの印象は、静かだった。ただ、今ほどではなく、話しかけると読んでいた絵本の話をきらきらした笑顔で楽しそうに聞かせてくれたりしていた。杏奈はそんな可愛い美生のことが大好きになっていた。
そんな美生は、音楽において非常に優れている。杏奈も美生を追いかけるようにトランペットを始めたが、美生のサックスの腕前には到底及ばなかった。
もちろん、歌の腕前も尋常じゃない。初めてカラオケに誘ったときは、恥ずかしいからと少々拒まれたが、一曲でいいからと念を押すと一緒に来てくれた。授業でちらっと聴いて上手だなぁと思っていた程度だったけれど、その歌声は、音楽の授業だけではとても計り知れないほどの美声だった。それ以来、杏奈は大のカラオケ好き(というより美生の歌のファン)になり、週末になると必ず美生を誘って行くようになっていた。
そして、何度も美生の歌声を聴くうちに、こう感じるようになった。
──もったいないなぁ。
美生は吹奏楽コンクール以外のステージには立ったことがなく、カラオケにも少しの人数しか参加しないため、その才能を知る者は数少ない。みんなにも聴かせてあげたい。一度でいいから、美生が大きなステージで歌う姿を見てみたい。
「……杏奈ちゃん?大丈夫?」
杏奈がよほど真剣な顔をしていたのか、様子を伺うように愛が訊いた。それを期に杏奈は我に返り、愛に向かって笑った。
「……大丈夫だよ。美生なら、大丈夫」
そして、力強く言ったのだった。
放課後、いつものカラオケボックスに杏奈と向かった。個室に入ってから、杏奈はソファにドカッと座って、ニコニコしながら美生を見つめた。
「さっ!今日も思いっきり歌って頂きますよー、あたしの歌姫っ」
語尾にハートマークを付けて言い、子供のように足をばたつかせいた杏奈の姿に、少々違和感を感じながらも、美生は見慣れたパットでお気に入りの曲を入力した。音程をとりやすく、前向きで格好いい歌詞の曲。アーティストの声が好きでよく聴いていたが、初めて歌ったとき、あまりにも気持ちが良かったので、それ以来、必ず選んでいるのだ。
マイクを握ると杏奈も歓声を上げ、拍手をした。そしてイントロが流れはじめると、──美生は目の色を変えた。
五分弱の曲を歌い終えると、美生は深呼吸をした。美生は一度歌い出すと、雰囲気も声色も別人と化する。初めてのときはそうでもなかったのだが、歌う快感を知ってしまってからは、美生は本気で歌う派になっていた。ちなみに、これまでの最高得点は、九十五点である。
今回の点数は九十三点、杏奈の歓声を聞きながら自分も小さくガッツポーズをした。
「はい、杏奈の番だよ」
そして、いつもの流れで杏奈にマイクをまわした。だが、杏奈は受け取ろうとしない。得点の映ったモニターと美生の顔を交互に見ながら、考え事をしているようだった。今まで気のせいだと一蹴していた違和感もピークに達した。
「……ねぇ杏奈、どうしたの?何かあったの?」
つかの間返事をしないでいた杏奈が、決意するようにうなずき、美生に向き直った。
「──美生、文化祭で歌う気ない?」
「…………」
一瞬理解出来ずに、頭の中でその台詞を何度も復唱し、
「えぇーーーーーーーーっ!?」
美生は美声の出る喉から驚きの声を発した。杏奈が首をすくめ、耳を塞ぐ。
「な、何言ってるのっ!私にそんなことっ、出来るわけっ」
言っていることの意味は分かるのに、その意図は全く分からない。杏奈は美生が引っ込み思案なのを知っているはずで、人前で歌うことなど不可能であることも予想出来るはずだ。なのになぜ何の前触れも無くそんな無理難題を……。──美生はまず混乱するしかなかった。
だが杏奈は、そんな美生の両肩を突如掴んで自分の方へ顔を向き合わせた。正面から杏奈の顔を見て、その真剣さに驚かされた。
「ねぇ美生、あたし、愛から聞いたんだけど、変わりたいんでしょ?力になりたいの。美生の殻、破ってあげたいの。今まで美生が一人で悩んでたなんて思いもしなかったし、生まれ変わった美生を見てみたいし。美生って、すっごく歌上手いでしょ?みんなが聴いたら絶対感動する!文化祭のステージで歌ってみない?周りにどう思われるか分からなくて恐い、この機会にその考え捨てよう!ちょっと強引かもしれないけど、何でもするよ!あたし、美生のことが大好きだから!」
杏奈が口を閉じるまで、美生は目を丸くして聞いていたが、言いたいことはなんとなく分かった。──もし、これを期に本当に変われたら、固かった思いが消えて無くったら、私はどんなに楽になれるだろう。今まで美生は、ずっと無口でいるのも、無理に話そうとするのも変だと思って、行動に出ることが出来ずにいた。でも、歌うことなら出来るのではないか。
