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ロイドの言葉は、まるで毒だと、アリシアは思った。
客観的な数値データと、ジュードが事前に用意した“落としどころ”。それらによって、枢密院のメンバーは理性的な判断のもと、賛同へと意見を固めようとしていた。
なのに、ロイドは巧みな話術によって、問題をまったく別のものにすり替えてしまった。すなわち、彼らの頭の中にあるのは、自分たち枢密院の権威が、今後アリシアたちによって脅かされやしないかという漠然とした不安であった。
「まぁ、無理に答えを急ぐ必要もあるまいしな」
最初に、そう切り出したのは誰だったろうか。
「ドレファス殿やオットー殿が目を通した案件といえども、その骨組みを作ったのは、今まで国政への関わりが低かった者たちだ」
「今一度、真にその中身が正しいものであるか、枢密院の者が検分すべきであろう」
「ええ。答えを出すのは、その後でも問題ない。なにせ、王国の未来に関わる、重要事とのことですからね」
「陛下、どうか一度この件を、枢密院の預かりに」
「陛下」
(そんな……)
口々に、決議を先延ばしたいと王に乞う貴族たちを、アリシアは呆然とした心地で見つめた。そんな彼女を目にして、リディがひどく意地悪い笑みを浮かべているのに、王女は気づいていなかった。
悔しい思いをしているのは、アリシアだけではなかった。
言葉をなくす王女の近くで、ドレファス地方院長官は頭の後ろで腕をくみつつ、面白くなさそうに顔をしかめた。
「決議を先延ばしにして、再検分なぁ。ま、それで皆が納得するっていうなら、仕方があるまいな」
「これは、そのように単純な問題ではない」
ぼやいたドレファスに、眼鏡の向こうの藍色の目を怒りに細めて、ナイゼル・オットー筆頭補佐官が切り捨てた。
「皆、集められた当初の目的を見失い、ありもしない疑念に心を曇らせている。そんな妄言に囚われたまま国政に携わったところで、真に民のためを思った判断が出来るものか」
ただし、どんなにナイゼルが歯がゆく思おうと、流れは決してしまった。数名を除くほぼ全員の総意にもとづき、『メリクリウス商会設立に関する提言』はいったん、枢密院での預かりとなった。
すなわち、ジェームズ王の承認のもとに内容を枢密院で検分したのち、後日、枢密院としてこの提言に賛同するか否かを決することになったのである。
大広間から、次々に貴族たちが退出していく。次にこうして枢密院が集まるのは一週間後であるため、彼らの大半は王都付近に各自で持つ屋敷へと向かうらしい。
そんな中、アリシア王女は表情を曇らせ、気落ちした様子でまだ席に腰かけていた。会議が終わってしばらくたつが、彼女はいまだその場を退室しようとしない。
見かねたクロヴィスが、他の貴族が全員退出したのを見計らってアリシアの前にたち、深々と頭を下げた。
「申し訳ございません、アリシア様」
「え……?」
幼い10歳の少女は、なぜ己の補佐官が謝罪の言葉を口にしているのか、本気でわからない様子であった。呆然とした様子でアリシアが彼を見つめると、クロヴィスがわずかに体を起こしたことにより、悔しさに歪む秀麗な顔が視界に飛び込んできた。
「私の力が至らなかったばかりに、あと少しというところで、決議を先延ばしにされてしまいました。あそこまで、賛同への流れを固めておきながら……!」
「よして、クロヴィス」
アリシアはあわてて立ち上がり、クロヴィスの手を掴んだ。小さな手に包まれて驚く彼を、感謝の気持ちを込めてアリシアはまっすぐに見つめた。
「お前は、よくやってくれたわ。クロヴィスの交渉手腕をもってしても、もっと混迷を極めるかと思ったのに、よく、彼らを説得してくれた」
「しかし……」
「力が及ばなかったのは、私の方」
弱々しく告げて、アリシアは明るい空色の瞳を伏せた。
“私はただ、部下と友人に恵まれただけ。漠然とした不安の正体がなんであり、そのために何をすべきか、教えてくれる人が間近にいただけよ”
ロイドへの切り返しで、このように答えた時。あれは、アリシアの純粋な本心であったが、そのせいで、ロイドには揚げ足を取られてしまった。
つまり、図らずも、「クロヴィス・クロムウェルとジュード・ニコルが王女アリシアを担ぎ上げ、国政を好き勝手に操ろうとしている」との間違った印象を深める助けをしてしまったのである。
アリシアは今日ほど、己に力や知恵がないことを恥じたことがなかった。
もし、アリシアは10歳の少女などではなく、経験豊富な成人した大人であったなら、クロヴィスたちが『(無知な)王女を操ろうとしている』などという不名誉な見方をされることがなかったはずだ。
もしくは、王女にもう少し知恵があったなら、ロイドが自分にどんな発言をさせようとしているのか先回りして見抜き、むしろ逆手にとって、一気に畳みかけるよう策を練れたのかもしれない。
「あなたは、とても頑張ってくれた。それなのに、私に力がないから、それを台無しにしてしまった。本当に、ごめんなさい!」
「アリシア様……」
美しい黒髪を揺らして、クロヴィスが狼狽する様子を見せた。己が今日、この場所にたったのは、敬愛する王女にこのような表情をさせるためではなかったはずだ。
「おやめください。あなたにそのような顔をさせてしまっては、私は……」
「やめましょう、姫君。あなた様に考え直すべきことがあるとすれば、誰をパートナーと選ぶべきか。それだけなのですから」
ふいに響いた乱入者の声に、王女と補佐官は同時に広間の入り口をみた。はたして、そこには、赤みがかった髪をくるくると弄ぶ、リディ・サザーランドの姿があった。




