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“未来を変えて、アリシア。僕と君が結ぶ、契約のもとに”
聞き覚えのある声が、暗闇の中に響く。暗闇といっても遠く下方より次々に光の筋が生まれ、流星のように上へと流れていった。
上。そう表現するのが正しいのか。
なぜならそこには天も地もなく、自分の身体が上を向いているのか下を向いているのか、はたまた直立しているのかもわからないのだ。
その時、唐突に小さな木筒が空間の中に浮かび上がった。
“これを見てごらん。ほら、世界は見え方で簡単に変わるでしょ?”
くるくると翻弄するように回る木筒を掴もうと手を伸ばすが、目の前にあるようで、それはひどく遠くにあるらしかった。
その時、木筒は回転をやめた。その時になって、小さな木筒が冷たい床の上に転がっていることに気が付いた。同時に、それと寄り添うようにして、誰かが倒れているのが目に入った。
光の筋が流れるたびに、倒れている誰かの身体をぼんやりと暗闇に浮かび上がらせる。次の瞬間、自分もその誰かと同じように、冷たい石の床に身を横たえていた。
木筒を挟んだ場所にいるというのに、その誰かは顔も、服装も、すべてがわからなかった。ただ、力なく投げ出された手だけが妙に印象的だ。
白く、透き通るような肌は、ただただ美しかった―――。
意識が暗闇から浮上し、長いまつ毛をふるりと震わせて、王女アリシアは目覚めた。
寝台の上に身を起こすと、彼女の美しい空色の髪が腰の近くに届くほど、さわりと垂れさがる。カーテンの隙間から外の光が漏れて入るのをぼんやりと見つめながら、王女はほんのりと桜色に色づく唇に白い指を這わした。
目覚める直前に、何か夢を見ていた気がした。だが、目が覚めた瞬間にその光景は掻き消え、どこか物悲しさだけを王女の胸に残していた。
「アリシア様。お目覚めですか?」
木製の扉の外から、フーリエ女官長の声が響く。アリシアが短く答えると扉が開かれ、2名の女官を従えたフーリエと、おなじみの侍女、アニとマルサが控えていた。
「おはようございます、アリシア様。ご気分はいかがですか?」
「とてもいいわ。女官長も、今日は特に元気そうね」
「本日は大事な式典がございますゆえ、力が入っております」
侍女たちが持つ水盆やドレスを指し示して、フーリエが生真面目に頷く。その髪は、ここ6年でほんの少しだけ白いものが混ざるようになった。
6年。アリシアが前世について思い出してから、それほどの月日がたっていた。
シーツの上を滑り、すらりとした下肢が地に降り立つ。6年という歳月を経て、王女はすっかり成長した。均整のとれたしなやかな身体つきは若木のように瑞々しく、愛らしかった面立ちは少女から大人のそれへと変わりつつあった。
ハイルランドに咲く、青き薔薇姫。
その呼び声にふさわしい輝く美貌を惜しげもなくさらしながら、しかし、王女は親しみをこめて両手をひろげた。
「さぁ」
幼い頃から変わらない、きらきらと輝く大きな空色の瞳で一同を見渡して、アリシアはにこりと笑みを浮かべた。
「今日も一日、張り切っていくわよ!」
侍女たちにあれこれと身支度を整えてもらいながら、姿見にうつる成長した己の姿に、アリシアは問いかける。
未来を変える。そのための時間は、あとどれくらい残されているのだろうかと―――。
6年前、アリシアと補佐官クロヴィスは、ロイド卿を筆頭とする反対派との激闘を制し、ハイルランドでは初となる広域商会「メリクリウス商会」を設立した。ローゼン侯爵ジュード・ニコルの声掛けにより目利きの商人が集まり、ハイルランドの優れた職人工芸を扱うともあって、周辺国からも注目されたのが記憶に新しい。
いまやその商会もすっかり存在感を増し、有力貴族や富豪商人、はては小国の王族までを顧客として抱えるまでに成長した。それに伴い、一時は諸外国に圧され気味であったハイルランドの職人文化は息を吹き返し、かつての黄金期の勢いを取り戻しつつあった。
また、エアルダールとの国境においても、変化が見られた。
前世での記憶に基づき、アリシアは隣国との戦争を回避する方法を模索すると同時に、万が一の場合に備えて、クロヴィスを通じて国境軍備の強化も進めていた。
これに尽力したのが、地方院シェラフォード直轄領支部長、リディ・サザーランドだ。
もともと同地区がシェラフォード公爵領であったときから、ロバート・フォンベルトの提言を下地に引き、南方騎士団には食料の備蓄や武器の補充にあたるよう指示は出していた。
しかし、シェラフォード領が直轄領に組み込まれてからというものの、事に当たるスピードは格段に速くなった。リディが長官となったことで、サザーランド家の私兵や備蓄、さらには武具や食料を安く提供してくれる商人や農家らとのネットワークまでが手に入ったことが大きい。
加えて、シェラフォード領と同じくエアルダールと国境を接するジェラス公爵領に対しても、ホブス家と騎士団が一丸となって国境防御強化策にあたるよう、リディが公爵に話をつけたのだ。
彼の目覚ましい働きにより、国境を守るいくつかの城塞は、いつなんどき隣国が攻め込んできても籠城へ持ち込めるぐらいの物資を集めることに成功した。
そうそう、忘れてはならないのがクロヴィスについてである。
新商会の躍進、国境防御力の強化と、推進する政策を相次いで結実させたことで、アリシア王女こそ王位継承者にふさわしいと貴族たちも認めるようになっていた。特にそれを後押ししたのは枢密院貴族たちであり、彼らと王女との関係も良好に築かれていた。
その栄光の裏に、彼女に忠誠を誓い、類まれなる手腕で王女を支え続けてきた補佐官の存在があるということは、広く知られた事実である。
そうしたわけで、まだ20代も半ばの若者であるというのに補佐官としてのクロヴィスの地位と信頼は盤石なものとなっていた。現筆頭補佐官ナイゼル・オットーの後継者はクロムウェルであるとのうわさが流れるほどである。
もはや、彼のことを「グラハムの呪われた血」などと眉をひそめる者はいない。
青髪をなびかせて凛とした輝きを放つ王女アリシアと、その傍らに付き従う秀麗なる補佐官クロヴィス。
二人の華々しい活躍は、ハイルランドの民の目には未来への希望として映った。
同時に、彼らに注目するのは、もはや国内の者にとどまらなくなっていた。