……やってみたい!……でも、恐い。
「……本当に、私に出来るかな」
「絶対大丈夫!勇気出して、今までの自分を変えよう!」
──『自分を変える』……。
その言葉で、美生は決意した。──少し不安はあるけれど、試したいこともできた。
「ありがとう、やってみるよ!」
「おぉー!それでこそあたしの美生!」
ステージへ上がる決意をした美生に、杏奈が抱きついた。決めてしまったら、少しワクワクしてきた。
「よーし、もう一回歌おう!」
美生はもう一度マイクを握った。憂鬱な気分で幕を上げた秋は、この瞬間から希望に満ちた秋へと変わった。
ちなみに、このときで九十七点をとり、カラオケで自己記録を更新したことは余談である。
「──というわけで、美生が文化祭のステージで歌ってくれちゃいまーす!」
「マジかああああ!」
「キターーーー!」
翌日の部活、 杏奈が上機嫌で告知し、一部の部員たちで盛り上がっているのを聞きながら、美生は上気する顔を隠すようにうつむいて、いつものようにアルトサックスを組み立てていた。
「……杏奈、恥ずかしいからあんまり言わないで~…」
「なんでだよ吉原、藤木は嬉しいんだよ!正直俺も嬉しいぜ~」
言いながら美生の肩をバシバシ叩いてきたのは、テナーサックスの谷涼介先輩だ。涼介もサックスの実力に長けているが、真面目で一生懸命な美生を少々鬱陶しいくらいに気に入っているので、付き合っていると誤解されることもあった。
「ついにステージで歌う決心がついたのか~、期待して正解だったぜ」
「……先輩だってサックス上手いんだから、歌も上手いんじゃないですか?」
「谷みたいな有名なムードメーカーが舞台に立ったって珍しくも何ともないでしょ?」
そう言って話に入ってきたのは、クラリネットの江口博美先輩だ。少々口は悪いが、みんなから慕われている部長である。「え~?」と文句を言う涼介をスルーし、美生に近づいてきた。「騒いでないで早く練習始めなさい」的なことを言われるのかと思った矢先、
「やるからには全力でやるのよ。私も応援してる」
「え、あ、ありがとうございます」
それだけ言って、博美は練習に戻った。
「なんだよ、アイツも結構期待してんじゃん。良かったな、吉原っ」
「先輩ももう音出ししたらどうですかぁ?」
「わかったわかった」
涼介が笑いながら立ち去り、美生はやっと落ち着いて音出しを始めた。
通常、美生たちの高校の部活動は六時に終わることが多いが、文化祭まではあと一週間ほどなので、吹奏楽部と美術部は今シーズンは七時終了となっている。校舎を出た頃には、辺りは真っ暗になっていた。夜風が心地いい。
掃除当番の杏奈を待つため、昇降口で本を読んでいると、背後から知った声に呼ばれた。
「吉原っ、お疲れっ」
「あ、中内くん、お疲れー」
それは、クラスメイトの中内健人だった。健人はサッカー部でクラスの人気者、──そして美生の片想いの相手だ。──ってあれ?
「部活もう終わってるよね?まだいたんだ」
「え?あ、いや、……あぁそうだ!藤木が言ってたんだけどさ、お前文化祭で歌うらしいな」
「えっ!知ってたの!?……も~あんまり広めないでって言ったのに~」
──でも、あの、あんまり人に広めないでよ?恥ずかしいから。
──もちろん!当日まで温めとくよ!
……カラオケボックスを出る前にしたあのやりとりは何だったんだろう。
「大丈夫だよ。俺、口堅いし。それに藤木は、俺と岡田と吹部にしか言ってないらしいしさ」
「そうなの?……なら、まあ、いいけど」
愛に言うならまだ分かるが、健人に言った理由は特に思い浮かばなかった。ただ、
──私が中内くんのこと好きなの知ってるからかなぁ。
もしそうであれば、なおさら黙っていてほしかったものだ。美生だって好きな人の驚く顔が見たい。
「……まあ、あれだ」
不意に健人が口を開いた。
「みんな吉原のことが好きなんだよ。藤木、めちゃくちゃ嬉しそうに言ってたし。人前でしゃべるの苦手なお前が、文化祭で歌うって決めてから、みんながお前のことをすっげえ応援してる。俺だって。そりゃ恐いだろうけど、お前の歌はすごいから、絶対成功するよ」
……中内くんにこんなこと言ってもらえるなんて、思ってもみなかった。思わず顔が熱くなる。
「頑張れよ、楽しみにしてるからな」
「……うん、ありがとう」
そして健人は、ちょっと手を上げてみせて帰って行った。それを見送りながら、美生はあることを実感していた。
──そっか。
私は、こんなにたくさんの人に応援されている。好評されている。今さらのようにそう感じた。今まで私は、何をそんなにビクビクしていたんだろう。
──私、文化祭で思いっきり歌いたい!
文化祭まであと一週間。美生は大きく深呼吸をした。