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なんとか、戻るよう説得しようと追いすがるロバートを無視して、逃げるようにカーペットの上を遠ざかっていく背中を、アリシアは胸を痛めて見つめた。
そこには、国務を果たした後の誇らしさも、王の御前に招かれたことへの高揚の欠片も残っていない。ただ、逃れようのない過去の呪縛に苛まれる、苦悩に満ちた青年の姿があるだけだった。
あんまりじゃないかと、アリシアは思うのだった。
リディが話した内容が真実であれ、責め苦を負うべきはザック・グラハムその人であり、クロヴィスでは決してない。それなのに、彼はまるで自分が罪人であるかのように、理不尽な追及を受け止めている。
前世で、なぜ自分がクロヴィスを知らずにいたのか、ようやくアリシアは合点がいった。おそらく、この式典を最後に、彼は政治の舞台から姿を消してしまうのだ。オットー補佐官の誘いも断り、心無い目を向ける貴族から逃れるため、式典やら夜会やらも避けて。
その後、どういう過程を経て、革命の夜にアリシアの前に現れることになったのか、そこまではわからない。だが賢い彼は、表から身を引きつつも、王国の行く末を見守っていたのだろう。
現行登用制度への不満、隣国から迎えた新王への不信、あるいはハイルランド王家の血を引くアリシアへの歯がゆさ。そうしたものを腹の底にくすぶらせながら、王政に関わることができなかったクロヴィスは、ついに革命という形で城に乗り込んでくるのだ。
気が付けば、アリシアは壇上を駆け下りていた。
突然、王のそばを離れて走り出した10歳の王女に、会話を楽しんでいた貴族たちから驚きの声が上がる。ふわふわとした薄水色のドレスを翻して走るアリシアに、「まぁ、可愛らしい」なんて声も聞こえた。
アリシアはまっすぐに、前を歩くクロヴィスの高い背を追いかけた。彼は、追いすがるロバートを諦めさせ、ワルツを楽しむ貴族たちの間を一人で縫うように進んでいる。
その孤独な背中に、アリシアはなぜか、革命の夜の自分を重ねていた。
蔑みの言葉を投げつけられ、誰にも味方されず、世界中が敵のような心地でいることが、どれほどの恐ろしく辛いことか、アリシアはその身をもって知っている。顔ではどれほど平静を装っていたって、その心が血の涙を流していることを、アリシアは見抜いている。
「あら!」
「アリシア王女様!?」
小さな体が飛び込んできて、ワルツを踊る人々が目を丸くして左右に割れた。赤や黄色のふわりとしたドレスの裾が揺れて、色とりどりの花が咲く丘のようにアリシアに道を開いた。
その先頭で、頑なに振り返ろうともしない長身を、アリシアはついに捕まえた。
「待ちなさい、クロヴィス・クロムウェル!」
「……アリシア、様?」
手首を小さな手でつかまれたクロヴィスが、振り返った姿勢のまま、切れ長の目を大きく見開いた。この時、初めてアリシアは彼の視線を逃げずに受け止めた。
あんなに恐れていた紫の瞳は高潔で、美しく澄んでいた。黒く艶めく髪が、白く透き通った肌を一層際立たせ、整った顔はただただまっすぐにアリシアを見つめていた。
その瞳の奥底にかすかに怯えの色が混じるのを見て、アリシアは嘆息した。自分は、一体何を恐れていたというのか。以前に対峙したクロヴィスと今の彼は、同一人物でありながら、まったくの別人だというのに。
「姫様!」
「ナイゼル、この者は有能であるのでしょう!?」
背後に追いかけてきた補佐官が立つのを感じながら、クロヴィスの手を掴んだまま、アリシアは問いかけた。
アリシアが振り返り、大きな空色の瞳を向けると、オットー補佐官は息をのんだ。強い意志を瞳に宿し、クロヴィスを庇うように立つその姿は、10歳の少女にしてはあまりに美しく、気高かったからだ。
「もう一度、問うわ。クロヴィス・クロムウェルは、有能なのでしょう?」
アリシアのただ事ではない様子に、笑顔で見守っていた貴族たちも、おやと首を傾げて事の行く末を見守っている。宮廷楽団までが、楽器を奏でる手を止めていた。
自分を見据える王女の視線に、はっと我にかえった補佐官は、正直に答えた。
「はい。私は、同世代でこの者より優秀な男を知りません」
「その返事で十分よ」
凛とした微笑みを残して、くるりと王女アリシアはクロヴィスに向き直った。漆黒の髪を持つ青年と、アリシアの目線が交わる。戸惑いを浮かべるこの男を、もう自分は恐れない。遠ざけない。
「王女として命じます。クロヴィス、私のそばに仕えなさい」
おお、と周りにざわめきが走った。中には、アリシアが話している相手をクロヴィスと気が付き、眉をひそめる貴族もいた。だが、心無い言葉が彼の耳に届く前に、小鳥のように愛らしい声で、アリシアは再び繰り返した。
「あなたを私の、王女付き補佐官に任命します。引き受けてくれないかしら?」
「しかし、私は……」
「よいではないか」
目を泳がせたクロヴィスに変わり、朗らかな声が広間に響いた。いつの間にか補佐官の後ろにて立っていた王は、向き合うアリシアとクロヴィスを交互に見て、人の良い顔をほころばせた。
「私からも頼む。我が娘は、一度言い出したら聞かないのだ」
「陛下! 私は、彼の者について忠告申し上げたはず!」
「あーあー。私は王女に甘いのだ。可愛い娘に、そっぽを向かれたくないのだ」
慌てて口を挟んだリディを、茶目っ気たっぷりにあしらってから、王はアリシアに向けてウィンクをした。あとは好きにしろと、そういうことだ。
「お願い。これからは、ちゃんと式典にも参加するって、女官長に約束したの。今は暇でも、たくさん補佐官にお願いしなくてはならなくなるわ。……私が主では、不満?」
「いいえ!」
わざとしゅんとしてみせれば、あわてたクロヴィスに勢いよく否定された。答えを求めて見上げたアリシアに、彼は覚悟を決めるように、きゅっと唇を引き結んだ。アリシアには、なぜかそれが泣き出す寸前の顔に見えた。
青年はアリシアの手をとって、頭を垂れて跪いた。
「このクロヴィス、我が身の全てを捧げ、アリシア様にお仕えいたします」
「……誓いの言葉が重いわよ、クロヴィス」
言葉通り、「すべてを」「捧げて」しまいそうな彼に、アリシアは軽く苦言を呈した。前世の出来事から察するに、思いつめたクロヴィスは何をするかわかったもんじゃない。
すると、アリシアの言葉を冗談と受け取ったのか、クロヴィスは顔を上げて――笑った。
(おっと、これは……)
クロヴィスに手を取られたまま、しばし呆然と固まっていたアリシアは、齢10歳にして胸に刻んだ。非の打ちどころのない秀麗な顔で、心を預け切った笑顔を向けられることは、心臓を根こそぎ持っていかれそうなほど強烈であると。