一万人を待たせて
「ごめーん、待った?」
駆け寄ってきた彼女は、半ば息を切らせながら、まぶしい笑顔を俺に向けた。ゆとりのあるストライプのシャツに、真夏日に映える白いフレアスカート。そして、一糸も纏わぬ足先に、俺の目線は釘付けになった。
「いや、俺も今来たところやから――じゃなくて」
思わず話を合わせてしまった。
「あんた誰やねん」
「あっはは。冗談きついわあ、先輩!」
その子は冗談みたいなことを言い出した。
「一回生の白瀬ですよー。サークルで同じの」
ああ、そういえば。先週の飲み会でも見かけたような。一年女子の白瀬。うん、確かに居た。
しかし、こんな奴だっけ? 俺の記憶にある白瀬は、もっと垢抜けない印象だった気がするけれど。女は化けるというからな。それこそ、男なんてできた日には、もう。
いや、確認するまでもないが、その相手が俺でないのは明白だぜ。今だって、初めて言葉を交わしたくらいなんだから。だから、さっきの唐突な発言には驚いた。
「けっこうグイグイ来るねんな……」
「そうですか?」
「そうやろ」
普通、ろくに話したこともない相手と、恋人の待ち合わせコントのようなことをしたりはしない。しかも若干タメ口だったろ。
「いやでも、先輩がノリツッコミしてくれたんは意外でした。見るからに怖そうやもん」
「怖いもん知らずか」
けらけらと白瀬は笑った。だったらそんな冒険するなよ。それに付き合った俺が言うのもなんだけど。
ため息をつく。
「だいたい、待ち合わせ場所が駅のホームて、ありえへんやろ」
そうなのだ。先ほどから俺たちが会話をしている場所は、夏の昼下がりの駅のホーム。しかも、こんな時間だというのに、電車を待つ人で混雑し始めている。なぜなら――。
「飛び込みだったらしいですね」
白瀬が、困ったような顔で呟いた。
そうなのだ。
人身事故の影響で、俺は足止めを食らっていた。ちょっと隣町へ行く用事があっただけなのに、なかなか運行は再開されず、かといって他の移動手段があるわけでもなく、そうこうしている間に一時間が経った。
一時間だ! そんなにも長い時間、俺はくそ暑い駅のホームで待たされている! まあ、この時間帯で、田舎だから、人で溢れかえるなんてことにならないのが、せめてもの慰めだ。
「先輩は」
白瀬が口を開いたのは、しばしの沈黙の後だった。
「怒ってますか?」
「ん?」
「だって、ぶすうってしてるから」
モノマネのつもりか知らんが、白瀬はまるでナマハゲのように、下唇を突き出して、目をひん剥いた。下手くそめ。再現度50%っちゅうところやな。いや誰がナマハゲやねん。
「これがデフォルトや。て、なに言わせとんねん」
「先輩ってノリいいですよね」
「調子のんな、あほ」
ホームをつま先で蹴ってから、俺は少し真面目なトーンで言った。
「怒ってへんよ」
「ほんまですか?」
信じられないという顔つきで、俺を見上げる。
「だって、勝手やと思いません?」
「誰が」
「その――飛び込んだ人」
言葉の後半は、少し言いづらそうだった。
「こんだけの人待たせといて。駅員さんとか、警察の人にも迷惑かけて。
この前ニュースで見たんですけど、東京で人身事故があったとき、どんだけの人に影響が出たか知ってます? 十万人ですよ、十万人! まあここは片田舎やから一万人くらいでしょうけど」
「おい、馬鹿にすんなよ」
「あ、すいません。先輩の地元でしたよね」
「せいぜい五十人くらいやろ」
「もっと故郷に誇りを持ってええんですよ……」
俺は再びため息をついた。どうして後輩にこんなことを言われにゃならん。
「俺な、けっこう気が短いって言われるねん」
「どうしたんです急に」
白瀬は分かりやすく身構えた。いや、別に怒ったわけじゃないからな。
「まあ聞け。ちょっと前まで、こういう時もイライラしてしょうがなかったんや」
「……」
「せやけどな、ある日を境に、人身事故で電車が遅れとっても、苛つかへんようになった」
「……なんでですか?」
「夢を見たんや」
それは、なんとも奇妙な夢だった。
夢の中で、俺は知らない駅に居た。二つのホームが線路を挟んでいるだけの簡素な駅だ。ベンチはあるけど、待合室はない。自販機はあるけど、トイレはない。そんな適当な造りだった。
