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いつの間にバルコニーに姿をあらわしたエアルダール外相夫人に、アリシアは小走りに駆け寄った。
「ベアトリクス様! どうされたのですか、こんなところへ!」
「やあね。そんな風にかしこまるのは、やめてくださいな。私は嫁いだ身、もう王家の人間ではないのですもの」
ひらひらと優雅に手を振って、あっけらかんと夫人は笑った。とはいえ、ベアトリクスはエアルダール王家の出であり、父王ジェームズの叔母だ。気をつかうなというほうが無理な相談である。
父を呼んできましょうか。そう、アリシアが申し出ようとした時、クラウン夫人はさっと両手でアリシアの頬を包み込むと、ふにゃふにゃと好き勝手にいじりだした。
「ああ、やっぱり私の……、甥っ子の娘ってなんていうんだっけ。まぁ、なんでもいいわ。アリシア様ったら、なんて可愛いのでしょう!」
「ふぁ、ふぁの。ふぇあふぉりくふふぁま!」
「もう、ちっちゃい時みたいに、ベア様でいいのですよ。あ、少しだけ我慢なさってね。さっきは人の目があったからできなかったけど、あなたのほっぺたをふにふにしたくてしょうがなかったの」
相好を崩してアリシアの頬で遊ぶ外相夫人に、アリシアはかちこちに固まった。昔から、彼女にはこういう困った癖がある。表向きは毅然とした貴婦人なのに、かわいいものに目がなく、狙った獲物はとことん愛でたおしてしまうのだ。
このままでは頬ずりしかねない夫人にアリシアが困っていると、控えめな咳払いがひびいた。
「そのあたりがよろしいかと。アリシア様はもう、立派な大人の女性です」
(お前はお前で、なんて顔しているのよ!?)
丁寧な口ぶりとは裏腹に、夫人を見つめるクロヴィスの目はどこか恨めし気だ。そのことを指摘したいのはやまやまだが、幸せそうにアリシアの頬をいじくりたおすベアトリクスのせいで、まともに話せもしない。
結局、クラウン夫人がアリシアを解放したのは、それから数分後のことであった。
ベアトリクスに解放されたアリシアは、さりげなく夫人から距離をとりつつ、あらためて彼女がこの場に姿をあらわした意味を考えた。
気を抜くと愛らしいものに目がなくなってしまう夫人であるが、基本的に彼女は自分の立場をわきまえている。
エアルダールの外相夫人であり、女帝エリザベスの深い信任を得ている彼女の行動は、よくも悪くも大きな波紋を生む。それをわかっているからこそ、表向きには、愛してやまない姉や甥っ子たちハイルランド王家とも一定の距離を保ち続けてきた。
その彼女が、あえて人目がある舞踏会という場で、個人的にアリシアに接触してきた。その意味が、ただ「かわいい親戚の子を愛でたかった」などというお気楽なものではないことは、容易に想像がつく。
クロヴィスのほうも同じ結論に至ったようで、すっと背筋を正すと、補佐官らしく恭しく頭を垂れた。
「それでは、私は席を外させていただきます。その前に、よろしければ、小部屋にご案内いたしましょう。ここは込み入った話をするには、あまりに目がありすぎる」
冷静なクロヴィスらしい、状況を見極めた正しい判断だ。だが意外なことに、外相夫人はその両方に首をふった。
「その必要はないわ。次期ハイルランド王であるアリシア様と、未来の筆頭補佐官と噂されるクロヴィス・クロムウェル卿。我が国がハイルランドの友好国であり続けるために、必要不可欠な二人だわ。その二人と話すことに、やましいところなどないもの」
「……なるほど。そういう用向きでしたか」
一見無邪気に微笑んだベアトリクスに、クロヴィスは紫の目を細めた。
落ち着いて見えるが、その仮面の下で補佐官が驚いているのがアリシアにはよくわかる。なぜなら、ベアトリクスの発言に驚愕したのはアリシアとて同じだからだ。
