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硬直するアリシアの前で、艶やかな黒髪を揺らして、白く秀麗な顔がゆっくりと持ち上がる。その印象的な瞳と視線が交わる前に、耐えきれずにアリシアはうつむいた。
いた。まさか、こんなに早く見つかるなんて。
広間を満たす宮廷楽団の演奏も、使節団の歩みを見つめる貴族たちのざわめきも、すべての音が遠ざかっていく。その代りにやたらと耳に付くのは、激しく胸を叩く己の心臓の音と、カーペットの上を迷いなく進む男の足音だ。
僅かに視線をあげれば、そこに革命の夜の男の姿を見た。紫の瞳に憎悪の炎を燃やし、薄い唇に呪詛の言葉を浮かべ、鈍く輝く剣を握りしめた男が、アリシアを目掛けて歩みを進めていた。
全身が恐怖に震え、汗が背中を伝い落ちた。男が一歩踏み出すたびに、アリシアの心は絶望に塗りつぶされていく。死が、死そのものが、アリシアをめがけて近づいてくる。
ついに悲鳴を上げそうになった時、大きな手がアリシアの肩を掴んだ。
「シア? 顔色が悪いね」
「……ごめんなさい、お父様」
傍らに立つジェームズ王にささやかれた途端、瞬時に白昼夢は消え去り、アリシアは現実に引き戻された。当然ながら、黒髪の男の手に剣はなく、その顔に激しい怒りを浮かべてもいない。
どっと疲れつつ、息を吐きだしてアリシアが立ち上がったのと、10人の使節団が玉座の目の前に並ぶのとがほぼ同時だった。
「ロイド・サザーランドが息子、リディ・サザーランドにございます。国王陛下、今宵は私共のために、このような宴の席をご用意くださり、厚く御礼申し上げます」
王を前に跪く使節団の中で、代表して中央の男が恭しく口上を述べた。サザーランド家は枢密院に名を連ねる公爵家であり、ロイドはその現当主だ。そうした自負のためか、リディの話し方や所作には、どこか気取った様子が見て取れた。
「皆、長きにわたる勤め、誠にご苦労であった。かの国では、有意義な時を過ごせたか? 」
「もちろんにございます。ハイルランドの威信は疑うべくもございませんが、彼の国は数多の驚きに満ち満ちておりました」
リディとジェームズ王の間で、謝辞と労いとがいくつか交わされる。その隙にアリシアは、他に倣って頭を垂れる黒髪の男を、こっそりと盗み見た。
目の前の男は、記憶の中にあるよりもずっと若かった。髪や瞳の色といった特徴はもちろんのこと、恐ろしいまでに整った顔や均整のとれた体付きは、前世の姿と変わらない。だが、聡明な横顔には少年の面差しが残り、抜身の刃のような鋭さは存在しなかった。
「此度の視察団派遣は、隣国との国交を回復させた先王の世からの悲願であった。貴殿らの学びを、この国のために尽くしてくれることを期待しているぞ」
「もったいなきお言葉にございます。我らが皆、この身に代えて、忠義を尽くしましょう」
芝居がかった口調で、リディが深々と頭を垂れる。ジェームズ王は全員に立ち上がるように求め、彼らはすぐに従った。
「リディ・サザーランド」
「はっ」
リディを最初にして、王が順番に一人一人の名を呼んだ。名を呼ばれたものは、高揚のために耳や頬をかすかに赤くしながら、短く答えた。他が全員呼ばれ、いよいよその者の番となったとき、アリシアは一音一句聞き漏らすまいと息を詰めた。
「クロヴィス・クロムウェル」
「はっ」
美しい外見に違わず、耳に心地よい低めの声が返事をしたとき、アリシアはその名を深く胸に刻んだ。
クロヴィス・クロムウェル。
それが、近い将来に、アリシアの命を奪う男の名であった。
使節団の名を呼び終えたジェームズ王は、広間に集う全ての貴族にむけて、両手を掲げて呼びかけた。
「我、貴殿らの帰還とさらなる飛躍をここに祝す。今宵は存分に楽しんでおくれ。今日この日が、王国の新たな門出となるように」
「ハイルランドに、栄誉あれ! 」
オットー補佐官に続き、広間中に復唱が響き渡る。わっと歓声が上がって、式典は幕を開けた。
先ほどまで高らかなファンファーレを打ち鳴らしていた宮廷楽団は、打って変わって軽やかなワルツを奏で始めた。
使用人たちにより静々と、しかし、てきぱきとささやかなパーティ料理が机に並べられ、客人たちは泡立つ琥珀色の液体を銘々に嗜んだ。
「陛下、アリシア様はここで」
「うむ、そうだな」
近づいて耳打ちしたフーリエ女官長に、王はこくりと頷いた。この先の式典は、ダンスを楽しんだり、軽食を摘みながら他の貴族との交流を深めたりと、社交デビュー前のアリシアには早い内容なのである。
それに、彼女本人もそろそろお暇したい頃合いである。件の男を見つけたばかりか、その名前を知ることができたのは、大きな収穫だった。しかし、これ以上は、自分の命を奪った男と同じ部屋にいたくはない。
この後は、まず貴族名鑑でも見ながら、クロヴィス・クロムウェルの情報を集めよう。アリシアはそんなことを考えながら、作法に則りドレスをちょこんとつまみあげて礼をし、退席しようとした。
それを、意外なことに王の腹心が引き留めた。
「陛下、アリシア様。ご機嫌麗しゅうございます」
「おお、ナイゼルか。今宵はご苦労だった」
本日の式典の進行役でもあったオットー補佐官に微笑みかけられ、立ち去りかけていたアリシアは姿勢を正した。
この、髪に灰色が混じる壮年の男を、仕事と人間性の両方で、王は深く買っていた。そのため、アリシアも彼に親愛の念を抱いており、オットーの方も懐くアリシアを可愛がってくれていた。
「こんばんは、ナイゼル。会えて嬉しいのだけれど、私、そろそろ席を外さなくてはならないの」
「そうかと思い、慌てて馳せ参じた次第でございます」
オットー補佐官の言葉に、女官長の眉がぴくりと動いた。彼の言い回しが気になったのは、アリシアとて同じであった。つまり彼は、なんとしてもアリシアを引き留めたかったということである。
「何か訳があるのだな。かまわぬ、申してみよ」
「実は、陛下とアリシア様、お二人にお目にかけたい若者がおります。陛下の御世はもちろんのこと、アリシア様の代まで、この国を支える逸材となりましょう」
なるほど、なるほどと、ジェームズ王は面白そうに繰り返した。アーモンド色の瞳が、愉快な色を浮かべてきらりと光る。
「お主がそこまで言うからには、よほどの人物なのだろうな。我も、ぜひ会ってみたい。通すがいい」
「ありがとうございます。――二人とも、こちらへ」
肩越しに後ろへ呼びかけた補佐官の視線の先を追って、アリシアはさっさと退席しなかったことを後悔した。