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セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』①

セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』(1979年、草思社)より。

第一章「生活」部分のまとめ。その①

ヒトラーの人生と彼の内面的性質について。

・ヒトラーの人生と彼の内面的性質


ヒトラーの一生は56年の生涯だが、最初の30年と続く26年との間には、深い断層がある。

1919年までは弱さと不能の時代だったが、1920年以降は力と業績の時代となった。

しかしこれは横に切った断面ではなく、縦に切られた裂け目であって、

それ以前も以後も、ヒトラーの個人的生活の異常な貧困と政治的生活および政治的経験の異常な強烈さとは並存して存在をしていた。

戦前のあやしげなボヘミアンのときにかれはすでに、あたかも最高の政治家であるかのように、時代のながれのなかで動いていたし、

そして総統フューラーとなり、ドイツ帝国首相となっても、彼の個人的生活は成り上がりのボヘミアンそのままだった。


ヒトラーの生涯には、その以前にも以後にも、通常、人間の生活に重み、暖かさ、品位を与える者、つまり教養、職業、愛情とか友情、結婚、父親であるといったものがすべて欠けていた。

それは、彼の政治と政治的情熱を度外視すると、内容のない生活であり、重みのない、簡単に投げ捨てられる生活だった。

事実、いつ自殺してもよいという気持ちが、耐えずヒトラーの全政治生活につきまとっていて、そして実際、最後には、自明のことのように、自殺を遂げた。


・ヒトラーの女性関係


ヒトラーは結婚もせず、子どもも持たず、女性との恋愛も彼の生活で異常に小さな役割しか果たさなかった。

彼の生涯には二、三の女性がいたが、彼は彼女たちを添え物のように扱い、幸福にはしてやらなかった。

エーファ・ブラウンは耐えず傷つけられる苦しみを受け、

「彼は私をきまった目的のためにしか必要としない」といって、二度自殺をはかった。

彼女の前の女性、ヒトラーの姪ゲリ・ラウバルは、おそらく同じ理由からか、実際に自殺した。


・ヒトラーの友人関係


ヒトラーは友人も持たなかった。

運転手とか護衛とか秘書とか、目下の者たちと何時間もいっしょに過ごすのが好きだったが、彼は一人でしゃべるだけだった。

本当の友達関係は生涯拒否した。

ゲーリング(党の古強者のひとり、空軍最高司令官)、ゲッベルス(党の古強者のひとり、宣伝相として有名)、ヒムラー(党の古強者のひとり、秘密警察を握る親衛隊の全国指導者)、といった人たちとの関係は、つねに冷たく距離を置いたものだった。


ヒトラーの側近の古強者のうちで、彼が初期のころ、"君、僕”の親しい関係にあったただ一人の男、突撃隊長のレームを彼は射殺させた。

その主たる理由は、彼が政治的に邪魔になっていたからだったようだが、

だが、かつての親しい友人関係さえ、ヒトラーの政治目的遂行のためには、なんの妨げにもならなかった。


・ヒトラーの教養


ヒトラーは悪い点数をもらった二、三年の実業学校での教育だけで、彼はきちんとした教育を受けたことがなかった。

彼が実際に通じていたものは、前線兵士として実地の経験によって得た、軍事的な事柄と軍事技術上の知識だけだった。

その他の点では、彼は一生を通じて典型的な半可通だった。

政治上の領域に関しても、熱心な韻文愛好家程度の知識は持っていたが、生かじりの知識や間違った知識を好んで大衆の前で振り回し、なんでも人よりよく知っているような顔をしては、聴衆がなにも知らないのをよいことに、こうしたいい加減な知識で威圧した。


・ヒトラーの職業


職業においても、ヒトラーは職業を持ったことも、求めたことも一度としてなかった。

政治に関しても、政治は彼の生きがいだったが、決して彼の職業とはいえなかった。

ナポレオン、ビスマルク、レーニン、毛沢東といった人物と比べて、彼らのうちの誰をとってもヒトラーのように、ただもう政治家でしかなく、他のすべての面ではゼロだったという者はいない。

