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13-1



 煌びやかな宴の時は終わり、夜の帳が静かに落ちる。


 柔らかなワルツの調べも、ささやくような人々の笑い声も今はなく、いつの間にか降り始めた小雨が夜闇を潤す音だけが響く。目まぐるしい一日を過ごした後ではそれが心地よくて、アリシアはガラス窓に指を滑らせた。


 その時、かちゃりと磁器がぶつかる音がし、アリシアの意識は室内へと戻された。


「どうぞ、アリシア様」


 アリシアが振り返った先で、クロヴィスが淹れたばかりの紅茶を示して微笑んだ。


 礼をいってからティーカップを手にとると、瑞々しい若木にも似たかぐわしい香りがふわりと鼻腔をくすぐる。そっと口をつけると体の奥からじんわりと熱が広がり、アリシアはほっと息をついた。


「お前はやはり器用ね。私も紅茶の淹れ方をアニに教わっているけれど、私の腕じゃ、こんなに香り豊かにならないもの」


「アニ殿が用意してくださった茶葉がよかっただけですよ」


 謙遜をしつつも、クロヴィスは嬉しそうに微笑んだ。それからアリシアの向かいに座り、自身のカップに口をつけた。


 二人がいるのは、アリシアの執務室だ。かつては家庭教師に教わる際やクロヴィスとの面会で使ったりしていた小部屋だが、王より徐々に政務を任されることが増えるにつれて、机まわりには様々な資料や書籍、書類で満ちるようになった。


 そうした物たちを見ると、アリシアは時の流れを感じずにはいられない。だが、向かい合って座り、あれこれ知恵を出し合うクロヴィスとの関係は今も昔もかわっておらず、そのことはアリシアをひどく安心させるのだった。


 もう一度紅茶に口をつけてから、アリシアは補佐官をまっすぐに見つめた。


「クロヴィスは、ベアトリクス様の話をどう感じた?」


 クロヴィスが動きをとめて、うかがうような視線をアリシアに向けた。しばらくしてから補佐官は紅茶を机に戻し、膝の上で白い指を絡めた。


「乗るべきではない。そう、私は考えました」


「なぜ? 考えを聞かせてくれる?」


「危険すぎます。かつての事件……ロイド卿と通じていた人物が誰なのか、我々は手がかりすら掴めていない。せめて、エリザベス帝とその人物が協力関係にあるか、それだけでも明らかにしてから隣国へ乗り込むべきです。それに……」


「それに?」


 アリシアが先を促すと、クロヴィスの紫の瞳が揺れた。だが、ほんの少しだけ眉をひそめた彼はひとつ息を吐きだすと、すぐに表情を引き締めた。


「それに、あちらの国に赴くということは、自ずとフリッツ王子と顔を合わせるということです。私はアリシア様に、あの方と会ってほしくありません」


 雨の音が、強くなった気がした。


 アリシアは視線を手元のカップに落とし、エアルダールの第一王子、フリッツ殿下に思いをはせた。瞼の裏に浮かぶのは、何度かみたことのある絵姿ではなく、強烈に焼き付いた記憶、夢の中で見た前世での彼の姿の方だ。


  “アリシア……”


 愛する寵姫を腕に囲い、顔を青ざめさせた美貌の王。

圧政により民を苦しめた挙句、ハイルランドの滅亡を招き寄せた張本人。


 首を振って、アリシアはわざと軽い調子で笑ってみせた。


「あの光景を見せられた後じゃ、あの人を王に、私の夫に迎えるなんて、とてもそんな気分にはなれない。けど、エリザベス様が私を次期ハイルランド王として認めるというなら、断る理由もなくなってしまうわね」


「……依然として受け入れがたい人物に変わりありません。ハイルランドの民を、あなたを、苦しめた方です」


 苦々しく答えたクロヴィスの声音は低い。交差する彼の白い指に、ぎゅっと力がこもるのをアリシアは見た。


 だが、賢い補佐官はよくわかっていることだろう。ハイルランドは今、一つの岐路に立たされている。強大なエアルダールに対し、リーンズスとオルストレは己の身の振り方を決めた。次は、ハイルランドの番だ。


