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「……あやまれ」
リディ・サザーランドは一つの計算違いをしていた。つまり、力のない平民風情が、公爵家にたてつくことなどあり得ないという思い込みだ。
だから、間違いなく耳が音を捉えているというのに、最初リディは意味を聞き取ることができなかった。それでも、背後からびしばしと伝わる不穏な雰囲気に、彼は思わず足を止めて平民たちの方を振り返った。
「何か聞こえたようだが、僕にまだ用があるとでもいうのか?」
「謝れって、そう言ったんだ!!」
今度は聞き落としようがなく、リディは驚愕のあまりたじろいだ。はたして、公爵家次期当主を相手に怒鳴り声をあげたのは、さきほど彼のことを臆することなく見上げていた少年だった。
リディが知る由もないことではあるが、声を上げた少年は、今日一日王女に町を案内してまわっていたエドモンド少年だ。顔面も蒼白に必死にとめようとする世話役をよそに、大きな瞳を怒りにらんらんと燃え上がらせ、エドモンドはリディ卿に詰め寄った。
「そりゃ、飛び出したこっちが悪かったさ。けど……、けど、あんたの言い分はあんまりだ!! いますぐ、この人に謝れ!!」
「貴様……っ! 誰に向かって口をきいている!?」
平民の、それも年端もいかない子供が、自分に反論をする。そんなリディにとってはあり得ない光景に、彼は一瞬呆然とし、次いで一気に頭の中を沸騰させた。首や耳の先まで憤怒に真っ赤に染め上げて、公爵家の嫡男は怒鳴り声をあげた。
だが、エドモンド少年はそんなことで怯むたちではなかった。
「あんた卑怯だ! この人が言い返せないからって、好き勝手言いやがって。今すぐ謝らなきゃ、あんたがこの人にどんな酷いことを言ったのか、大声で叫んでやる!」
「んなっ!?」
実に情けないことだが、エドモンドの脅しは効果的であった。このようなつまらぬいざこざで醜聞がまわるなど、耐え難い屈辱だ。
しかし同時に、リディは我慢強いたちではなかったし、平民に脅されるなどという異常事態を黙って飲み込めるほど温厚ではなかった。要するに、人の目を忘れて、彼は激昂した。
「いい気になるな、小汚い平民風情が!!」
「エドモンド!!」
悲鳴をあげたのは、子供たちのうち誰であったろうか。
絢爛なる彫りを施された飾り杖が、怒りに我を忘れたリディにより振り上げられた。世話役も子供達も、エドモンド本人ですらも、勇気ある少年の額が割れて血に染まるのを予見した。
その時、子供たちの隣に一台の馬車が急停車した。
「とめて、クロヴィス!!」
「仰せのままに!」
小鳥のごとく澄んだ号令とともに、馬車の扉を跳ね開けて黒っぽい人影が飛び出す。そして、木と木がぶつかり合う鈍い音がして、リディが振り下ろした杖を別の杖が受け止めた。
「クロ!?」
「クロさん!?」
はたして、エドモンド少年の前に身を躍らせ、リディ・サザーランドの振り下ろした杖を受け止めたのは、クロヴィスであった。憤怒に染まっていた次期公爵家当主の目が、驚きに見開かれた。
「クロムウェル!? なぜ、貴様がここに!?」
「しばらくぶりですね、サザーランド殿」
驚愕するリディに対し、クロヴィスは紫の瞳で冷静に相手を見据えた。意外な人物による介入に、思わずリディは杖を下して、目の前の珍客から距離を取った。
リディはわけがわからなかった。
クロヴィスとリディが会いまみえるのは、使節団の慰労式典ぶりだ。自分の目論見を外れて、王女の補佐官などという要職に取り立てられたクロムウェルに、はらわたが煮えくりかえる思いで城を後にしたのが最後だった。
枢密院にいずれ名を連ねる身としては非常に腹に据えかねることだが、彼は城でアリシア王女に仕えているはずだ。それが、なぜこんな町中で、それも平民を庇って自分の前に姿を現しているのであろう。
と、混乱をするリディに追い打ちをかけるように、澄んだ少女の声が響いた。
「どうか、怒りをおさめてはもらえないかしら」
憎き黒髪の青年の肩越しに、馬車の入り口に立つ小柄な少女の姿を、リディは見た。フードを深くかぶっているため、表情をはっきりと読み取ることはできない。しかし、フードに隠れた下から、強い眼差しでまっすぐにこちらを見つめる気配がした。
呆気にとられるリディに対して、少女は続けた。
「リディ卿。あなたにも、言い分があると思う。けれど彼らは、私の大事な友人たちなの。非礼があったのなら、代わりに謝ります」
「アリス? お前……」
「エドモンド」
戸惑いを込めて少女を呼んだエドモンドを、少女がさえぎる。次に、少女が子供たちや世話役にむけて口を開いたとき、その声は優しく気遣うように柔らかな響きを伴っていた。
「それに、みんな。彼は私の知人なの。恐がらせて、ひどい言葉で傷つけて、本当にごめんなさい。特に、あなたは顔が真っ白だわ。とても嫌な事を、彼に言われたのね」
少女の言葉に、張り詰めていたものが切れたのだろう。ぽろぽろと、世話役の女が泣き始めた。その泣き声をさえぎって、リディは声を張り上げた。
「待て! 何の話をしている!? お前が、私を知っているだと!?」
「醜い冗談はそのへんで止めておけ、サザーランドの坊ちゃん。でなければ、自分で自分の首を掻き切らねば、申し訳がたたなくなるというものだ」
そういいながら、軽やかに御者席から地に飛び降りた姿をみて、ますますリディは混乱を募らせた。
まっすぐになびく銀の髪に、鍛え抜かれた体が生み出す隙のない身のこなし。従者のような服装をまとってはいるが、2年の視察を共にし、今は近衛騎士団で副隊長を勤めるときく、ロバート・フォンベルトではないか。
その時、リディの頭に、恐ろしい可能性が浮かび上がった。
はっと顔をあげて、クロヴィス・クロムウェルとロバート・フォンベルトを交互にみつめた。それから、普段は気取った笑みを浮かべる整った顔を青ざめさせ、馬車の入り口に立つ少女に視線をうつした。