四人ともすべて高い教養を持ち、「政治に足を入れ」、歴史に名を残す前に、将軍とか外交官とか弁護士、教師といった職業を持ち、それで実力を示していた。

また四人とも結婚をし、それぞれ大いなる愛情を知って、それが彼ら偉大な人たちに人間味を与えている。

が、ヒトラーにはそうした人間味が欠如していた。


・自己批判能力の欠如と肥大化した万能感


ヒトラーにあっては、彼の性格、彼の個人的本質の発展とか成熟ということが全然みられない。

彼の性格は早くから固定してしまった。より適切にいえば、止まってしまった。

そして驚くべきことに、ずっとそのままで、何かが付け加わるということがなかった。

無謀、復讐心、不誠実、残酷といった否定的な特性はいうまでもなく、温和な、愛すべき、人と宥和する性向が一切欠け、意志力、大胆、勇気、ねばり強さといった彼の肯定的な特性でさえ、それはすべて「冷酷」な面に表れていた。

ヒトラーには、自己批判能力が完全に欠如していて、ヒトラーはその全生涯を通じてまったく異常なまでに自分にのぼせ上がり、そもそもの初めから最後の日まで自己を過大評価する傾向があった。



・ヒトラーの人生と彼の政治的テーマ


ヒトラーの政治的伝記については、これは彼が最初に公衆の前に登場するだいぶ前に始まり、七つの段階という飛躍があった。


1、生きがいの代償としての政治への早くからの熱中

2、最初の(まだ私的な)政治的行動としての、オーストリアからドイツへの移住

3、政治家になる決意

4、大衆演説家としての自己の催眠術的な能力の発見

5、総統になろうとする決意

6、自分の政治的時間表を予想される自分の寿命に従わせる決意(これは同時に戦争への決意となる)

7、自殺の決意


第一次世界大戦前のヨーロッパは、今日のヨーロッパよりずっと政治的だった。

それは帝国主義的な列強のヨーロッパで、列強は絶えず角逐し、普段に陣取り争いをやり、絶えず戦争の用意をしていた。

それはあるいは赤色革命のヨーロッパで、当時、ブルジョアの常連が集うどのテーブルでも、プロレタリアの行くどの飲み屋でも、常に政治議論が交わされていた。

政治は当時、ほとんどすべての人にとって、特に熱烈な政治への関心に目覚めた青年ヒトラーにとって、それは全面的に生きがいだった。

ヒトラーの芸術的功名心は18、19歳にして挫かれたが、功名心そのものは彼の新しい関心領域へと持ち込まれていった。


・ヒトラーの政治思想(反ユダヤ主義、大ドイツ国家主義、社会主義)


1910年代のヴィーンでは、国家主義と社会主義は、大衆を動かす力強い合言葉だった。

しかしヒトラーの政治的世界観の基礎といえるものは、国家主義と社会主義の融合体ではなく、国家主義と反ユダヤ主義の溶け合ったものだった。

ヒトラーの反ユダヤ主義はほとんど彼の生まれつきのもので、民族主義的で大ドイツ主義の国家主義も、彼のヴィーン時代に生じていたものだが、

社会主義はどうみても後年の付け足しだった。


ヒトラーの反ユダヤ主義は、東ヨーロッパの産物。

西ヨーロッパではドイツにおいても反ユダヤ主義は世紀末には退潮で、ユダヤ人の同化と統合が望まれ、盛んに進行していた。

だが多数のユダヤ人がユダヤ人街としてのゲットーに、民族のなかの隔離された民族として存在していた東と南ヨーロッパでは、反ユダヤ主義は風土病的で凶悪な様相を呈し、ユダヤ人の同化と統合に向かわず、廃棄と根絶の方向をとっていた。

