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強くあらねば。
そう、頑なだったアリシアの心が、心地よい温もりの中でほぐされていく。
「……わたし、何もできなかった」
ロイドに睨まれた時に感じた、己の不甲斐なさがまざまざと脳裏によみがえり、アリシアはひくりと喉を鳴らした。
「枢密院の前にたった時、すごく怖くて、足が震えた。だけど、負けたくなくて、支えてくれるあなたたちの期待に応えたくて、なのに……っ」
「そんな風に、自分を卑下しないでください」
アリシアを抱き寄せる腕の力が、わずかに増す。これでは、視界をにじませる大粒の涙によって、補佐官の上質な服を汚してしまう。そう危機感をおぼえて、王女は身をよじったが、主人が離れるのをクロヴィスは許してくれなかった。
「あなたが信じてくださるから、俺はあの場に立つことが出来た。想像できますか? 枢密院を相手にするのに緊張して、昨夜、俺はろくに眠れもしなかったのですよ」
「ほんとうに?」
補佐官の意外な告白に、思わずアリシアは顔を上げた。すると、思いのほか近い場所に、照れ臭そうに顔をしかめて苦笑する、クロヴィスの息をのむほど美しい顔があった。
「お恥ずかしい限りですが……。しかも、広間についてみれば、リディ卿までいる。どうにも、私はあの方が苦手です」
軽くため息をついて、クロヴィスが瞼を閉じる。その目が開かれた時、穏やかな紫の瞳が、優しくアリシアを映した。
「しかし、あなたの頑張りが、俺に力を与えてくれた。あなたのためなら、俺は、何にでも立ち向かうことが出来る。――だから、自分には力がないなどと、己を責めたりしないでください」
よく、頑張りましたね。
優しく落とされたその言葉で、アリシアは限界であった。澄んだ空色の瞳からは、はらはらと綺麗な涙がこぼれ落ち、そっとだきとめる補佐官の胸を濡らした。
しばらくの間、補佐官の腕の中にしがみつくような形で、王女は肩を揺らして泣き続けた。そんな彼女の背を、クロヴィスは黙って撫でてくれた。やがて、泣きつかれた10歳の少女は、いつしか補佐官の身によりかかったまま、眠ってしまったのだった。
(やはり、疲れておいでだったのだな)
安心しきった様子で身を預け、すやすやと寝息を立てる主人の髪をそっと撫で、クロヴィスは小さく笑みをこぼした。いつも利発そうな顔つきをしている彼女だが、こうして眠るところを見ると、やはりまだ幼い少女なのだと実感させる。
たくさん涙をこぼしたために、その目元がすこし赤くなってしまっているのをみて、補佐官はわずかに胸が痛むのを感じた。
自分はなんと残酷なのだろうかと、クロヴィスは自嘲した。
彼女は、チェスター家の血を引く、現王の唯一の姫君だ。本来ならば、こんなつらい思いをすることなく、生来の明るさと愛らしさとで皆に愛されるだけの道を選ぶこともできるのだ。
戦争を回避するだけなら、(それが真に有効な策であるかはさておいて、)信頼できる側近で周囲をかためて、情勢に絶えず目を光らせるという手もある。
それに、王国の未来を上向かせるという目的に対しても、それを叶えられるような器を持った男を探し出し、彼女の未来に夫と定めてやればよい。
だが、クロヴィスは、見たいと願ってしまったのだ。聡明で健気な少女が、この国を変える未来を。王女アリシアが、救国の姫として立ち上がる姿を。
何より、彼女自身が、前世で己が犯してしまったことを反面教師に、ハイルランドの未来のために尽くしたいと願っている。だからこそ、どんなに彼女が苦しもうと、この茨の道から主人を連れ出してやることが、クロヴィスにはできない。
(だが、あなたの苦しみが少しでも和らぐよう、側にいてお支えすることは出来る)
腕の中にある確かなぬくもりを感じながら、クロヴィスはそっと目を閉じた。
やるべきことは、山積みである。
本日の集まりを通して、保守派と穏健派とがはっきりとわかった。一週間後の再招集に向けて、まずはドレファス長官やオットー筆頭補佐官に、一層の協力を要請しよう。
他にも、途中までは賛同の意を明らかにしていたダニエル・ベインや、マック・グラントなどの侯爵家。彼らの中には、こちらの味方となってくれる者がいるかもしれない。反対派に引き込まれてしまう前に、接触を図るべきだ。
それと――。ロイド・サザーランドの鋭い眼差しを思い出し、クロヴィスは思考を一度押しとどめた。
ジェームズ王の目の前で愛娘のアリシアを糾弾するというリスクをとってまで、議決を先延ばしにするよう促したロイドの姿勢は、枢密院としての権威を示したかったにせよ、少々不自然さが残る。これは、何かしらの裏があると探ってみてもよさそうだ……。
「「ク~ロ~ヴィ~ス~卿~!?!?!?」」
主人の柔らかな空色の髪をなでながら思案にふけっていたクロヴィスは、ふと、背後から迫る不穏な気配に意識を引き戻された。
「何か、お呼びでしょうか?」
「お呼びでしょうか? じゃ、ないわよ!!」
あえてにこやかに振り返れば、アニがきぃぃと頭を抱えて呻いた。
「お静かに。アリシア様が、目を覚まされてしまうではありませんか」
「何、当たり前みたいな顔して、姫様を抱っこしているんですか!!」
「姫様を抱っこ……。うらやましい……」
クロヴィスが形のよい唇に人差し指をあてて促せば、アニは素直に声のトーンを思いっきり下げた。それでも、ぎりりと補佐官を睨みつけて、悔しさに地団太を踏んだ。その隣では、マルサが恨めし気に補佐官をみつつ、ぶつぶつと呟いている。
「私はただ、気丈に振る舞うアリシア様のお心を、少しでも和らげたかっただけにございますが?」
「ああ!! クロヴィス卿に他意も邪心もないのもわかる! わかるだけに、ものすごく悔しい!」
「姫様を抱っこ……。私だって、姫様を抱っこしたい……」
静かにぎゃあぎゃあと騒ぐという偉業を成し遂げる二人の侍女に、クロヴィスは思わず吹き出した。
何をするにも、主人をこよなく愛する侍女二人をなだめるのが先のようだ。




