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何か願うことはないか。
その質問に対し、クロヴィスが漏らしたのは意外な一言だった。
「お側に、いさせてください」
「へ?」
まったく予想をしていなかった返答に、アリシアはきょとんとして補佐官を見た。クロヴィスはというと、自分でも無意識のうち口を滑らせたのか、途端に慌てだした。
「今のは、どうぞお忘れください! まったく、一体、何をいうのやら……」
「ほんとうよ」
心底、不思議で仕方がなく、アリシアは大きく瞬きをした。
「側にいたいだなんて、そんなの当たり前じゃない。補佐官なのに、主人と一緒にいなくてどうするの」
アリシアとしては、至極、まっとうなことを言ったつもりだった。だが、クロヴィスの反応は違った。
秀麗な顔に似合わず、しばしぽかんと口を開けて固まった後、クロヴィスの白い頬はみるみるうちに朱に染まっていった。心なしか、深い紫の瞳には、うっすらと涙をにじませている気がする。
なんだなんだ、この反応は。
呆気にとられて見守るアリシアの視線から逃れようとするように、黒髪の青年は、窓の外に顔をそむけてしまった。
「……ずるいのは、あなたの方です。私が、どんなに与えられたものに報いようとしても、いとも簡単に、より多くのものを与えてしまう。これでは、一生かかっても、あなたに恩義を返せないではありませんか」
「ごめんなさい、意味がさっぱりわからないのだけど」
「アリシア様の命といえども、秘密です」
いっそふてくされていると言える彼の態度は、忠実な臣下たらんとする彼には珍しすぎる。――俄然、興味がわいてきた。
「私は、一番の秘密をあなたに打ち明けたのよ? あなたも教えて? それとも、私には言えないようなこと?」
「…………秘密です」
「ねぇねぇねぇねぇ。いいでしょ、クロヴィス」
「っ! ひ、姫様」
小さな体をいかし、クロヴィスの膝の上に半分乗るような形で、アリシアは逃れようとする補佐官の顔を無理やりのぞきこんだ。これには、さすがのクロヴィスも狼狽をみせた。
……この辺りの感覚は、アリシアは10歳の少女であった。もしこの場に侍女がいたなら、血相を変えて王女を引き剥がしにかかっただろうし、それがフーリエ女官長なら、悲鳴をあげて卒倒しただろう。
と、その時、がちゃりと音がして馬車の扉がひらいた。
「若旦那様、お嬢様。到着いたしました。……って、何してるんすか、あなた方」
「おやおや、着きましたか。行きましょう。すぐ行きましょう」
半目になったロバートを押しのけて、やたらとはりきってクロヴィスが馬車の外へと進み出る。と、扉の向こうから、がやがやと多くの人々が行き交う音が聞こえて、一瞬アリシアは怯んだ。
それに気がついたクロヴィスが、光の中から手を差し出した。風が補佐官の黒髪をやわらかく動かし、美しい紫の瞳が優しく細められる。
「大丈夫ですよ。――おいで、アリス」
目の前の形の良い手と、その先で微笑む人物とを、アリシアは交互に見つめた。
悔しいが、その大きくて温かな手のおかげで、アリシアは前世の呪縛から一歩踏み出すことができた。今度もまた、自分を引く手を信じよう。
「はい。お兄さま」
アリシアの小さな手が、皮の手袋に覆われたクロヴィスのものと重なる。そうして、王女は、ハイルランドに住まう人々の中へと足を踏み入れたのだった。
アリシアたちが馬車を降りたのは、時計やらガラス細工などの小物をあつかう職人がすまうエリアだった。すでに、人々は朝の仕事に取り掛かっており、道をあるく人々の足はどことなく急いでいる。
なお、ロンことロバートの方は、馬車を待たせておいた別の騎士にまかせ、すこし離れた場所から後ろをついてきていた。もともと、至近距離で護衛するのはクロヴィスで、ロバートは遠くから周囲を警戒すると役割分担を決めていたのだ。
「この時間は、人通りが多い。はぐれないよう、しっかり手をつかんでください」
つないだ手の先で、”お兄さまモード”のクロヴィスが穏やかに微笑む。
城の中ではアリシアが先導し、クロヴィスが後に従うことが多いが、いまは完全に立場逆転だ。なんとなく気恥ずかしくなって、チャコールグレーのフードをすっぽりかぶった下で、アリシアは顔を赤らめた。
ちなみに、天候の変化がはげしいこの国では、雨避けにアリシアのように頭に何かを被っている人の姿もめずらしくない。事前に、アニにはそう教えてもらっていたが、たしかにフードや帽子をかぶった人の姿をちらほらと見かけた。
上手く町にとけこめたことに胸をなでおろしつつ、アリシアはあらためて、はじめての城の外の光景に目を奪われた。
「なんだかこの町、遠くから見ていたときよりもずっときれい」
城の高台から見下ろしていたときは、赤やオレンジの屋根が、お行儀よく並んでいるのしかわからなかった。それはそれで人形の家のようでかわいかったのだが、こうして近くで見た方が、ずっと魅力的だった。
どれも同じに見えた建物は、よく見るとひとつひとつが違っていた。それぞれ、大きなガラス窓の奥で、職人が背中をまるめて懸命に何かを作っていたり、訪れた客となにやら熱心に話し込んでいたりしているのだ。
「彼らは、エグディエルに根付く技術を、代々守り抜いてきた職人たちですよ」
アリシアの手を引いたまま、クロヴィスは王都エグディエルについて、つらつらと話し始めた。
建国王エステルが築いたこの町は、もともとは南方から侵入する敵を想定して作られた軍事拠点だ。しかし、王国の歴史が長くなるにつれ、軍事要塞はよりエアルダールに近い南方へとうつされ、かわってエグディエルには、職人や文化人が集まるようになった。
特に職人たちは、港町を通じて王都に珍品をはこんでくる貿易商人たちにむけて、逆に自らの作品を売り込むために、相当早くからこの地に根付いた。
長い歴史に裏打ちされた技術により、エグディエルの職人がつくる金具やガラス細工は、高い評価を得続けてきた。厳しい天候により作物が育ちにくいこの国で、貿易で儲けるための唯一の稼ぎ頭が、彼ら職人たちだ。
「といっても、最近は海の向こうの技術もどんどん精度があがり、競争相手が増えてしまった。このまま、勢いが衰えなければいいが……。と、いけません」
徐々に自分の思考に夢中になっていったクロヴィスは、ふと思い出したようにアリシアを見て、困ったように眉を寄せた。
「せっかく、あなたに町を楽しんでもらいたくて来たのに、すっかりいつもの癖がでてしまった。難しい話はこれくらいにして、これから市場へ行きますよ」
「ほんと!?」
高台の上から見えた、立ち並ぶ路面店やらにぎわう人々の様子を思い出して、アリシアはきらきらと目を輝かせた。それに答えて、クロヴィスも微笑んだ。
「今から行く場所では、職人の弟子がつくった作品なんかも売っています。この町に息づく人たちの活気を、とてもよく感じられる場所ですよ」
なるほど。だから、クロヴィスは直接アリシアを市場につれていくのではなく、先にこの通りに立ち寄ったのだ。
もういちど、アリシアはそれぞれの窓から見える職人たちの姿を目に焼き付けてから、クロヴィスに手を引かれていくつかの角を曲がった。
と、ふいに目の前に広場があらわれ、アリシアは感嘆の声を漏らした。