 アリシアは身を乗り出し、眉間に皺をきざんで考え込むクロヴィスの額に人差し指を突き付け――――、はじいた。


「お前はまた、心配しすぎ!」


「いつっ……」


 突然に額をつつかれたクロヴィスが、目を白黒させて顔を上げる。それを正面からとらえて、アリシアは腕をくんで微笑んだ。


「ただ、会いにいくだけよ。深刻に考えないで」


「しかし……」


「顔を合わせたからって、その場で即結婚! なんて流れにはならないでしょ? 大丈夫。フリッツ王子がハイルランドのためにならない人物であれば、エリザベス様がなんと言おうが断っちゃうから」


 クロヴィスは何かいいたげに口を開きかけたが、やがて観念したように瞳を伏せた。


「やはり、あなたは心を決めておられたのですね」


「ええ」


 空色の瞳をまっすぐに補佐官にむけて、アリシアはうなずいた。


 エアルダールの女帝は、アリシアを見極めたいと言ってきたが、見極めなければならないのは、アリシアとて同じだ。


「エリザベス帝を、フリッツ殿下を、私は見極めたい。見極めてちゃんと決めたい。ハイルランドの未来のために、エアルダールとどう向き合っていくべきなのかを」


 それに、とアリシアは続けた。


「隣国にいけば、事件の裏で糸を引いていた人物についても、手掛かりが掴めるかもしれないわ。少しでも可能性があるなら、私はそれに賭けたい。黒幕を突き止めるまで、本当の意味で、あの事件が終わったとは言えないもの」


 あの事件―――。何者かが、王国で重要な地位を占めていたロイド・サザーランドを裏から操り、ハイルランドの内政に干渉していたことが発覚した、6年前の騒ぎのことである。


 結局、当時は隣国との関係悪化を憂慮して、事件の背後にいた者について深追いすることはかなわなかった。しかし、あの時に感じた悔しさは、立ち止まることを許されない毎日の中でも決して薄れることはなく、古い棘のように心に刺さっていた。


それだけではない。


 事件の背後にいた人物は、相当に狡猾な人物だ。王国の中枢にいたロイドの懐に入り込んだだけでも驚愕すべきなのに、ロイドを亡き者にした後は、まるで最初から存在しなかったかのように一切の証拠もなく消えてしまったのだから、いっそ称賛に価する。


 それほどの相手であれば、いつの日か必ず、再びにハイルランドに牙をむこうとするであろう。


 未来を変え、ハイルランドの民を守る。

 そう誓ったアリシアが、見逃せるような相手ではない。


 きらりと輝く瞳に主人の覚悟を見てとったクロヴィスは、肩を落として息をついた。


「……何事もあきらめず、何人も見捨てず。あなたらしいお言葉ですね」


「お前に賛同してもらうのは難しそうね」


「正直に申せば、あれこれと理屈を並べ、あなたを説得したくて仕方がありません。そんなことで、アリシア様の決意を覆すことは出来ぬとわかっているというのに」


 口ではそういいながらも、クロヴィスは苦笑した。その秀麗な顔に、彼の紫の瞳にうつる自分の姿に、アリシアは問いかけた。


 自分たちには、あとどれくらいの時間が残されている?

 未来を変えるためのカウントダウンは、今はどのあたりだ?


 たとえそれがわからなくても、アリシアがすべきことは一つだ。


 覚悟を決めた王女は、力強く補佐官に告げた。


「エリザベス帝と会うわ。エアルダールに行くわよ、クロヴィス」






 それから数日のうちに、アリシアをエアルダールに招きたいとの申し入れが、隣国より正式にはいった。それに対し、ジェームズ王はすぐに招待を受ける旨の書状をしたため、補佐室を通じて隣国へと届けさせた。


 こうして、王女は彼女にとって初となる隣国への視察に旅立った。


 クロヴィスらを連れてアリシアが隣国へと出立した朝、ジェームズ王は見晴台からエグディエルの町を見下ろしていた。どことなく弾んで見える王の背中に、ナイゼル・オットー筆頭補佐官は小さく嘆息した。


