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猫の獣人であるリドルは、森の中に鬱蒼と生い茂った木々を次から次へと素早く飛び移りながら、背後から追いかけてくる狼のような黒い魔物に泣きそうになりながら命からがら逃げていた。
(こっ、ころされる……!)
前世は31歳、コンビニの雇われ店長をしていた独身男。夜勤明けで仮眠してから昼勤をし、仮眠をしてまた夜勤をという生活を半年ほど繰り返していた体はいつぶっ倒れてもおかしくないほど疲労し衰弱していたが、とうとう命ごとぶっ倒れてしまったようで。
リドルこと、篠原 大慈は日本とは違うわけのわからない異世界にて、前世の記憶を持ったまま猫の獣人の子供として産み落とされ早1年経っていた。
そんな彼は現在、魔物である狼に追われているわけだが、こんなことになってしまったのには理由がある。リドルは弟と母親と父親、家族四人で大きな森の中でひっそり暮らしているのだが、いつものように四人でくっついてのんびり日向ぼっこをしていた最中に、魔物の集団に襲われたのだ。
猫の獣人は比較的大人しく、戦闘向きではない。襲われるといつも父親の獣人が少ない魔力で魔法を使い対抗し、その間に母親が兄弟を連れて逃げるのだが、リドルはそれに遅れてしまい母親と弟についていけず逃げ遅れ、一人だけ別の方向に逃げてしまった。それを目敏く見つけた一部の魔物が、リドルを追いかけたのだ。
(弟に噛まれ踏まれしながら1年猫暮らししてきて慣れてきた頃に、また死んでたまるかよおお!)
とはいえ、中身は31歳であるものの体はまだ1歳。獣人の成長は早く、人間で言うところの6歳くらいまで成長はしているが、猫なだけあって多少運動神経は良くてもまだまだ子供。
木から木への着地が失敗してしまえば、小さな体は重力に従って地面へ落ちた。身軽な体はすぐに体勢を立て直してストンと手から綺麗に地面へ着地するが、顔を上げた時にはリドルの周りには魔物が囲っていた。
(ど、どうすんだよこれ……つーか俺の家族はどこいったんだよ……)
すん、と鼻を鳴らして家族の匂いを探すが、近くにはいないのか魔物の獣臭い不快な匂いしかしない。
魔物達はリドルの周りをぐるぐる歩いては、捕らえるチャンスを伺っているような動きをしていた。絶体絶命とはこのことかとやけに冷静になってきた頭で考えながら、魔物にバレないよう目線だけを上に向け、先程まで飛び移っていた木々をみるが、さすがに魔物から逃げれるほど高い場所までは届きそうでないし、一番近いところに届いたとしてもすぐに追いついて食われることになるだろう。
とりあえずこれはナシ。他の策を考えよう。
となるとこの魔物の群れの間を抜けて逃げるかだが、まだ小さい体のリドルであればできなくもない。何かで気を逸らさせて、そのうちに間を抜けて逃げる。こればっかしはやってみないとわからないが、今のリドルの頭と短い時間ではこの案しか思いつかない。幸いにも足元に木の枝がある。想像するのは日本にいたときに人間が飼い犬に対して行っていた『とってこーい!』だが、はたして狼の姿であり魔物のそれに通用するかは疑問だ。
よし、と腹を括って木の枝を瞬時に拾って投げようとした時、奇跡が起きた。
狼の悲痛な叫び声とともに大きな炎がリドルの周りを取り囲み、その炎が消えた時には魔物は一匹残らず消え去っていた。まるで最初からいなかったかのように。
(何が起きた?俺って魔法使えたっけか?)
異世界転生と聞けば魔法が付き物だが、生憎猫の獣人は魔法を得意としないので、もちろんリドルも使えない。じゃあ一体誰が?炎がなくなった後に残るこの香りは、間違いなく魔力の匂いだと猫の獣人として人一倍嗅覚のいいリドルの鼻が鳴ったと同時に、咄嗟にリドルは頭上にある一番近い木の上まで飛んだ。
「大丈夫か?」
低い、それでいてどこか色気のある美声がリドルの耳に届く。茂みの影から現れたのは、黒い軍服を着た人間の男だった。ストレートのさらさら艶のある黒髪に、切れ長の黒い瞳と、筋の通った高い鼻。思わず31歳の男でも感嘆の溜息が漏れるほどには、美しく顔の整った男だった。
きっとこの男が助けてくれたのだろう。強い魔力をこの男から感じ、先程の炎の魔力と同じ匂いがする。だがしかし、リドルはその男を警戒していた。男、というよりは人間に警戒しているといったほうが正しいか。
獣人の親から口酸っぱく言い聞かされていた言葉。『私たち猫の獣人は魔物と人間のせいで数が減ってしまったの。決して人間と魔物には近づいてはダメよ。殺されてしまうから』と。昔は獣人も人間と一緒に共存していたらしくそれにより人間に守られて生きていたが、いろいろあり獣人は人間から距離を置くようになり、リドルのような弱い獣人は森の中でひっそりと暮らすようになった。
この男も獣人を狙う悪党であるかもしれないと思い、リドルはそれを恐れて木の上へと逃げたのだ。
「警戒するな。俺は王都の第一騎士団長、アルーラ=リドリクスだ。お前は……人間かと思ったが違うな。獣人か?」
そういえば初めて人間の声を聞いたが、リドルはしっかり意味を聞き取れることに首を傾げた。勝手に獣人は獣人のみでわかる言語を使っていたと思ったが、人間も獣人も共通の言語を使っているのだろうか。
獣人といえど、野生の獣と変わらない生活をしており、家族から離れることもこの森を出ることも許されずにいたため、外の世界はどういったものなのかわからずにいたのだ。一年この世界で暮らしてみて学んだのは、獣人としての生き方のみである。
「言葉がわからないか?」
返事が返ってこないことにアルーラは訝しげに思ったのか、続いて言葉を投げかけてくるがリドルは困っていた。なんて返そうか、けれどいつまでも隠れてはいられない。魔力の量からしてアルーラがかなり高等な魔法を使えるというのがリドルにはわかる。本気を出せば簡単に捕まえられてしまうだろう。
18歳ほどまで成長することができていたら、この頭に生えているとんがった三角の耳や、ふっさふさの長い尻尾を隠し人間ですと嘘をついてやり過ごすことができたかもしれない。残念なことにまだ子供であるリドルにはできない技である。
仕方がない、『助けられた』という事実は変わらないし、アルーラに助けられなければ今頃魔物の餌になっていただろう。リドルは用心をしながら、アルーラと名乗る男の前に降り立った。念の為、すぐに逃げることができるような距離を保ったまま。