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セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』④

セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』(1979年、草思社)より。

第一章「生活」部分のまとめ。その④。

ヒトラーの成功と失敗のその実態について。


・ヒトラーの成功は"相手が弱かった"から


◆ ヒトラーが成し遂げた大成功の実態



● ヒトラーの成功は"相手が弱かった"から


ヒトラーの成功は1930年から1941年までの12年間の間にだけ起きていて、

ヒトラーはそれ以前にも、それ以降にも、まったく成功を収めていない。

ただその12年の間では、ヒトラーは、国内政治でも、外交でも、そして軍事面でも、彼のやったことはほとんどすべてが成功し、世界を驚嘆させた。

ところがその12年間以外ではむしろ失敗ばかりで、そこでの彼はほとんどどうしようもない能なしのようでしかなかった。


ヒトラーが天才的な能力を示したのは、「世界大恐慌」(1929年10月~)発生後の1930年から、独ソ戦(1941年6月~)が開始されるまでの期間に起こっている。



※ 経済安定期間中のナチスの選挙

1924年5月   32議席・・・国家社会主義自由運動 (NSFB)として参加

1924年12月  14議席・・・国家社会主義自由運動 (NSFB)として参加

1928年5月   12議席・・・再結成された国家社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP、ナチ党) として参加


※ 世界恐慌後のナチスの選挙

1930年9月  107議席・・・第二党に躍進。

1932年7月 230議席・・・第一党に躍進。

1932年11月 196議席・・・議席を大きく落とすも第一党を保持。選挙後、ヒトラーが首相に就任。(ヴァイマル共和体制最後の選挙)


※ ヒトラー内閣成立後のナチスの選挙

1933年3月  288議席・・・選挙後の3月23日に全権委任法が成立。その後、7月までにナチ党以外の全政党が解散に追い込まれ、7月14日には政党新設禁止令が制定される。

1933年11月 661議席・・・ナチ党のみによる選挙。


1934年に、ヒンデンブルク大統領が死去し、首相職に大統領職が統合され、さらにヒトラーはドイツ国防軍最高司令官となって全権力を握り、内政的にはこれ以後は何も手に入れるものがなくなる。


※ 外交政策上の成功を収めた4年間

1935年・・・ヴェルサイユ講和条約に違反して一般義務兵役を施行。→だが何も起こらない。

1936年・・・ロカルノ条約に違反してラインラントに進駐し、これを再武装化。→だが何も起こらない。

1938年・・・3月にオーストリアを併合。→だが何も起こらない。

        9月にチェコのズデーテン地方を併合。→だが何も起こらない。

1939年・・・チェコのベーメンとメーレンを保護領にし、バルト地方のリトアニアのメールを占領する。


ここで外交政策上の一連の成功は終わり、以後、ヒトラーは抵抗を受けるが、しかしそこから今度はヒトラーの軍事上の成功が始まる。


※ 軍事上の成功を収めた2年間

1939年・・・ポーランド征服。(第二次世界大戦の勃発)

1940年・・・デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク占領。フランス征服。

1941年・・・ユーゴとギリシアの占領。ヒトラー、ヨーロッパ大陸を征服する。



ナチ党はヒトラーの加入によって大きな成長を遂げるが、しかし世界恐慌の発生によって議席を飛躍的に増加させるまでは、1925から1929年の間まで、ナチ党は名もない小党のままだった。

そして1923年にヒトラーが武力革命を目指して起こしたミュンヘン一揆も失敗。

また独ソ戦が始まった1941年以後も、ヒトラーはやはりまったく成功を手にしなかった。

彼の軍事行動は挫折し、敗北は重なり、同盟国は脱落し、敵の連合国は持ちこたえた。


ヒトラーの失敗は、成功後、いい気になったり、油断したりしてその成功を失ったというものではない。

ヒトラーは、失敗していたときも、成功を収めていたときも、ずっと変わらぬ同じヒトラーのままだった。

独ソ戦の開始となるロシア攻撃は、ヒトラーの没落の始まりとなったが、これも、それ以前の彼の軍事的成功による思い上がりによって起こされたものではなく、ヒトラーによるロシア攻撃は、彼が長年熟慮した上で決めた主要目標であり、そのことはすでに1926年に発表された『わが闘争』のなかに書かれ、理由も述べられていた。

