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「……これはアリシア様。まさか、このような場所でお会いしましょうとは」
「この近くで用があったの。そしたら偶然、あなたの姿が川に見えたものだから」
そう言って幼い王女は、後ろに控える補佐官と馬車とをみた。やはりというか、アリシアの側にはクロヴィスがぴったりと仕えているわけだが、いつもと違ってリディはそれに苛立つことはなかった。
(……用、ね)
わざわざ聞かずとも、彼女が枢密院の貴族を説得するために城を出てきているのだというのは見当がついた。つい先日だって、アリシア姫の馬車がリドリー家の前にとまっているのを見たのだから。
それよりも気になったのは、最後にあった時とは比べ物にならないほど、アリシアの表情が晴れやかであったことだ。
なんと豪胆な王女なのだろう。
こんなにも幼いくせに、もう彼女は前を向いて歩きだしたらしい。
呆れ半分、リディは素直に感心した。同時に自分はなんと惨めなことかと、彼は顔をしかめた。
「……では、私はこれにて」
「待って!」
胸を占める暗澹たる気持ちに耐えられず背を向けたリディを、王女が引き留める。仕方なく彼はふたたびアリシアに顔を向けた。
「何か、私に御用がありましたか?」
「教えてほしいの」
覇気なく答えたリディに、アリシアは空色の瞳をまっすぐに彼に向けた。そのことに、リディは居心地の悪さを感じた。
「この間の話の続きよ。あなたが広域商会の有効性を認めているというのは、本当のこと?」
“サザーランドは、約束を違えぬ。広域商会は、私の手で必ずや闇へと葬り去ろう”
父の声が嫌でもよみがえり、ずきりと胸が痛んで、リディは思わず視線を逸らした。それをどう受け取ったのか、アリシアは身を乗り出した。
「力を貸してほしいの」
「力? この間、そこにいる男に手を振り払われましたがね」
取り繕う理由もなく、リディは皮肉に唇を吊り上げた。後ろでアルベルトがはっと息をのみ、視界の先ではクロヴィスがわずかに眉根を寄せた。だがアリシア本人に気分を害した様子はなく、一途にリディに訴えかけた。
「大事なことは、目指す商会が王国にとって必要であるか否か。そうでしょ? もし、あなたも私と同じ気持ちでいるのなら、私たちが対立する理由はなにもないわ」
「やめてください!」
王女の言葉をさえぎって、リディは叫んだ。
「僕はサザーランド家の嫡男だ! そして、サザーランドの方針は父上が決める。いつまでも子供のように、理想を追いかけてばかりではいられないのですよ!!」
はっとして顔をあげると、王女が驚いたようにリディのことを見ていた。その後ろで、クロヴィスも訝しげに目を細めている。リディは強く自身の唇をかんだ。
胸のうちに、うしろ暗い秘め事を抱えて。
自分さえ納得つかないうちに、己を正当化することに無心して。
これでは、罪人と大差ないではないか。
リディが葛藤していると、彼女は澄んだ瞳をエラム川へと向けた。その横顔はなぜか、彼女が遠い昔のことを思い出そうとしているように見えた。
「確かにあなたが言うように、理想を貫くだけが正しい道ではないかもしれない。けど、何が正しくて何が間違っているか。そんなもの誰にもわからないわ。結末を迎えて初めて、己の愚かさに気付くだけ」
「……奇妙なことを仰いますね。まるで、結末を迎えたことがあるみたいだ」
「たとえ話よ」
リディが指摘すると、アリシアは困ったように微笑んだ。明らかにはぐらかした返答ではあったが、なぜか嫌な気はしなかった。それどころか、初めてアリシア姫と向き合えているような心地すらした。
「私は、自分が信じる道を全力で進むわ。自分が、未来で後悔しないために」
あなたはどうしたいの?
そう問いかけてまっすぐに自分を見つめた王女の眼差しに、堪えようのない羨望がリディの胸をかき乱した。
からからと規則正しく、車輪がまわる音がひびく。馬車のほどよい揺れに身をまかせながら、リディは頬杖をついて、窓の外を眺めていた。
“あなたはどうしたいの?”
そう言い残して、アリシア姫は立ち去った。まるで、後は好きにしろとでも言うように。
馬鹿馬鹿しい。リディは王国随一の栄華を誇るサザーランドの嫡男だ。その自分が、当主の言葉に従うことになんの不満があるだろう。
(まったく、お気楽な王女様だ。やっぱり、まだまだ子供じゃないか)
理想だか正義だか知らないが、そんなもので国は、枢密院は、動かない。
複雑に利害が入り乱れる中、互いに主導権を探り合い、己に有利な方向へと導こうと争う。誇り高き枢密院といえども、名のある貴族がそれぞれの利権を背負って立つ以上、その性からは逃れられない。
その中を巧みに泳ぎ切り、王国の秩序が正しく守られているか睨みをきかせてきたのが、代々のサザーランド家当主だ。
今回のことだって、今までと同じじゃないか。隣国のフリッツを迎えることで起きるであろう混乱の種を、あらかじめに摘むための策。王国の未来を思えばこそ、父は自ら手を穢した。恥ずべきことなど何もないのだ……。
(サザーランドにふさわしい男、か)
遠い昔を思い出して、リディは瞼を閉じた。
もしアリシア王女に出会わなかったなら、かつて父に理想を見出し憧れたことを、幼い日の思い出と割り切ることができただろう。事実、父に真実に告げられた時、リディは自分の気持ちに蓋をしてロイドに従うことを選んだのだ。
だが、少しの曇りもなく、己の道を正しいと信じて歩くアリシアの姿は、リディの胸を無性にかき乱した。胸を張って信念を貫く王女を、それを支える補佐官を、リディはうらやましいと思ってしまった。
果たして、自分はどうだ。
むかし憧れた姿に、自分は近づけたのであろうか。
リディが憧れた父は、まだそこにいるだろうか。
自分は今、サザーランドにふさわしい男と言えるだろうか。
「とまれ! ここで馬車をとめろ!!」
叫びながら、リディは馬車の内壁をドンドンと叩いた。その振動は御者席にまで伝わり、そこに座っていたアルベルトを仰天させた。
慌てて若き使用人が馬車を道の端に寄せると、すぐに中からリディが飛び出してきた。アルベルトが虚を突かれている隙に、瞬く間にリディは御者席に駆けあがると、使用人の襟首を両手でつかんだ。
「知ったのはつい最近とはいえ、お前は父とあの男の会合に、何度か立ち会ったのだな?」
「あ、あの……?」
「そうだな!?」
あまりの剣幕に、アルベルトは目を白黒させた。すっかり生気が抜けていたリディの目は、今やらんらんと輝いて食い入るようにアルベルトを見つめている。
こくこくと使用人が頷くと、襟元を掴む手にさらに力がこもり、逃げ出す隙を与えないとばかりにリディは身を乗り出した。
「お前の見たこと、聞いたこと。それを全部、僕に教えろ」
「ですが坊ちゃん。この後の約束は?」
「ああ、もう! そんなの後でいいだろ!! お前の話を聞いて、やっぱり父上に従うのが正しいと結論がでたなら、いくらでも時間を割いて会ってやる!」
焦れたのか、リディの声に不機嫌な色が混じる。それは傍若無人を絵に描いたような普段の彼らしい口調で、なぜだかアルベルトはむずむずと嬉しくなって顔をにやけさせた。
「僕はサザーランド家の嫡男だ。自分の道は、自分で選ぶ!!」
―――それは、3日後に枢密院の再招集を控えた日のことであった。




