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13-4



 少し迷うような素振りを見せたクロヴィスは、やがて、意を決したようにアリシアをまっすぐに見据えた。


「フリッツ王子と会ってみて、実際のところ、いかがでしたか?」


「王子? どうって、何が?」


「つまり、好ましいと感じたか否かです」


 やや言いづらそうに答えた補佐官に、あやうくアリシアはソファからずり落ちそうになった。まさか本気ではなかろうなとまじまじとクロヴィスを見ると、「笑いごとではありません」と、彼は渋い顔をして大真面目に述べた。


「前世でのあなたは、王子に一目で恋に落ちたと記憶していたはずです。同じことが今世でも起こった場合、私たちが取るべき対応は変わってまいります」


「ああ、そういうこと……」


 今更のように、王子と会うことで自分が恋に落ちていた可能性に思い至って、アリシアはぱちくりと瞬きをした。逆にいえば、その可能性を思い至らないほどに、王子を前にしてもアリシアの心が惹かれることはなかったのである。


 なぜだろうと、アリシアは真剣に考えた。


 何度も絵姿で見た通りに、むしろそれ以上に、フリッツ王子は魅力的な青年だった。理知的な強いまなざしも、堂々としたふるまいににじむ為政者としての鋭さも、節々から感じる彼の気高さも、どれもが王子として好ましいものだった。


 前世の記憶がなければ、あるいは前世の記憶があったとしても、一度彼の前に立ったならば、王子の瞳に映るただ一人の女となることを夢見てしまってもおかしくないというのに。


(って、答えはわかり切っているのだけれども)


 じっと答えを待つ補佐官を見て、アリシアは苦笑をした。


 どんなに感情を押し殺していたって、こんなにも側で支えてくれる相手のことを簡単に心から締め出すことなどできない。むしろ、主人と従者という線引きをしても無視できないほどに、クロヴィスという存在はアリシアの中で大きくなってしまっている。


「……あなたって、罪な人よね」


「はい?」


「ううん。独り言」


 ブランケットにくるまったまま、アリシアはもぞもぞと首を振った。そろそろ、眠気も限界だ。下手に会話を長引かせては、余計なことまで口走ってしまいそうだ。


「今回は、ひとめで王子に恋に落ちたなんて、おとぎ話みたいなことにはならなかったわ。けれど、少しだけ気になった」


「気になった?」


「感情がね、読めないのよ」


 アリシアの答えが意外だったのだろう。虚を突かれたように、クロヴィスは薄い唇を開いた。


「そうでしょうか? 幼い頃に比べれば、ずいぶんと表情豊かになったと思いますが」


「そうね。私も、最初はそう思ったわ。お前が教えてくれた遠征時代の彼の様子とは、ぜんぜん違う印象を抱いたもの。けれど……、あの時の目」


「目?」


 あくびを噛み殺しながら、アリシアは補佐官に頷き返した。


 最初に出迎えてくれた時、実をいうと彼女はほっとしたのだ。アリシアが知るフリッツ王子の情報といえば、前世でシャーロットと共に逃げた姿と、クロヴィスから聞く幼い日の姿ぐらいだ。しかも、そのどちらもあまり好ましい印象を生む情報ではない。


 だから、前世での所業を考えれば完全に信用することはできないにせよ、人当たりの良い好青年が出迎えてくれて、少なくとも話の通じそうな相手でよかったと思ったのである。


 ほんの一瞬、まばたきにも満たない僅かな時間にだけフリッツが浮かべた、ひどく凍えた眼差しを見るまでは。


 アリシアがそれに――女帝を前にした時の強張りに気が付いたのは、それがかつての、出会ってすぐの頃のクロヴィスのそれと似ていたためだ。


 たぶん、諦めに近い感情だと思う。


 使節団の慰労会で王の前に立ち、グラハムの血のことで辱めを受けた時。また、王女補佐官の任命式で、枢密院貴族の欠席を目にした時。クロヴィスもまた、強張った表情の奥に同様の影を潜ませていた。


 誰も認めてくれない。

 誰もわかってくれない。


 世界中の誰もが敵であるような心地がして、すべてを投げ出してしまおうとするような―――。


「なんとなく、だけれども、王子とエリザベス様の間には溝があるのでは、ない、かしら」


 こくん、こくんと頭を揺らし、くっついてしまいそうな瞼を押し上げて、アリシアはなんとかつづけた。


 瞼の裏に浮かぶのは、フリッツ王子と女帝エリザベスを隔てる奇妙な距離感。実の親子だというのに、二人の間に流れる空気は、他の臣下たちと女帝の間を満たすものと大した違いはなかった。


 とにかく言えることは、王子を第一印象そのままの“爽やかな好青年”とみるのは、まだ判断が早いだろう。腹の内が読めないという点では、女帝よりもよほど警戒が必要かもしれない……。


 かくん、とアリシアの頭が大きく揺れて、頭からすっぽり被っていたブランケットが滑り落ちた。露わになってしまった肩がすーすーとして心許ないが、もはやそれを直すのも億劫である。