彼女はいま、アリシアのことを“次期ハイルランド王”と表現した。それはつまり、夫人の主君でありエアルダールの王であるエリザベスが、アリシアをジェームズ王の後継者だと発言したのと等しい。
それがどれほどの衝撃かというと、もしここにフーリエ女官長がいたのなら、一刻も早くジェームズ王に伝えるべく、鉄仮面ぶりをかなぐり捨てて走り出すほどである。
アリシアはこれまで、年若い王女としては革新的なまでに、いくつかの政策をクロヴィスと共に立ち上げてきた。そうした功績があって、国内のみならず諸外国までも、次期王位後継者としてアリシアに接するようになっていた。
しかし、息子を次のハイルランド王へと望み、かねてよりアリシアとフリッツの縁談を持ち掛けてきたエリザベス帝だけは、あくまでアリシアを一王女として扱った。
そうした女帝の思惑を考慮して、ジェームズ王はアリシアを公に王位後継者に指名する時期をうかがってきた。
それなのに。
「驚いているわね。まぁ、無理のないことですけれど」
疑問がそのまま顔に出てしまっていたのだろう。黙りこんだアリシアに、ベアトリクスは小首を傾げて赤い唇を引き上げた。そして、驚くべきことを口にした。
「陛下はね、アリシア様がハイルランド王になったとしても、フリッツ殿下の妃に迎えたいという意向なの」
「そんな……。エリザベス帝は、フリッツ様にハイルランド王の地位を望んでおられたはずです」
「もちろん、長らくその考えをお持ちだったわ。けれどね、陛下はもう随分前からアリシア様に興味を引かれていたの。並外れた行動力で国を動かす小さな王女に、ね」
隣国の女帝が、自分に関心を示している……?
てっきり、フリッツ王子をハイルランド王に据えるための布石ぐらいにしか認識されていないと踏んでいたアリシアは、虚を突かれてまばたきをした。
ベアトリクスは苦笑をしてから、さらにつづけた。
「たしかに昔の陛下は、ハイルランド王族としての価値しか、アリシア様に見出していなかった。けれど、今は違う。たとえフリッツ殿下にハイルランド王の地位を与えることがかなわなくとも、アリシア様を手に入れたいと考えておられるのです」
「けれど、フリッツ殿下も同じお気持ちなのですか? 元老院の方々は? いくら陛下に力があるといっても、それで他の方々は納得をされているのですか?」
アリシアの問いかけに、ベラトリクスはにこりと笑みを返すだけだ。その仕草で、やはり彼女は親しい血縁者としてではなく、女帝の代弁者としてこの場に立っているのだと、アリシアは改めて認識した。
とはいえ、女帝がなぜこのタイミングでアリシアに接触をはかってきたのか、その理由はなんとなく想像がついた。
(エリザベス帝が気にしているのは、リーンズスとオルストレの接近、よね……)
現在のエアルダールならば、リーンズスとオルストレの二国が結びついたところで、大きな脅威になったとはいえない。しかし、そこにハイルランドが加われば話は変わってくる。現に、ナヴェル王子は、北と南の両側からエアルダールを抑え込む同盟を作らないかと、暗に伝えてきたではないか。
女帝はその先手を打つべく、ハイルランドに歩み寄る姿勢を見せた。そう考えれば、すべての辻褄があう。
「……そうは言っても、今のままでは、アリシア様を完全に見極めたとは言えません。なにせ、アリシア様と陛下は、一度も顔を合わせたことがないのですもの」
ホールから漏れ出る光を背負って、ベアトリクスが両手を広げる。逆光で暗く見える彼女の背後に、なぜかアリシアは、まだ見ぬ女帝の三日月に吊り上がる唇を見た気がした。
「エアルダールにいらっしゃい、アリシア様。彼の地を踏み、己こそが次のハイルランド王であると、証明してごらんなさい」
おいで、アリシア。
お前の器をみせてごらん。
暗闇にうかぶ赤い唇は、そのように王女に告げた。