1941年の対米宣戦布告にしても、これもヒトラーのうぬぼれというより、むしろ絶望のあまりの産物として出されたものだった。


ヒトラーは成功を収めても油断したり慢心したりすることはなかったが、失敗した場合でも、ヒトラーには自分の一度決めたコースに固執して譲らないかたくなさがあった。


ヒトラーの成功曲線の秘密を解く鍵は、ヒトラーの側のなんらかの変化にあるのではなく、それはヒトラーが相手にした敵のほうの移り変わりにある。

ヒトラーの成功は、強い敵はおろか、ねばり強い敵に対してさえ、決して得られなかった。

1920年後期のヴァイマル共和国や、1940年のイギリスでさえ、彼には強すぎたのだった。

ヒトラーは、弱者がしばしば強者を出し抜いて勝つときのような着想の豊かさや機敏ささえ持ってはいなかった。


ヒトラーの勝利はすべて、実際に抵抗するのが不可能か、その意志のない敵から得たものだった。

国内政治面では、彼はヴァイマル共和国にとどめをさしたが、それはこの共和国がすでに空洞化し、実際上見捨てられているときだった。

外交面では、彼は1919年のヨーロッパの平和体制をお払い箱にしたが、それはこの体制がすでに内部から崩壊しかかっていて、維持できないと分かっていたときだった。

いずれの場合も、彼は倒れつつあるものを倒したにすぎなかった。


ヒトラーが数々の成功を収めた1930年代は、それ以前と以後と違って、例外なく弱い敵を相手にして得られたものだった。




● ヒトラーに倒されたときには既に"死に体"だったヴァイマル共和国


ヒトラーは世界恐慌発生後の1930年9月の総選挙で最初の大きな成功を勝ち得たが、ヴァイマル共和国の命脈は、この年すでに尽きていた。


ヴァイマル共和国は、「ドイツ社会民主党」 (SPD)と、自由主義左派の「ドイツ民主党」 (DDP)と、カトリックの「中央党」 (Zentrum)ら中道左派の三党連合によって創設されたが、この三党は帝政末期の1918年10月の段階で、すでに帝政内で議会主義化を成し遂げていた。

そして1918年11月に、ドイツを帝国から共和国へと変える「ドイツ革命」を達成したあと、国会でヴァイマル連合を形成し、ヴァイマル憲法を制定し、統治に着手して行くこととなったが、

しかしヴァイマル連合が当初考えていたヴァイマル憲法とは、皇帝を排除した共和制ではなく「議会主義帝政」の憲法を実質的に模倣したものを作ろうとしていた。


ドイツを帝政から共和制へと変える「ドイツ共和国」樹立宣言は、ヴァイマル連合のドイツ社会民主党 (SPD)の幹部だったフィリップ・シャイデマンから発せられたものだったが、

これは、ドイツの敗戦の混乱時に、ヴォルシェビズムによるロシア革命と同じ共産主義革命をドイツ国内で実現すべく「社会主義共和国樹立宣言」を発しようとしたスパルタクス団の行動を潰すことを優先して出されたもので、帝政の崩壊までは、当時のヴァイマル連合の望むものではなかった。


ドイツ社会民主党 (SPD)は左派の社会主義政党だったが、帝政の打倒を目指す共産主義革命はヴァイマル連合の構想にはまったく合わないもので、そのため急進左派の共産革命運動は徹底的にヴァイマル連合から弾圧された。

しかしこの処置に深い恨みを抱いた左翼の中から執拗な反対派が生み出され、これにより彼らはヴァイマル国家を決して受け入れず、これと和解しない勢力となった。


また、ヴァイマル連合では左翼による帝政打倒の共産革命を恐れて、妥協的な共和国家の樹立を受け入れることとしたが、

そのことが、強力で執拗な右翼の反対派をつくることにもなった。

彼らはドイツ共和国樹立後も、依然として陸軍と官僚組織のほとんどすべての公職を占めていたため、彼ら右翼のほうが左翼の反対派よりずっと危険な存在だった。

ヴァイマル国家は、最初から、公職についている者のなかに数えきれないほど多くの憲法の反対者を抱えていた。

ヴァイマル共和国は誕生した当初から、常に左右からの蜂起にゆさぶられて、この共和国が長生きするとは誰も思わなかった。


ヴァイマル連合は、スパルタクス団の乱を鎮圧した直後に行われた「1919年ドイツ国民議会選挙」では、連合(ドイツ社会民主党、中央党、ドイツ民主党)で76.2%の票を集める大勝利を収めたものの、しかし敗戦国ドイツにとって屈辱的なものとなったヴェルサイユ条約調印後に行われた「1920年ドイツ国会選挙」では、ヴァイマル連合は早くも議席の過半数を失い、以後それを取り戻すことのないままに終わった。


