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近衛騎士団の制服も混じっているが、彼らが王を守るためにこの場に駆け付けたのでないことは、表情を見れば明らかだった。回廊の先に、逃げるフリッツ王とシャーロットを見つけたのだろう。中心に立つ指揮官のような男が、怒りに口元をゆがませた。
「この期に及び、まだ恥を上塗りするか! フリッツ王!!」
「先を行くことは、なりません!!」
無数の剣とぎらつく視線にさらされ、アリシアのすらりとした肢体が恐怖に震えた。それでも、毅然とあごを引き、道を阻んでと手を掲げる姿は、王族の威厳を感じさせた。
それは、暴徒たちにしても同じだったのだろう。アリシア一人、突破することなど造作ないはずなのに、剣を構えるだけで横を走り抜けようとはしない。
「アリシア王妃」
ふとすれば噴き出してしまう怒りを押しとどめようとするように、深い呼吸を繰り返してから、中心にたつ男が一歩踏み出した。
こんな時なのに、その男がひどく美しい顔の造りをしていることに、アリシアは驚いた。ここが革命の最中などではなく、煌びやかな宮廷舞踏会の場であったなら、さぞや若い貴婦人たちの熱い視線を独り占めにしたことだろう。
アリシアの髪が抜けるような晴天の色であるなら、男のそれは夜の帳の色。それだけでも珍しいのに、涼やかな目元から覗く瞳は深い紫で、彼のミステリアスな印象を深めている。すっと筋の通った鼻梁や薄い唇は精悍で、気品漂う身のこなしやすらりと背の高い体に纏う服装は、華美ではないが貴族のそれを思わせた。
と、ここまで目立つ外見をしているのに関わらず、アリシアはその男を知らなかった。艶めく漆黒の髪といえば、かつて栄華を極めた古い貴族の家に、そうした珍しい髪色を持つものがいると小耳に挟んだことがあるが、この男はその家の出なのだろうか。
だが、男の美しい顔に浮かぶのは、激しい怒りと渦巻く憎悪であった。アリシアが歴代王の血を引く末裔であるということが、かろうじて男に敬語を保たせていた。
「道をお譲りください、アリシア王妃。ハイルランドの威厳の象徴たるあなたに、どうか、剣を向けるなどという愚行を許しなさいますな」
「であれば、そちらが剣を引けばよい」
竦む体を奮い立たせて、アリシアは容姿端麗な襲撃者を睨み返した。剣の柄を握る男の手に、かすかに力が増した。
「恐れながら、あなた様がフリッツ王を庇う必要がどこにありましょうか。あの男は父君の敵であり、ハイルランドの民に圧制を敷くに飽き足らず、愛人を連れ込み、あなた様まで愚弄した。我らが誇りを、何重にも踏みにじった男ですぞ」
「だとしたら、何です! 」
空を駆ける鳥の如く澄んだ声が、石造りの回廊にこだました。自らを鼓舞するように、アリシアは凛と声を張り、続ける。
「民が私をハイルランドの象徴というのなら、フリッツ様は、その象徴たる私が愛するお方。チェスターの血に忠義を尽くすというなら、その剣を、フリッツ陛下を護るためにこそ使うべきではありませんか! 」
「……この国の権威は、かくも落ちぶれたか」
アリシアを映す紫の瞳が、すっと冷え込んだ。苦々しく吐き捨てる男の表情からは、全ての色彩が失われたかのように見えた。
まずい。本能的な恐怖を受けて、アリシアが後ずさろうとしたとき、男が動いた。どすりと胸を突く衝撃が襲い、アリシアは目を見開いた。揺れる視界の先で、男の剣がアリシアの胸を貫き、自らの血が刃を伝って床に零れ落ちるのを見た。
「どう……して」
「<傾国の毒薔薇>め」
ずるりと剣が引き抜かれ、支えを失った体が大理石の床に倒れ伏す。震える手で、アリシアが自身の胸に触れると、生暖かな鮮血が細長い指を赤く染め上げた。
自らの血だまりに身を横たえたアリシアの脇を、男たちが走っていく気配がする。だが、それを止めるすべは、もはや彼女には残されていなかった。血が流れ出るにつれ、視界は霞み、手足はしびれたように力が入らなかった。
「愛におぼれ、心の目を曇らせ、民から背を向けた結果がこれだ。あの世で己が罪を悔やむがいい」
蔑みの色を浮かべて、紫の瞳がアリシアを見下ろす。アリシアの目には、漆黒の髪を持つその男が、まさしく死神のように映った。そして事実、男の剣に貫かれた傷によって、アリシアの命の灯火はかき消されようとしていた。
霞んでいく思考の中で、アリシアは何度も自問した。
一体、どこで道を違えてしまったのだろう。賢王と名高い父に愛され、<青薔薇姫>と皆に賛美されていたかつて、自分は確かに幸せだったはずだ。
それが今では、愛する者からは愛されず、臣下からは見放され、蔑みと憎しみの目を向けられながら、冷たい床の上で事切れようとしている。
アリシアの頬を、熱い滴が零れ落ちた。もし、正しい道を選び取っていたら、自分は違った生を歩むことができたのだろうか。これほどにまで惨めな最期を、迎えずに済んだのだろうか。
どれくらい、そうしていただろう。どさりと重い物が落ちたような音がして、アリシアはいつの間にか閉じてしまっていた瞼を薄く開いた。
もはや焦点を結ぶことも難しくなった視界の先で、何かが動く。ころころと転がり、アリシアの冷えた指にぶつかって止まったそれは、よく磨かれた木筒であった。
その光景を最期に、アリシア・チェスター・ヨルムの瞳からは、永遠に光が失われた。
……はずだった。
天蓋のある大きな寝台の上で、アリシアは荒い呼吸を何度も繰り返した。心臓が早鐘のように胸を打ち、全身はどっと汗が噴き出ていた。
「シア? 大丈夫かい? ……シア? 」
そうだ。アリシアは、汗で貼りついたネグリジェを夢中で引き剥がし、胸に開いたはずの致命傷を探した。だが、アリシアの白い柔肌には、傷跡ひとつ見当たらない。
おまけに、これは何の冗談なのか?
「顔が真っ青だよ。やっぱり、主治医を呼んだほうがいいんじゃないかな? 」
「しかし陛下、姫様のお熱はすっかり下がっておいでのようで……」
椅子に腰掛け、心配そうにやり取りをする二人の大人を、アリシアは亡霊を見る心地で見つめた。人好きのする丸顔と、見る者を和ませるふくよかな体付きのその人を、アリシアが見間違うはずがない。座っているうちの一人は、エアルダールとの先の戦争で命を落としたはずの、ジェームズ王、つまりアリシアの父だ。
それだけなら、まだいい。いや、よくはないが、枕元に亡霊がたったと納得しよう。
恐る恐る、アリシアは姿見に目線を移した。視界の端で映っていたあり得ない光景に、つい後回ししてしまっていたが、そろそろ本格的に向き合わないとならないのだ。
部屋を映し出す大きな鏡の中から、少女がアリシアを見つめ返した。どうみても10歳前後に見えるその少女は、空色の髪と瞳をしていて、おまけにアリシアが動くのと同じに動いた。
間違いない。
鏡に映る少女は、アリシア自身だ。
「あれ……? 」
王妃アリシア・チェスター・ヨルム改め、王女アリシア・チェスターは、盛大に首を傾げたのだった。