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「クロヴィス……? あの……?」
リディ・サザーランドを置いて、大広間からアリシアの自室へと戻る道中。王女は、いつもとは違った雰囲気を漂わせる己の補佐官に戸惑っていた。
アリシアの肩に添えられた手は、どこまでも優しい。そのあたりは、いつも通りの彼だ。
だが、クロヴィスが今のように、先を急かして歩かせることはこれまでなかった。あっちこっちと彼を連れまわすのはいつだってアリシアの方で、クロヴィスはその後ろに恭しく付き従うのが常であったからだ。
(……ううん。本当は、その逆だわ)
クロヴィスに連れられながら、王女はぼんやりと思い返していた。町に出るのを怖がっていた自分を、新しい世界へと連れだしてくれたのはクロヴィスだ。それに、次の一歩をどこに踏み出すか迷っていた時、ローゼン侯爵領を示してくれたのも彼だ。
そうだ。クロヴィスはいつだって、自分を支え、その手を引いてくれていた。
そんなことを考えていると、アリシアは無性に泣き出したくなって、鼻の奥がつんと痛んだ。補佐官がこれほどに自分に尽くしてくれるというのに、自分は彼の足を引っ張ることしかできない。
「おかえりなさい! って、姫様、どうしたんですか!?」
涙をこらえる王女の目の前で、クロヴィスにより、自室の扉が開かれる。部屋の中では、アリシアが戻ったことに気が付いて侍女二人がぱっと笑顔を咲かせるものの、すぐに、王女の尋常でない様子に気が付いた。
「誰ですか、姫様をいじめたのは!? あ、ひょっとして枢密院の連中!?」
「クロヴィス卿ぉ! アリシア様、どうしちゃったんですかぁ?」
アニとマルサが心配そうに右往左往するのが、クロヴィスの背中越しに見える。だが、零れ落ちそうな涙をこらえるので必死なアリシアは、二人に微笑みかえす余裕を持っていなかった。
そんなアリシアに、ようやくクロヴィスは美しい紫の瞳を向けた。
「戻って参りましたよ」
頭上から振ってきた心地の良い声は、アリシアの凍えた心を温め、ぐずぐずに甘やかした。だからこそ、王女はそれにおぼれてしまわないように、ぎゅっと目を閉じた。
甘えてしまっては、だめだ。
自分は、もっともっと、強くならなくてはいけないのだ。
頑なな主人の様子を見て、補佐官はなんと思ったのだろう。いまだ目をつむったままのアリシアの耳に、クロヴィスが小さく嘆息するのが聞こえた。
「アリシア様、どうぞこちらへ」
背中に、クロヴィスの温かな手が触れる。その手に促されるままに、アリシアはソファにちょこんと腰かけた。すると、普段は向かいに腰かけるクロヴィスが、珍しいことに並んでアリシアの隣に腰をおろした。
そして――――。
「あっ」
「えっ」
(……え?)
気が付くと、アリシアの体は温かな感触に包まれていた。彼女の柔らかな頬には上質な布地が優しく押し当てられ、首から頭にかけて引き締まった腕が回されているのを感じる。ややあって、王女は自分が、クロヴィスに片手で抱き寄せられたのだと理解した。
(あっと、えっと……、その?)
驚きのあまり、今にもこぼれそうだった大粒の涙が、まとめてどこかへ飛んで行ってしまった。補佐官の腕の中で、アリシアはただただ、目をまん丸に見開いていた。
「アリシア様、どうぞ、お許しください」
いつもより近い場所から、耳に心地の良い、低く澄んだ声がひびく。だが、彼の謝罪の意味することが、本日の会談が上手くいかなかったことを指しているのか、はたまた王女を抱きしめるという行動のことなのか、アリシアにはさっぱりわからなかった。
「クロヴィス……?」
胸の鼓動が早くなり、頬が次第に熱くなる。そのことは、ますますアリシアを混乱させた。誰かに抱きしめられるということは、これほどにそわそわと落ち着かなく、一方で心地よいものであっただろうか。
そんな主人の動揺を知ってか知らずか、クロヴィスが苦笑する気配がした。
「俺は、まだまだ未熟者です」
「え?」
「あなたがあまりに気丈に振る舞うものだから、つい、あなたが俺より10近くも年下の、まだ幼い少女であることを忘れてしまう」
ぽんぽんと幼子をなだめるように、クロヴィスの手がアリシアの後頭部を軽く撫でる。
そのとき、アリシアは思い出した。
“昔、私が泣いていると、お母さまが抱きしめてくれたわ”
以前、町に出たとき、クロヴィスにそんなことを話した覚えがある。そこに思い至った途端、どこかに引っ込んでいた涙が、再びあふれ出すのを少女は自覚した。




