12-7
ひんやりとした夜風が、疲れで火照った体をやさしく撫でる。それが心地よくて、近くに補佐官以外に誰もいないことを確かめてから、アリシアは欄干にもたれて脱力した。
「いい加減、足が棒になるかと思ったわ」
「そこまで追い詰められる前に、誘いを断ってしまってよろしかったのでは?」
「そりゃ、弁の立つお前であれば、まぁるく納めつつ断るなんて朝飯前なのでしょうけど」
ふてくされて唇を尖らせるアリシアがおかしかったのか、クロヴィスはくすりと笑みをもらした。普段と変わらない調子の彼との距離感が心地よくて、アリシアもほっと肩の力を抜いた。
「収穫もあったのよ?」
くるりと体を回転してクロヴィスに向き合うと、アリシアは得意げに胸をはった。
「リーンズスの第一王子とオルストレの第二王女、正式に婚約するそうよ。それも、今年中にね」
「なんと……! それは誠ですか?」
「ナヴェル王子が教えてくれたの。メリクリウス商会がつかんだ隣国の情勢について教えてあげたら、代わりに喜んで情報を提供してくれたわ」
各国の王子とダンスをするタイミングは、彼らから情報を聞き出すチャンスでもある。アリシアが誰に誘われても断らなかった理由は、実のところここにあった。
特に今回は、動向が気になる二国が揃って王子を連れてきていたので、アリシアとしては願っても無い機会だった。
リーンズスとオルストレは、共にエアルダールと国境を接する由緒ある王国だ。エアルダールとハイルランドと等しく、歴史上その二国はお世辞にも仲が良いといえる関係ではなかった。
だが、つい最近になって共同でセレモニーが催されたり、王家が積極的に交流したりと、急速に親密度を上げているという情報を補佐室が掴んでいた。
その背景となっているのは、言わずと知れたエアルダールの振興。女帝の改革が成功を収めたことで、エアルダールの国力は一層の高まりを見せている。それに伴い、エアルダールの国内では領土拡大に乗り出すべしとの声が上がりつつあると、噂されているのだ。
共通の脅威は、積年の恨みすら凌駕する。急激に力を増すエアルダールに対抗するべく、リーンズスとオルストレとはついに手を結んだのだ。
アリシアの話を聞いたクロヴィスは、式典用の薄い手袋をはめた手を顎に添えて、思案にくれて目を細めた。
「南方の情勢はいよいよきな臭くなってまいりますね。とはいえ、リーンズスとオルストレの二国だけでは、エアルダールを完全に封じるだけの力を持ったとは言えません」
「自分たちでも、それはよくわかっているみたい。オルストレの王子……ナヴェルに懇願されたわ。私たちが結婚すれば、ハイルランドとオルストレとリーンズスの三国同盟、エアルダールの包囲網が完成すると」
「……ナヴェル王子には、毎度おどろかされますね。遠目には、あなたを口説こうと夢中になっているようにしかみえないのですが」
「そう? 気のせいじゃない?」
じっとりと紫の瞳をむけてきた補佐官に、アリシアは笑って目を泳がせた。
もちろん、王子が紡いだ長い長い求愛の言葉をざっくりと省略して、要点だけをアリシアは補佐官に伝えたのだ。すべてを伝えていたら話が前に進まないのである。
クロヴィスのほうも当然それを見抜いていて、もの言いたげな視線をよこしてきた。
「それで、ナヴェル王子からの求婚、お受けするつもりですか?」
「求婚? そんな大げさなものじゃなかったわよ」
「“私たちが結婚すれば”。王子は、そうあなたに言ったのでしょう?」
「……まぁ、そうっちゃ、そうだけど」
腕をくんで、宙をにらむアリシア。ややあって、王女ははっきりと首をふった。
「受けないわ。ナヴェルの様子だと、ハイルランドを含めた三国同盟が固まった暁には、エアルダールと一戦交えるつもりだもの。自分の結婚が戦争の発端になるのはごめんよ」
エアルダールと全面対立するつもりであれば、リーンズスとオルストレが接近したと情報を受けた時点で、どちらかの国と接触をした。つまり裏を返せば、それをしなかったハイルランドに、エアルダールと対立する意志はない。
アリシアは不思議に思って、隣の補佐官を見上げた。こんなこと、いちいち説明するまでもなく、優秀で頭の回る彼ならわかっていると思ったが。
すると、クロヴィスは紫水晶に似た目をゆっくりと瞬かせてから、くしゃりと笑みを浮かべた。彼がよく浮かべる補佐官然とした礼儀正しいものではない。飾り気のないそれに、アリシアの心臓はどきりと跳ねた。
「そうでした。アリシア様は、そういう方でした」
「ちょっと。ひょっとして、私のこと馬鹿にしている?」
「まさか。ただ、あなたがその調子では、各国の王子はさぞ苦労を強いられているのだろうと」
くつくつと愉快そうにクロヴィスがわらう。そうして、彼はアリシアに手を伸ばし――――、ぴたりと手を止めた。
(あ、また……)
所在なさげに掲げた手の向こうで、クロヴィスが困ったように眉を寄せる。次いで、何事もなかったように腕を引く補佐官に、アリシアの胸はちくりと痛んだ。
ちょっと前までの彼だったら、今の流れであれば、ごく自然にアリシアの頭をぽんぽんと撫でたことだろう。それなのに、彼は手を止めてしまった。
今回のことばかりではない。いつからか、なぜだか彼は自分に触れることをためらうようになった。
これにはある法則があって、補佐官としてアリシアをエスコートするなどの公務に関わる部分では、何もためらう様子を見せない。だというのに、こうして二人きりでいたり、親しく会話をしていたりするときに限って、その傾向が表に出てくる。
アリシアとしても、頭を撫でられたりするのはどうにも子供扱いされているようで、実際にやられたら怒ったかもしれない。しかし、触れようとしたところで手を引かれてしまうと、それはそれで物寂しい。
「アリシア様?」
気が付くと、アリシアはクロヴィスの手に触れていた。
そのまま自分より上背の彼を見上げると、闇夜に浮かび上がる補佐官の白い頬がホールから漏れ出る光によってオレンジに染まっていた。
(もっと、触れてもいいのに、なんてね)
口が裂けても、そんなことは言えない。
未来を変え、ハイルランドを救うことが叶うまでは、自分の心に何者をも住まわせることはしない。前世での苦い経験から、アリシアは自身にそのように課したのだ。
そのくせ、クロヴィスには近づいてほしいなど、虫がよすぎる。彼はアリシアの補佐官であって、それ以上に縛り付ける権利など、自分にはないのだから。
それなのに、先ほどのような無防備な素顔を彼がさらした後は、どうにも胸がざわついてしまう。補佐官としてではない、クロヴィス・クロムウェル個人として、己の前に立ってほしい。もっと、素顔の彼を知りたい。
もっと、近づきたい。
あまりに長い間、見つめていたためだろうか。クロヴィスの紫の瞳がゆれて、ためらうようにそらされた。どこか切なげにみえる表情が妙に色っぽく、どきりと心臓を高鳴らせるアリシアに、彼は途方にくれたように口を開いた。
「アリシア様、俺は……」
「あらあら。相変わらず、あなたたちは仲良しねぇ」
ふいに響いた第三者の声に、アリシアとクロヴィスは文字通り飛び上がり、互いに飛び退った。
ホールから漏れ出る光を背負い、優美なドレスを身に守った貴婦人が微笑む。老いてもなお気高さを称えたその人は、エアルダールより招かれた客人、ベアトリクス・クラウンその人だった。