まあ、夢の中だからな。周りはビルが建ち並んでいるような気もしたし、辺り一面の田畑だったような気もしたが、やはり夢の中なのではっきりとは覚えていない。
とにかく、閑散とした駅だった。俺はそこで、次の電車を待っている。だが、なかなか来ない。理由はすぐに分かった。構内アナウンスが、人身事故の影響で電車が遅れている旨を、放送していたからだ。
俺は苛ついていた。くそ、どこのどいつだ。人様に迷惑かけやがって。今思えばけっこう酷い悪態もついた。だけどそのうち、おかしな事に気が付いた。今まで不思議とも思っていなかったことだった。
自分の目線が、ホームを見下ろすような格好だったのだ。ホームの端には、一足のスニーカーがきちんと並べられていた。
そのまま俺は、不自然に高い位置から、係員や警察の人間を眺め続けた。彼らは、ホームや線路のあちこちに散らばった遺体を片付けていた……。
頭は。頭はどこだ。まだ見つかっていないそれのことが、急に気になり始めた。俺も空中から探すことにした。親切心から手伝った、というよりは、自分がそうしたかったからだ。
頭部はすぐに見つかった。屋根の上に引っかかっていたのだ。
その顔を見て、俺は、死んだのは自分だったと思い出した。
「いやほんまに死んだわけちゃうで?」
「……」
「それ以来、遅延の放送を聞いても、不思議と苛つかなくなったというわけや」
白瀬はずっと、黙って聞いている。俯きがちに何かを考えている。モデルでも及ぶまいと思われるような美しい足先で、黄色い点字ブロックをなぞっている。こんなに綺麗な足を隠していたなんて、知らなかった。
「それって、罰を受けたって話ですか」
突拍子もないことを言い出した白瀬に、俺は面食らった。
「なんでそうなるねん」
「短気な先輩を改心させるために、仏様がそんな夢を見させたとか。苛ついてばかりやと早死にするでー、って」
「そんな鬼みたいな仏がおるか」
生首とご対面とか、脅かすにもほどがあるわ。
「そうとちゃうよ、白瀬」
柄にもなく優しい声になったことに、俺自身でも驚いた。
「俺がイライラせんようになったんは、なんとなく、他人事と思えんようになったからや。たかが夢やけどな、考えるようになったんよ。『電車遅らして何しとんねん、どこのボケや!』とかじゃなくて、そのボケはもうこの世におらんねんなあ、って、ふっと思うようになったんよ」
「……」
「そしたら拍子抜けっちゅうか、怒るに怒れんくなるというか。身近に感じてもうた、ちゅうんかな。まあそんな感じや」
上手くまとめきれなかったが、白瀬には伝わっただろうか。
だから、もう責めたりはしない。だけど。どうして。もっと早くに声をかけてくれなかったのか。『ごめん、待った?』と。そんなふざけた言葉でもよかったんだ。
……いや。名前も知らなかった奴に。「待って」すらいなかった俺に、そんなことを言う資格、あるわけがないのだ。
「なあ、白瀬」
「なんですか」
「ずっと気になっててんけどな」
お前、どうして靴を履いていない――俺はそう聞こうとしていたけれど、やっぱりやめにした。
「お前の足、めっちゃ綺麗やな」
「はあ!?」
「好きやで」
「うわあ、変態」
腕をさすりながら、ゴミを見るような目つきをした。ああ、選択肢間違えたかな……。
しばらくそのまま嫌悪の構えを保持していた白瀬だったが、それも保たなくなったらしく、小さく吹き出した。
「私、先輩のそういうところ、ずっと好きでした」
何か言ったら軽口を返そうと思っていたけど、ついぞ言葉は出なかった。
「私、そろそろ行きますね」
「……そうか。ほな、またな」
そのまま彼女は立ち去ったかに見えた。が、数メートル歩いたところで振り返って、
「お待たせして、すみませんでした」
深いお辞儀をした。その後、今度は本当に行ってしまった。まるで、夏の熱い空気の中へ、溶け込んでいくように。彼女は消えてしまった。
「あほ」
俺は、つま先でホームを蹴った。口から勝手に言葉がこぼれる。
「……あほ」
誰に向けての言葉なのかは、自分でもよく分からなかった。
『まもなく、列車の運行が再開いたします。長らくお待たせし、皆様には大変ご迷惑をおかけしました。――』
構内アナウンスを、俺は上の空で聞いていた。夢のようにあやふやだった時間に、まもなく終わりが訪れる。
彼女は行ってしまった。
一万人を待たせて。