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“お前はまだ、殺してしまいたいほど、私が憎い?”
アリシアの問いは、どろりとした水の中に溶けていった。補佐官はそれには答えず、いつものように鈍く光る剣をゆっくりと掲げた。
ああ、やっぱり。私は、この者に殺される運命なんだ。
そう諦めて目を閉じた時だった。
“少しお疲れのように見えますが、明日にまとめて報告いたしましょうか”
“歴史や時事に関する事柄でしたら、このクロヴィスが姫様の力になれるかもしれません”
“いますぐ、その場所からお降りください。万が一、風に煽られでもし、アリシア様が落ちてしまったら大変です!”
“我が身の全てを捧げ、アリシア様にお仕えいたします”
アメジストに似た澄んだ瞳でアリシアをまっすぐに見つめ、誓いの言葉を述べた若き補佐官の姿がまぶたの裏に蘇り、アリシアははっと目を開いた。
“あなたに、私は殺せない”
ふだんは涼し気な瞳が、とても温かな色を浮かべること。
冷静沈着に見えて、実はけっこう焦ったりすること。
完璧超人のくせに、臆病で脆い一面もあること。
2回目の生の中で、このクロヴィス・クロムウェルについて、いろんな顔をアリシアは見てきたではないか。
前世の呪縛になど、もう惑わされてなるものか。
“王女として命じます。私に仕え、未来を変える助けとなりなさい”
今にも剣を振り下ろそうとする補佐官に向かって、アリシアは手を伸ばした。その瞳にはすでに怯えはなく、凛と強い光を宿していた。
“あなたが憂いたこの国の未来を、憎んだ世界を、私が変えてみせる。だから、この手を取りなさい”
剣を振り上げたまま、冷たい眼差しがアリシアを見据えた。それでもアリシアは、気高くまっすぐに男へと手を伸ばし、叫んだ。
“手をとるのよ、クロヴィス! お前は私の、補佐官でしょう!!?”
途端、どろりとした液体を押しやって、アリシアの体は澄んだ透明な水の中に包まれた。清らかな流れにマントをはためかせ、美しい補佐官は剣を手放した。
クロヴィスの秀麗な顔に、穏やかな笑みが浮かぶ。その紫の瞳に魅入られて動けないアリシアの手と、クロヴィスの白く細い指がそっと触れ合う。
二人の手が強く繋がった時、アリシアの意識は覚醒した。
「アリシア様?」
ここはどこだと、アリシアはゆっくり瞬きをした。暗さに慣れた目は、すぐに自分が自室のベッドに横たわっているのだと理解した。
と、右手を包み込む暖かな感触にそちらを見て、アリシアは空色の目を見開いた。
「クロヴィス……?」
「無理をなさらないでください。覚えていますか? あなたは、星霜の間で倒れたのですよ」
そろそろと体を起こしたアリシアの背中を、すぐにクロヴィスの大きな手が支える。その間も反対の手は、少女を守ろうとするかのように繋がれたままだ。
おそらく、補佐官の方もすっかり失念していたのだろう。アリシアの視線に気づいたクロヴィスが、自分が王女の手を掴んだままであることを思い出して、途端に慌てた。
「これは……! 申し訳ありません!」
「離さないで!」
鋭く命じたアリシアに、クロヴィスが驚いて顔をあげた。その涼しげな紫の目が、アリシアの顔を見て大きく見開かれた。
「どうして、泣いているのですか?」
「え?」
言われてはじめて、大粒の涙がこぼれ落ちるのに気がついた。熱い雫は後から後から溢れ出て、ぽたぽたと音をたてたシーツに大きな染みをつくった。
突然泣き出した主人に、クロヴィスの形の良い眉が困ったように寄せられる。ためらいがちに、その節くれだった指でそっとアリシアの目元をぬぐった。
「私を、頼ってはいただけませんか?」
涙をこらえようとして、ひくっとアリシアの喉が鳴った。そんなことはお見通しだというように、もう一度、今度は迷いのない手つきで、クロヴィスの指が目元に添えられた。
「どうか、一人で抱え込まないでください。あなたが泣いていると、私は居ても立っても居られなくなってしまう」
「…………ふぇ」
アリシアは、抗うことを手放した。小さい嗚咽が漏れて、次いで王女は幼子のように泣きじゃくった。とめどなく溢れる涙を両手で拭いながら、声をあげて泣くアリシアの背中を、大きくて暖かな手が何度もさすった。
ずっと、一人でこらえてきた。
しかし、一度決壊してしまったら、もう本音を抑えることはできなかった。
「……ゆめを……っ、みるの」
「はい」
「ゆめの中で、っ、わたしはみなに憎まれているの」
「ええ」
「憎まれて、ひとりで、っ、死んで……!」
ううん、違う。
大きく被りを振ってから、アリシアは一気に吐き出した。
「わたしは、この先の、未来、で、殺される。いいえ、未来で、っ、一度死んだわ。そして、生まれかわったの」
つい最近、死の間際の記憶を思い出したこと。
前世で自分は、この国の王妃であったこと。
<傾国の毒薔薇>として命を絶たれたこと。
星の使いに、未来を託されたこと。
――さすがに、命を奪った張本人がクロヴィスだという事実は避けた。しかし、決して誰にも言わないと固く誓っていた事柄の大半を、気が付くとアリシアは目の前の青年に打ち明けてしまっていた。
話している間、何度か頷く以外は、クロヴィスは一言も口を挟まなかった。一通り話し終えてしまうと、だんだんと頭が冷えてきて、アリシアの心には後悔の念が芽吹き始めた。
クロヴィスは、さぞやアリシアを頭のおかしい王女と思ったことだろう。
さぁ、笑うなら笑うがいい。
ふいに黙り込んだアリシアに、王女の意図を察したらしい補佐官は苦笑した。
「私が信じないとお思いですね」
「自分でも、荒唐無稽な話だと思うもの」
赤くなった目元を隠そうと、アリシアはふいっと目を逸らした。すると、右手をつつみこむ力がぎゅっと強くなった。
「私は、アリシア様の言葉を信じます」
「……うそ」
「あなたに、うそなど付きません」
「うそ!」
涙で濡れた目できっとクロヴィスを睨みつけ、アリシアは叫んだ。だが、クロヴィスは真剣な瞳に主人をうつしたまま、ゆっくりと首を振った。
「あなたは、伊達や酔狂でこんなことを言う方ではない。それに、現に目の前であなたが苦しんでいる。それだけで、根拠は十分だ」
アリシアの目から、新たな涙があふれた。にじむ視界の先にうつる美しい男の顔は、夢の中でみたおだやかな笑みと重なって見えた。
「私のすべてを、あなたに捧げると誓ったはずです。――アリシア様を苦しめる未来を、俺が変えてみせる。俺はあなたの、補佐官ですから」
ね、言ったでしょ? 未来は、変えられるんだよ。
ふたたび泣き崩れたアリシアの耳に、そんな風に笑う星の使いの声が聞こえた気がしたのだった。