早くも危険な状態に陥ったヴァイマル共和国だったが、1925年から1929年までの数年のあいだは「黄金の20年代」と呼ばれ、比較的統治が安定した。

その理由は、先ず、有能なグスタフ・シュトレーゼマン外相によって、賠償の重荷の軽減がなされたことに加え、アメリカの借款が控え目な経済の繁栄をもたらしてくれたことと、

それとこの数年間だけは、ヴァイマル国家を否定しつつ、あらゆる省や庁にしっかりと根をおろしていた強力な右翼反対派が、このときは一時的に国家に対する反対を放棄して、理性的共和主義者となってくれたことが、共和国の存命につながった。

それらのことが、このヴァイマル共和国という実は「共和主義者のいない共和国」を生きながらえさせる要因となった。


右翼反対派が1925年から1929年の間だけ、ヴァイマル共和国に対する敵対心を解いたのは、1925年4月に、ヒンデンブルク大統領が選出されたからだった。

世界大戦の英雄で帝政時代の元帥たる人物を頭に頂いたことにより、この共和国は、それまで断固として

拒否していた右翼にとって、突然受け入れられるように見えてきたのだった。


カトリックの「中央党」 (Zentrum) と、自由主義右派の「ドイツ民主党」 (DDP) と、「ドイツ人民党」 (DVP)の中道三党が、保守主義の「ドイツ国家人民党 」(DNVP)と組んで連立の右派政権をつくっていた1925年から1929年までの間、反対派右翼の和解姿勢は続いた。


しかし1928年に行われた「1928年ドイツ国会選挙」によって、この妥協的右派連合も終焉を迎える。

このころは「ロカルノ条約」の締結や、「ドーズ案」によるアメリカからの資金援助でドイツの社会や経済が安定していたため、ここで再びヴァイマル共和政が肯定的な評価を受け、ヴァイマル共和政を作った「ドイツ社会民主党」(SPD)が再評価を受けることとなったのだった。

そしてその選挙結果、久しぶりの社民党首班政権である第2次ヘルマン・ミュラー内閣が成立。

ミュラー内閣は社民党(SPD)・中央党 (Zentrum) ・ドイツ民主党 (DDP) ・ドイツ人民党 (DVP) ・バイエルン人民党 (BVP) による大連立政権を組み、ヴァイマル共和政下では最長を記録する内閣となった。


しかしその一方、保守・右翼陣営は惨敗。与党を組んでいた「ドイツ国家人民党 」(DNVP) は三分の一近くの議席を失って73議席にまで落ち込んでしまった。

野党となった保守主義のドイツ国家人民党 (DNVP) は、新しい指導者ヒューゲンベルクのもとに再び厳しい反共和国家路線に戻り、

また、カトリックの中央党 (Zentrum) でさえ、同じく新しい指導者カースのもとに、なんらかの権威主義的政権の必要性を口にするようになり、

そして国防省においても、政治好きのフォン・シュライヒャー将軍によってクーデター計画が練られるまでになった。

右派は、この1928年選挙のような大敗を二度と起こしてはならないと、そのために、ビスマルク時代のドイツ帝国のように、議会と選挙に左右されることのない、永続的な右翼政府の存在が必要だと考え始めるようになった。

彼らは、議会による支配からさよならした大統領政権の誕生を望んだ。





















まだ途中です。


ヴァイマル政権時代のドイツの細かい歴史については、以下のまとめもご参照ください。


『ナチスの台頭に至るまでのドイツ(ヴァイマル)共和国の変遷』 https://ncode.syosetu.com/n6472fe/


『ヒトラーが政権を掌握するまでの略歴(神野正史『世界史劇場 ナチスはこうして政権を奪取した』等からのまとめ)』 https://ncode.syosetu.com/n3752fe/

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