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かぽりと音がして、アリシアの口から大きな空気の塊がもれだし、ゆらゆらと上へ登っていった。
また、この場所だ。諦めにも似た心地で、アリシアは暗い水の底を見つめた。
ほどなく、朧げに揺れるオレンジの炎が辺りを包み込む。立ち昇る炎の動きにあわせて、革命の叫びがこだまする。
もう、嫌だ。
限界だ。
小さな体を丸めて、アリシアはぎゅっと耳を押さえた。
恐怖と不安を胸の底に追いやり、笑顔であろうとした。
心と体にムチを打ち、未来に立ち向かい、足掻こうとした。
けれども、そんな抗いをあざ笑うかのように、前世の記憶が己を追い詰める。未来など変わらぬ、努力は無駄だと、アリシアの心を挫かせる。
あと何回、この絶望を繰り返すのだろう。
あと何回繰り返せば、この絶望を抜け出せるのだろう。
かつんと音がして、目の前に立つ何者かの足が視界に入った。つられて顔を上げると、あの夜と同じ、冷たく自分を見下ろすクロヴィス・クロムウェルと目があった。
毎夜くりかえしたのとは違い、不思議とアリシアの心は恐怖一色に塗りつぶされることはなかった。その変わりに、アリシアの胸を襲ったのは“痛み”だった。
“ねぇ、クロヴィス。あなたはなぜ、私を殺したの?”
アリシアの問いかけに、美貌の顔をぴくりとも動かさず、男は黙って王女を見返した。無感動にみつめる紫の瞳に、自分の泣きそうにゆがんだ顔が映るのを、アリシアは見た。
“お前はまだ、殺してしまいたいほど、私が憎い?”
眠る主人をいたずらに起こさないよう、後ろ手にそっと扉を閉めてから、クロヴィスは静かに部屋の中を進んだ。彼女の寝室にはいるのは初めてだが、大きな天蓋が場所を主張したため、暗闇の中でもベッドに近づくのは造作もなかった。
物音を立てないようゆっくりと近づき、その脇に立つことで主人の姿が明らかになった時、クロヴィスの胸は締め付けられるように痛んだ。
こんな暗闇の中でもわかるほど、王女の顔は青白かった。そのくせ、身じろぎもせず横たわっているものだから、彼女がこのまま深い眠りについてしまうかのような錯覚が湧き上がる。
(アリシア様……)
彼女は、変わった姫だ。
紛れもない高貴の身の上にあるというのに、彼女はそれを決して驕らない。いっそ無邪気ともいえるほどの人懐っこさは、時として彼女が一国の王女であるという事実を忘れさせてしまうほどだ。
いまだに、自分がアリシア付き補佐官などという立場にあることを、クロヴィスは不思議におもうことがある。なぜなら、初めて彼女の姿を目にしたとき、自分とアリシアとでは住む世界が違うという漠然とした確信が、クロヴィスの胸を満たしたからだ。
父王の愛を一身に注がれる、ハイルランドに咲く青き薔薇。
その愛らしさで、臣民問わず虜にしてしまう、美しき姫君。
まるで、自分とは真逆であった。
王妃を亡き者にしようとした謀反人にして大罪人ザック・グラハム。その肖像は不吉なものとしてすべて燃やされたが、彼がグラハム家に代々引き継がれた漆黒の髪と、珍しい紫の瞳を持っていたというのは有名な話であった。
大罪人の外見的特徴を色濃く引き継いでしまったクロヴィスを、血縁の者たちですら疎んじた。特に母は、一族の恥を思い起こさせるクロヴィスを視界に入れることを極端に嫌い、使用人たちに命じて遠ざけた。
だから彼は、自分の武器となるものを求めて、勉学、剣術とに打ち込んだ。幸いにもクロヴィスは人より器用なところがあり、本人の並々ならぬ努力もあって、王立学院を首席で卒業するところにまで上り詰めた。
それでも、両親や血縁者たちがクロヴィスを見る目はかわらなかった。おまけに、クロヴィスが抜きんでて優秀であるほど、彼の出自に目をつけて、貶めようとするものは絶えなかった。
仕方ないと、諦めていた。
自分は生涯、ザック・グラハムの呪縛から逃れることは出来ないのだと。
“王女として命じます。クロヴィス、私のそばに仕えなさい”
ゆえに、その手を王女につかまれたとき、クロヴィスは自分が幻影でも見ているのではないかと、我が目を疑った。
晴れた日の空のように澄んだ瞳が、一切の迷いなくクロヴィスを見つめていた。強い光を瞳に宿し、道を示すかのようにクロヴィスの手をとって佇む凛とした姿は、あまりに気高く美しかった。
気が付くと、クロヴィスはその場に跪いていた。この上ない幸福に胸が熱く満たされていくのを感じながら、クロヴィスの背中には一つの決意に震えが走った。
自分は、この方に仕えるために生まれてきたのだ。
我が身のすべてをかけて、アリシア王女に仕えなければならぬ。
(アリシア様、俺はあの日、あなたに救われたのです)
うなされて苦痛にゆがむ幼い寝顔を見守りながら、クロヴィスは傍らの椅子に腰かけた。彼女の苦しみが減ることを願いながらも、こうしてそばにいたって自分はなんと無力で使えないのだと実感した。
高熱を出してうなされた夜も、誰からも愛をうけずに一人で泣いた夜も、そばにいて慰めてくれる者はクロヴィスにいなかった。
それはもはや彼にとって当たり前のことだったから、今更にそのことについて胸を痛めるつもりはない。だが、目の前で苦しむ少女を見ていると、うなされている人間をなだめる術くらい学んでおけばよかったと思う。
と、王女の手が、何かを求めるようにぴくりと動くのを見た。少し迷ってから、クロヴィスはその小さな手をそっと包んだ。
アリシアがクロヴィスの手を掴んだのが、気まぐれであってもかまわない。
出口の見えない暗闇の中、一人で彷徨っていたクロヴィスに、光り輝く姫君が救いの手を差し伸べてくれた。そんな彼女を救うことができなくて、何が補佐官だ。
――――苦しまないでください、アリシア様。俺の、たった一人の大切な方。
気づかぬうちにその手に力をこめながら、クロヴィスはアリシアのために必死に祈りの言葉を唱えていた。