「よろしかったのですか? アリシア様をお引止めしなくて」


「うむ?」


「何度断っても、懲りずに縁談を持ちかけてきた国です。あれやこれやは二の次で、アリシア様と王子の仲を親密にとりもつために招待したのかもしれませぬよ」


「お主、さてはシアがフリッツ王子に惚れてはしまわぬかと危惧しておるのか? 意外と俗っぽいことに興味があるのう」


「陛下! 私は真面目にですね!」


 ころころと笑い声をひびかせる王に、筆頭補佐官はおもわず抗議した。ここにはナイゼルと王しかいないため、普段は押さえている素の顔が出てしまっているのである。


 するとジェームズ王はいたずらっぽく目を細めて、自信満々に断言した。


「もしもシアの心が動いたのなら、喜んでフリッツ王子との縁談を認めようぞ。我が娘の人を見る目は、信頼できるものだからの」


「そんな呑気な……」


 王の楽し気な口ぶりに、ナイゼルは肩を落とした。


 しかし、ジェームズ王が言うことも一理ある。アリシア姫は立派に成長し、己の目で物事を見極め、自らの意志で道を選び取る力を備えている。そんな彼女であれば、ハイルランドに害を為す人間を側に置くことはしないだろう。


 それに、王女の側にはあの男がいる。


(頼んだぞ、クロヴィス・クロムウェル。王女殿下を、お前が支えて差し上げるのだ)


 王と並んで城下を見下ろしながら、ナイゼルは信頼する部下にすべてを託したのであった。






 からからと、馬車の車輪が規則正しくリズムを刻む。


“未来を変えて、アリシア。僕と君が結ぶ、契約のもとに”


 車輪の音の合間に、遠い昔に出会った少年の声が響く。声だけで姿を見せない彼に、アリシアがあたりをぐるりと見まわすと、ころころと転がる木筒が目にはいった。


 あれは、百式眼鏡だ。前世の死に際に初めて目にし、そのあとは少年に見せてもらったもの。だが、それがなぜこんなところに。


 不思議に思いつつも、アリシアは転がるそれに手を伸ばした。だが、近くに見えるようで木筒は遠くにあるらしく、なかなか手が届かない。そのことに焦れつつ、アリシアはさらに身を乗り出した――――。


「……シア様、アリシア様」


「……ごめんなさい、寝てしまっていたわ」


 目をこすりながら、アリシアは馬車の背もたれから体を起こした。到着してからの段取りについて話しているうちに、いつの間にかまどろみへと誘われてしまったようだ。


 そんなアリシアに、向かいに座るクロヴィスが申し訳なさそうに眉を下げた。


「声をかけずにおこうかとも悩んだのですが……。ごらんください。エアルダールの王都、キングスレーに到着いたします」


 そういいながら、クロヴィスが小窓にかけたカーテンを引き上げる。言われるままに小窓をのぞくと、ハイルランドとは異なる強い日差しが飛び込んできて、アリシアはとっさに片手で光を遮った。


 目を細めて光にならしつつ、もういちど外をみて――――アリシアは空色の目を大きく見開いた。


 アリシアが外をみたとき、ちょうど馬車がアーチ状の門をくぐりぬけたところだった。


 通り抜けたばかりのレンガ造りの壁は大きく立派で、その上には何人もの衛兵が目を光らせていた。彼らが立つ場所の下には、いくつかの見事な像が壁に埋め込まれるように置かれており、鋭い眼差しでこちらを見下ろしている。


 そこを通り抜けた先は、一本の大通りが町を貫く。通りの両脇には黄色っぽい壁の一つ一つ大きな建物が立ち並び、よく見ると、壁の一部には神話を表現したような絵が描かかれていた。


 さらには、通りの先には大広場があり、中央におかれた一体の銅像――エアルダールの祖、征服王ユリウスが愛馬にまたがり雄々しく剣を振り上げる様をかたどった像が、訪れた者たちを圧倒した。


 アリシアは、馬車の小窓に添える己の指に、思わず力がこもるのを感じた。


 さすがは、美と芸術の街。

 エアルダールの威信を、余すことなく伝えてくる。


「すごいわ……」


 声を震わせたアリシアのことを、クロヴィスが心配そうに見る。ためらいつつも、補佐官がアリシアの手に己の手を重ねようとしたその時、アリシアが勢いよくクロヴィスの方へと向き直った。


「すごい! 私、本当にエアルダールまで来てしまったのね!!」


「……ええ。そうですよ」


 きらきらと目を輝かせ、幼い頃に戻ったかのようにはしゃぐ主人に、クロヴィスはくすりと笑みをこぼした。その彼が、触れようとした手を所在なさげに引いたことに、街の光景に夢中になるアリシアはついに気が付かなかった。




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