そしてヒトラーの生まれたオーストリアのヴィーンには、この凶悪な、ユダヤ人に逃げ道を与えない反ユダヤ主義が深く入り込んでいた。

ここでヒトラーは反ユダヤ主義と知り合った。

しかし、ここで若きヒトラーがどのようにして反ユダヤ主義と知り合ったのかはわからず、ヒトラーにどんな不快な経験があったのかということも不明。

が、『わが闘争』には、ヒトラーにとって、ユダヤ人が別の人間であるとわかれば、それで「彼らは別の連中だから、いなくならねばならない」との結論を出すに十分だと書かれているだけだった。


ただし、この青年の心に深くしっかりと喰い込んだ凶悪な反ユダヤ主義は、差し当たり彼自身の生活にはなんら具体的な結果ももたらさなかった。

だが、ヴィーン時代のもう一つの産物である大ドイツ国家主義はそうではなく、それは1913年、ヒトラーに、ドイツへ移住しようとの決意を生んだ。


・オーストリアからドイツへの移住


青年ヒトラーは、自分をオーストリア人ではなく、ドイツ人、それも貧乏くじを引いてドイツ帝国の建設とドイツ帝国とから不当に締め出され、見捨てられたドイツ人だと思っているオーストリア人だった。

そうした感情は当時の多数のオーストリア人に共通するものだった。

全ドイツを後ろ盾にすれば、オーストリアのドイツ人はこの多民族国家オーストリアを支配し、思うように動かすことができるはずだった。

ところが彼らは1866年にドイツから締め出され、自分の国では少数民族となってしまった。


※当時のオーストリアは現在のチェコスロバキア、ハンガリー、ポーランドの一部、ユーゴスラビアを含む他民族国家であり、まさにそれゆえにこの国はビスマルクのドイツ統一から除外された。

このため、それまでドイツを背景にオーストリアで優越的地位を占めてきたドイツ系の人々はにわかに危機にさらされた。

そこで彼らはハンガリーのマジャール人貴族と手を結び、その結果、オーストリア=ハンガリーの二重王国ができあがったが、これ以後も多数の民族の民族主義に悩まされることとなる。

第一次世界大戦でこのオーストリア=ハンガリー帝国が解体して多数の小国家が生まれた。


結論を出すのが得意な専念ヒトラーは、早くからひどく極端な結論を出していた。

それは、オーストリアは崩壊する、そして崩壊の過程から大ドイツ国家が生まれ出て、すべてのドイツ系オーストリア人を包含し、同時にオーストリアに生まれる小さな国々をその重さで再び支配する、というものだった。

心のなかで彼はもはやオーストリア=ハンガリー帝国の臣民ではなく、この来るべき大ドイツ帝国の市民だと思っていて、そこから彼は自分自身についての極端な結論を引き出した結果、1913年の春、国外への移住を決意するに至った。


ヒトラーはオーストリアの兵役を逃れるために、ヴィーンからミュンヘンへと移住したが、それは兵役拒否や臆病からではなく、ヒトラーは、自分自身が内心で訣別しているオーストリア=ハンガリーの他民族共存を理想とする主義のためや、またすでに最期を見切っている国のために戦いたくなかっただけだった。

1914年に第一次世界大戦が発生すると、ヒトラーはオーストリア陸軍ではなく、ドイツ陸軍へと直ちに志願した。


第一次大戦への従軍で、ヒトラーは政治的に満たされていたが、ただ彼の反ユダヤ主義だけが満たされないでいた。

ヒトラーの思いでは、第一次世界大戦の戦争を利用して、ドイツ国内の「国際主義」を、撲滅すべきだと考えていた。

ヒトラーはその「国際主義:Internationalismus」という単語の末字の「s」を、「ß (エスツェット)」と書いていた。

つまりヒトラーにとっての 「国際主義:Internationalismus」とは、反ユダヤ主義についてのことを意味していた。


ヴァイマル政権時代のドイツの細かい歴史については、以下のまとめもご参照ください。


『ナチスの台頭に至るまでのドイツ(ヴァイマル)共和国の変遷』 https://ncode.syosetu.com/n6472fe/


『ヒトラーが政権を掌握するまでの略歴(神野正史『世界史劇場 ナチスはこうして政権を奪取した』等からのまとめ)』 https://ncode.syosetu.com/n3752fe/

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