 と、アリシアが夢と現の境をさまよっていると、衣擦れの音と共に目の前に誰かが立つ気配があり、再びに肩に暖かく柔らかな感触が戻った。クロヴィスがブランケットをかけ直してくれたのだと思い当たった時、アリシアの耳に低く優しい声が響いた。


「もう、今日は終わりにしましょう。アニ殿が戻るまでの間、しばしお休みください」


 でもと、アリシアは食い下がろうとするが、薄く開いた唇からは意味を成さない音が漏れるばかり。抗議しようとしていることだけは雰囲気で伝わったのか、苦笑のようなものが頭上から降ってくる。


 と、大きくて暖かい手が、優しくアリシアの髪をなでた。


 その手があまりに心地よくて、これは夢なのかもしれないとアリシアは考えた。夢と現の狭間が見せた、優しい幻影。あるいは性懲りもない己の願望。


 けれども、たとえこの手の感触が夢であったとしても、何をかまうことがあるだろう。


 もちろん、これが本当のことであるならば、とても嬉しい。とはいえ、夢の中だからこそ素直になれることもある。目覚めれば消えてしまうのだからと言い訳をして、いっそ甘えてしまうのも一興だ。


 そうしてアリシアは、安心しきった笑みを浮かべた。恐らくは、ふにゃりとした締まらない顔となっていたことだろう。


 また、あなたはそんな顔をする。


 なにやら苦情めいた呻きが聞こえた気がしたが、それもどうでも良いことだ。ふわふわとした心地よさに身をゆだねて、アリシアはついに眠りの中へと意識を手放したのであった。







 長い渡り廊下の奥で、小さな光がちらちらと揺れる。豪奢な赤い扉にもたれて瞼を閉じたクロヴィスに向かってその光はまっすぐに近づくと、彼の目の前で止まった。


「あらまぁ。その様子だと、やっぱり姫様、寝ちゃいましたか」


「……ああ。おかえりなさい」


 紅茶セットを乗せた銀のトレーを手にしたマルサと、オレンジの灯が揺れる蝋燭を掲げたアニ。二人の侍女の姿を確認して、クロヴィスは組んでいた腕をほどいた。


「アリシア様は、ソファに座ったままお休みされています。寝台までお運びしようかとも思いましたが、ドレスでは横になっても苦しいかと」


 ちらりと扉に視線を走らせて説明してから、クロヴィスが申し訳なさそうに表情を曇らせた。


「すみません。席を外していただいた上に、ティーセットまで用意してもらったのに。それに、あの方が眠ってしまっていては、就寝仕度を整えるのも一苦労ですね」


「かまいませんよぅ。クロヴィス卿と話しているうちに姫様寝ちゃうだろうなぁって、わたしたちも話していましたしぃ」


「大体、何年わたしたちがアリシア様のお側にいると。あの方がぐっすり眠っていたって、ドレスを脱がせて身を清めさせていただくなんて、朝飯前ですよ」


 頼もしく胸をはるアニとマルサに、クロヴィスはほっと胸をなでおろした。たしかに、後はこの二人に任せておけば万事問題ないであろう。


 では、と挨拶をして、クロヴィスは二人の間をすり抜けようとした。そんな補佐官の背中を、アニが呼び止める。


「中で待っていればよかったのに、こんな廊下に立っていて冷えたでしょう。よかったら、これ、一杯飲んでいきません?」


 アニが指さした先で、マルサが軽く銀トレーを掲げる。ティーポットからほんのり湯気が上がるのが見えて、そのお誘いはとても魅力的なものと思えた。だが。クロヴィスはゆっくりと首を振った。


「せっかくですが、ご遠慮いたします。男の俺がいては、邪魔になることもありましょう。身支度を整えている間に、アリシア様が目を覚まされたら差し上げてください」


「でもでも、アリシア様のお着替え、すぐには始めませんから大丈夫ですよ」


「あ! まって、クロヴィス卿!」


「遠慮しなくていいんですよぅー」


 侍女ふたりの声が追いかけてきたが、それには構わず、補佐官はさっさと暗い廊下へと足を踏み出した。


 蝋燭を持たないクロヴィスの前には、白い月明りがほのかに道を照らすだけだ。しかし、そのほどよい暗さに、彼は心から感謝をしていた。


 遠慮するとか、しないとか。そういう問題ではないのだ。


 さらりとした髪が指をすべる感触が、まだ右手に残る。吸い寄せられるように触れたそれからは、花のような香りがした。


“こんなに気を張らずにいられるのは、クロヴィスの前だけだもの”


 鈴の音のような声が耳を打ち、補佐官は溜息と共に顔の半分を覆い隠した。


 無防備すぎる素顔も、素直すぎる物言いも、すべてが彼を困らせる。


(あなたという人は。俺というやつは)


 口元を手で覆ったまま、クロヴィスは二重にうめいた。幸いにして、夜の闇は深い。彼の動揺も、白い肌に差すわずかな赤みも、月明りだけでは暴き出すことはかなわない。


 すべてを知ることが可能なものがいるとしたら、それは、夜空で輝くまるい月ぐらいであろう。


 気づいてはならない。気づかせてもならない。

 小さく芽吹く、この気持ちにだけは。


 夜の深い蒼に溶けこんでしまおうとするように、青年は、足早にその場を立ち去ったのであった。



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