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セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』③

セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』(1979年、草思社)より。

第一章「生活」部分のまとめ。その③。

ヒトラー自身による大衆を扇動する才能の発見と、その唯一無二の才に目覚めたヒトラーのなんぴとにも責任を負わない「総統」就任への決意の芽生え。

それとヒトラーの自殺に対する認識のあり方などについて。

・大衆を扇動する才能を自ら発見したヒトラー


ヒトラーは第一次世界大戦末期の1918年11月に、ドイツ帝国が国内の社会主義者の起こした反乱「11月の犯罪(ドイツ革命)」によって敗戦へと追い込まれた日に、政治家となる決意をする。

それがヒトラーの1918年11月の「心の目覚めの体験」。


ヒトラーが政治家になると思い立ったときに決めた政治的決意は、かつての「11月の犯罪(ドイツ革命)」を再び戦争(第二次世界大戦)を起こすことによってもう一度やり直し、11月の犯罪を起こした社会主義者やユダヤ人も抹殺した上で勝利し、歴史を正しく修正しようというものだった。


そんなヒトラーは続いて1920年2月24日、「心の目覚めの体験」に続く「悟りの体験」を持つに至る。

その悟りの体験とは、ヒトラーがある大集会で初めて演説をやって圧倒的成功を収めた体験で、それは、自分の「弁舌力」を発見した体験だった。

実に種々雑多の人間の集まりを、それが大きく、雑多であればあるだけ巧みに、ひとつの等質的な、自在に操ることのできる大衆に変える能力。

すなわち、大衆をまず一種の「忘我状態」に移し、ついで彼らをある種の「集団恍惚状態」に入れるヒトラーの有名な能力。


しかしそれはもともと雄弁によるものではなく、ヒトラーの演説とは、ゆっくりと、時おり言葉につまったりしながら始まり、あまり論理的構成もなく、時にはほとんど明確な内容もないことがあった。

しかも、その演説する声といえば、しわがれて耳ざわりな、のどに引っかかるような声だった。

ヒトラーの弁舌力は、雄弁ではなく、ある種の催眠能力、集団的下意識が人のいうなりになろうとする用意があるとき、それをひっつかんで自在に操る集中的な意志力が生み出す能力だった。



・「大衆を操る者」としての才能の目覚めがさらに「総統フューラー」就任への決意に


ヒトラーは、戦友のあいだで、話題が彼の内心の関心事である政治とユダヤ人の問題になると、いつも沈黙しているのに、急に堰を切ったようにしゃべり出し、むきになることがあった。

当時は、それによって単に奇異な感じを与え、「頭のへんなやつ(シュピンナー)」と噂されるだけだった。

ところがこの「頭のへんなやつ(シュピンナー)」が、今度は「大衆を操る者」としての、「太鼓叩き」、「ミュンヘンの王様」としての自分を発見したとき、見損なわれた者のひそかな、若い自負が、これによって成功した者の酔ったような自信に変わった。

そこから次第に、革命的な決意、総統になろうとの決意が生じてきた。


この決意は、ある特定の出来事から生じたものではなく、そのころヒトラーはまだ、「宣伝演説家」、民族を覚醒させる運動の「太鼓叩き」になったことで満足していた。

しかし、大衆を扇動するという誰にもない確かな力を持っていたという発見に加え、彼自身考えられるすべての競争者よりも自分のほうが、政治的にも知的にも優れているという感状が次第に生じてくるようになり、他のドイツの戦争遂行の指導者や、右翼運動家への敬意も消えていった。


さらには、政権における官職の配分や上下の関係などではなく、なんでもできる全能の地位、いかなる憲法あるいは三権分立によっても妨げられず、集団指導にも拘束されない恒久的独裁者の地位までをも求めるようになっていった。


1918年11月の「ドイツ革命」によって誕生した「ヴァイマル共和国」は、ドイツ革命を起こした革命家からも、またその敵からも承認されず、「共和主義者のいない共和国」などと揶揄され、帝政が消滅したあとのドイツには、満たされない一種の空白の状態が生まれた。


負けた戦争への悲嘆と屈辱的な強制された平和条約の憤りは、失われた皇帝の代償として、国民の大部分が「ひとりの者」に憧れるようになった。

歴史家のヤーコブ・ブルクハルトによれば、1920年代の初頭に「以前の権力に類似したなにかへの憧れがやみがたいものになり」、その憧れが、「ある一人の者へと向かわせる」ような気分が生じてきたという。


そしてヒトラーは、そんな世間に蔓延していた、万人が待ち望み、奇蹟を期待している「その人物」に、自らなろうと決意した。



1924年、獄中で『わが闘争』を口述筆記。

1925年、出所後「国家社会主義ドイツ労働党(NSDAP)」を再結成。

1933年、ナチ党 (NSDAP) が政権を掌握。

1934年、「長いナイフの夜」によって突撃隊幕僚長エルンスト・レームを処刑し、突撃隊を初めとする党内外の政敵を粛清。

同年、ヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーは直ちに「ドイツ国および国民の国家元首に関する法律」を発効させ国家元首である大統領の職務を首相の職務と合体させ、さらに「指導者兼首相 (Führer und Reichskanzler) であるアドルフ・ヒトラー」個人に大統領の職能を移した。ただし「故大統領に敬意を表して」、大統領 (Reichspräsident) という称号は使用せず、自身のことは従来通り「Führer(指導者)」と呼ぶよう国民に求めた。


