2-1
頭上から垂れ下がる天蓋のレースを見つめながら、ベッドで1人、アリシアは状況を整理することにした。
尚、先ほどまで部屋の中にいたジェームズ王とアンリ・フーリエ女官長は、休みたいというアリシアの言葉を聞いて、すでにこの部屋にはいない。二人にも聞きたいことはたくさんあったが、どうやら現状を奇妙だと感じているのはアリシアだけのようで、下手に質問をすればアリシアの方こそ奇怪に思われてしまいそうだったのだ。
だが、こうして一度冷静になる時間を作ったのは、アリシアにとって正解であった。
まず、第一に重大な発見は、アリシアは10歳の少女に違いなかった。違いないというのは、つまり、目覚めた瞬間は記憶が混濁していたが、冷静に考えれば、自分は先月に10歳を迎えたばかりの王女であった。
では、ベッドで目覚める直前に見た光景はなんだったのか。もし、アリシアが第三者に相談をしていたならば、その誰かは「ただの夢だ。気にするな」と答えただろう。
なにせ、昨日の昼頃から、アリシアは高熱を出して寝込んでいた。おかげで意識は朦朧とし、医者やら侍女やらに世話を焼かれながら、気を失うように眠りについた。その結果、あれだけ後味の悪い夢をみてしまったと考えれば、一応筋は通る。
だが、アリシアは確信していた。
あれは、ただの夢などではない。
あれは、記憶。遠い昔、自分の身に起きたことだ。
(これって、とっても変なことよね……)
可愛らしい顔をしかめて、アリシアは天蓋の裏を睨んだ。
夢の中で、わが身を襲った凄惨な出来事。取り巻く環境も、事件も、10歳になったばかりのアリシアには、身に覚えがあるはずがない。にもかかわらず、アリシアはあの革命の夜を知っていた。
正確には、思い出したのだ。よくもまあ、あれほどに強烈な記憶を忘れていたものだと、疑問にすら思う。一度よみがえってしまえば、血が失われていく感覚も、全身が永遠の闇の中に溶けていく恐怖も、つい昨日のようにリアルに浮かぶというのに。
とにかく、かつて自分は死んだ。
そして、もう一度、同じ人生を生きている。
(……ああ、もう! 考えれば考えるほど、霧に包まれていくみたいだわ)
なぜ、死んだはずの自分が生きているのか。
なんのために、終わったはずの人生を、もう一度たどっているのか。
それらの疑問を解消するには、とにかく情報が少なすぎた。アリシアは、革命の夜を迎えるに至った経緯――便宜上、彼女はそれを『前世』と呼ぶことにした――を思い出そうとした。だが、どれほど頭を捻っても、夢の中で蘇った光景や知識以外は、まったくと言って浮かんでこないのだ。
これは、“すっきり思い出せなくて、もやもやする”ということ以上に、由々しき問題だ。すなわち、この先の未来で、もう一度あのような死に際を迎える羽目になるということだ。
前世の記憶があれば、不安な芽を一つ一つ摘んで、未来を回避することもできるだろう。だが残念ながら、アリシアには「革命の夜」の記憶しかない。といって、このまま何も手を打たなければ、重ねて同じ死に方をするであろうことは明確だ。
(そ、それだけはごめんだわ! )
絶望的な思いで、アリシアはベッドの上で身をよじった。あれほどに惨めな最期を再び迎えるくらいなら、よっぽど、あのまま永遠に命を落としていた方がましだ。
何か手掛かりはないか。どんな些細なことでもいいのだ。
アリシアが懸命に記憶を手繰りよせようとしていると、控えめにドアがノックされた。
「だいぶんと、お加減がよくなったように見受けられます。朝にお目覚めの際は、相当に血の気が引いておいででしたが」
侍女のアニとマルサに食膳を用意させている傍らで、アンリ・フーリエ女官長はアリシアの額に手を重ねて、ほっとしたように告げた。
フーリエ女官長は、かつてはアリシアの亡き母、つまり王妃の部屋付き女官だった侯爵夫人で、王宮勤めが長い古株だ。愛想は少ないが公正な人物であり、古今東西に通じる広い知識と正しきことを貫く芯のある姿勢は、王や他の女官から厚く信頼を得ていた。
そういえば、フーリエ女官長の姿を、革命の夜に見ることはなかったなと、アリシアはぼんやりと思い返した。だが、単に見かけなかっただけなのか、すでに王宮勤めを辞した後であったのかまではわからない。つくづく、ごく一部分しか記憶を持たないというのは不便だ。
「あの時は、ひどい夢を見たあとだったから。私、うなされてなかったかしら? 」
「はい。高熱が引かなかったのかと、こちらまで青ざめましたね」
さりげなく探りを入れてみると、フーリエ女官長は大して気にする素振りもなく頷いた。記憶を取り戻したことによるアリシアの動揺を、この優秀な女官長は、体調を著しく損ねたためのものであると納得しているらしい。
アリシアは口を噤み、アニが用意してくれたパン粥を口に運んだ。正直なところ、待ち受ける未来への不安は胸に重くのしかかり、食欲など全くわかない。だが、無理に食事を飲み込むことで、同時に、夢の記憶をも胸の中に押しとどめた。
フーリエ女官長が頼りになる人物であることは間違いないが、融通の利く人物とは言い難い。仮にアリシアが来るべき運命の日について打ち明けたなら、女官長は恐らく、アリシアの気が変になってしまったと思うだろう。
女官長だけではない。ベッドで思案しているときに、「前世の記憶について、誰にも打ちあけない」と、アリシアは決意を固めていた。到底、信じてもらえるとも思えないし、そもそも自分でも上手く説明できないことを口にするのは、得策ではないのだ。
平静を装いつつも、鉛のように重く感じる粥を四苦八苦しながらアリシアが飲み込んでいると、女官長は気遣わしげに眉をしかめた。
「熱は下がったものの、昨夜からのお疲れが残っているかもしれません。今夜の式典は、アリシア様は欠席といたしましょう」
「式典? えっと、今日は何の式典だったかしら? 」
虚を突かれて、アリシアは首を傾げた。女官長の方は、そんなアリシアの反応を予想していたらしく、澱みなく答えた。
「本日帰国するエアルダールへの使節団の、慰労式典です。国内の貴族しか招かれておりませんから、陛下も、不調を押してまで出席する必要ないと仰っています。今回ばかりは、私もそれに賛成いたしましょう」
なるほど、そうした内容の式典であれば、道理で記憶の隅にも残らなかったわけだ。もともと、アリシアは王宮式典など、多くの人間が集まる場が苦手だ。幼くして母を亡くしたため、王も自分に甘いところがあり、他国の外交が絡むような大きな式典でなければ、めったに参加してこなかった。
「ならば、お父様に甘えて……」
ほっと表情を緩めてこたえようとして、アリシアは胸がざわつくのを感じた。