<アドルフ・ヒトラー - Wikipedia>



・余人には代えられない唯一無二の自分の存在が、ドイツの未来と運命を左右するという自意識の芽生え


ヒンデンブルグの死去、によって、ヒトラーは、なんぴとにも責任を負わない「総統」の完全な全権を獲得。

そしてヒトラー45歳のとき、ついにドイツ帝国総統に就任。

しかしそれと同時に、彼には、残されている寿命の間にどれだけ自分が国内政治上および外交上の計画を実現できるかという問題が起こった。

つまり、自分の政策と政治的時間表を、この世で予想される自分の生命の長さに従わせるという決意を固めた。


ナチス党は、ヒトラーにとって彼の個人的な権力掌握の道具にすぎなかった。

党は政治局をもったことがなく、彼は党のなかに後継候補が台頭してくることを許さなかった。

自分の寿命のつきたあとのことを考えたり、配慮したりするのを彼は拒否した。

一切が自分によって行われなければならないようにした。


だが、そのために彼は時間に追われることとなり、そのことは必然的に性急な、そして現実に即さない政治的決断を下さざるをえないようにした。

1918年11月の敗戦の屈辱を覆すための大戦争の決行も、彼が生きているうちに必然となったが、ヒトラーはむろんそのことを公然と語ったことはなかった。

しかしヒトラーはそのかつての内心の自分の決心を、1945年2月、連合国の包囲が迫ってくるなか、ベルリンの官邸地下壕で、ボルマンへの最後の遺書のような口述において、すべてをあからさまに認めた。

ヒトラーは戦争を一年遅れて、つまり1938年でなく、1939年にやっと始めたことを、

「だが、どうしようもなかったのだ、イギリス人もフランス人もミュンヘンで私の要求をすべて受け入れたのだから」と、嘆いたあと、続けて、

「宿命的なことだが、私はすべてを一個人の人間の短い生命のあいだにやりおおせねばならないのだ・・・・・・ほかの者にはいくらでも時間があるのに、私にはわずか数年というみじめな時間しかない。ほかの者なら後継者が現れるのを知っているのに・・・・・・」と語った。


ヒトラーは、ドイツの歴史を彼個人の生活史に組み入れ、従わせようとする決意を有していた。

彼は1939年初頭にルーマニアの外相ガーフェンクがベルリンを訪問したとき、

「私はいま50歳だ。私は55歳や60歳になってからでなく、いま戦争を始めたい」といっていた。


そして同じ1939年11月23日には、将軍たちを前に、西方攻撃を促すように迫って、

「最後の要因として、はばかりながら、私という人間が余人をもって代えられないことをあげねばならない。いかなる軍人も、またいかなる市民も私に代わることはできないであろう。暗殺の企みは繰り返されるかもしれない・・・・・・ドイツ帝国の運命は一に私にかかっている。私はこれを基準に行動する」ともいっていた。


ヒトラーには、歴史をヒトラー個人の生活史に、国家と民族の運命を自分の生涯に従属させようとする決意があった。

1937年11月5日、「ホスバッハ議事録」に書きとめられている秘密談話には、ヒトラーの絶対権力者就任と戦争に対する決意が、明らかな兆候として最初に示されていた。

ヒトラーの自信を迷信的なものにまで高め、自らをドイツに等しいとするだけでなく、ドイツの存続も滅亡も自分の生と死に組み込ませ、従属させる権利を与えられた特別の選ばれた者という感情が生まれた。



・ヒトラーの自殺に対する意識


ヒトラーは失敗するたびに、自殺を考えた。

ヒトラーは、ドイツの運命を自分の生命に依存させるだけでなく、同時にその生命をいつでも放り捨てる用意があった。

ヒトラーはスラーリングラードのあと、パウルス元帥がロシア側に降伏して、ピストル自殺しなかったことについて、そのときの失望を、

「かつてわが事終わると知った最高司令官が自刃したように、この男は自殺すべきなのだ・・・・・・このみじめな世界にとどまる義務がなくなるとき、ひとは自分をこの苦境から救ってくれる数秒をなんと恐れることか」

といった、怒りの爆発で晴らした。


そして7月20日の暗殺未遂事件のあとでは、

「私の生命がこれで終わっていたら、私個人にとっては、それは心配と眠れぬ夜とひどい神経症からの救いだったといっても許されるだろう。一秒のほんの何分の一かで、人は一切から解放され、安らぎと永遠の平和を得られるのだ」ともいっていた。


ヒトラー個人の生活はまったく空虚だったので、逆境になれば彼にとって維持するだけの価値がなかった。


ヒトラーの政治生活はほとんど最初から一切か無だった。

その無が現れてきた以上、自殺はまるでひとりでのように生じた。

自殺するだけの勇気はヒトラーはつねに持っていた。


ヴァイマル政権時代のドイツの細かい歴史については、以下のまとめもご参照ください。


『ナチスの台頭に至るまでのドイツ(ヴァイマル)共和国の変遷』 https://ncode.syosetu.com/n6472fe/


『ヒトラーが政権を掌握するまでの略歴(神野正史『世界史劇場 ナチスはこうして政権を奪取した』等からのまとめ)』 https://ncode.syosetu.com/n3752fe/

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