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細く差し込む外の光に照らされて、銅像が並び立つひやりとした回廊の先に、その人物は立っていた。
漆黒の髪、恐ろしいほどに整った秀麗な面差し、すらりと均整のとれた長身。
アリシアを射抜く、冷ややかな紫の瞳。
「クロヴィス・クロムウェル……」
からからに乾いた喉から、かろうじて掠れた声が漏れでる。同時に、アリシアの体は小刻みに震え、みるみるうちに血の気が引いていった。
「いや」
恐怖でうごけないアリシアに向かって、黒き死神は足を踏み出した。
「いや、いや」
切れ長の瞳は、冷徹にアリシアを見据え、蔑みと憎しみとに燃え上がった。
「いや、いやいやいや」
その手は鈍く光る剣を携え、アリシアの罪を裁くために振り上げられた。
「いやぁああああ!!!!!!!」
「アリシア様!?」
「気を確かにもってください、姫様!!!」
悲鳴をあげ、半狂乱になっていたアリシアは、気が付けば、信頼をよせる侍女ふたりと女官長に取り押さえられていた。
「アニ、マルサ……? フーリエ女官長……?」
震えた声で呼びかけると、心配と軽い混乱とで三人は顔を見合わせた。アリシアが回らない頭で状況を確認すると、自身の顔は涙でぐちゃぐちゃで、菓子をつめこんだバッグはいつの間にか地面に落ちてしまっていた。
と、霞む視界の先に、アリシアは求める人物を見つけた。
「クロヴィス……」
アリシアを囲む三人から距離を置いた場所で、若き補佐官が表情を強張らせて、こちらを見守っていた。王女を恐怖させた白昼夢の名残はすでになく、ただただ、凍り付いたように立ち尽くす様は痛々しくもあった。
「ねぇ。クロヴィスは悪くないの。私が悪いの」
「落ち着いてください。落ち着くのです、アリシア様」
「本当よ。ねぇ。フーリエ女官長。彼は何も悪くないの」
弱々しくも、必死ですがりつくアリシアの背中を、なだめるようにフーリエ女官長が何度もさすった。そのうち、アリシアの空色の瞳からは、ぽろぽろと新たな涙がこぼれおちた。
「お願い。クロヴィスに伝えて。怖がらせてごめんなさいって」
最後にもう一度、ごめんなさいと呟いて、アリシアはぐったりと意識を失った。
アリシア王女は、侍女たちの手でただちに自室へと運ばれた。同時に、連絡をうけた医務官が駆けつけ、彼女の部屋は侍女やら医務官やらが慌ただしく出入りを繰り返した。
その邪魔とならないよう少し離れた場所で、クロヴィスは壁にもたれていた。
アリシアが運び込まれてから、ずいぶん時がたつ。その間、クロヴィスが部屋の中の様子をうかがい知ることはかなわず、今、主人の容態がどうなのかは全くわからなかった。
“怖がらせてごめんなさい”
蒼白な顔で、憔悴しきっているくせに、懸命にクロヴィスを庇おうとする少女の声が蘇り、若き補佐官はもどかしげに己の黒髪をくしゃりと掴んだ。
アリシア本人の言葉もそうだが、女官長と侍女とが一部始終をちかくで見ていたため、クロヴィスを責めたり、よからぬ疑いをかけたりする者はいなかった。
だから、クロヴィスがこの場に控えていなくてはならない理由は何もない。しかし、力なく運ばれていくアリシアの姿がまぶたの裏にちらついて、クロヴィスは自室に戻る気には到底なれなかった。
「おお。まだ、ここにいたのか」
ふと、頭の上から降ってきた声に顔をあげたクロヴィスは、切れ長の目を見開いた。
「陛下……!」
「よい。そのままで」
慌てて姿勢を正そうとしたクロヴィスを、ジェームズ王は穏やかに押しとどめた。見ると、医務官やら侍女やらがぞろぞろと、王女の部屋から出てきていた。
「アンリに事情はきいた。お主も、災難だったのぉ」
「いえ……。それよりも、アリシア様のお加減は」
「今は、落ち着いて眠っておる。というより、医務官がお手上げじゃ。主治医が言うには、どこも悪いところが見当たらず、極めて健康体なのだ。何か我々にはわからないものが、シアの心をひどく苦しめたとしか考えられぬ」
「さよう、ですか」
王の答えに、クロヴィスは表情をかげらせて目線を落とした。
星霜の間でのアリシアの震えようは、どうみても尋常ではなかった。なによりクロヴィスの胸を締め付けたことは、彼女はあの時、間違いなくクロヴィスに怯えていたということだった。
苦し気に表情をゆがめた補佐官に、ジェームズ王は優しく微笑んだ。
「とうに日は落ちた。お主も、今日はもう下がって休め。ここにいても、できることはなかろう」
「それはできません」
弾かれたように答えると、クロヴィスは王に頭を垂れた。
「無礼を承知で、お願いいたします。今宵はこの場にとどまることを、どうかお許しいただけないでしょうか。……たとえ、私にできることがなくとも、あの方がこれ以上苦しむことがないよう、側にいてお守りさし上げたいのです」
この件に関して己が無力であることを十分理解した上、クロヴィスは頭を垂れていた。そんな補佐官に、ジェームズ王は丸い顔に苦笑をうかべた。
「扉の外に顔を青ざめさせた男が夜通し立っているなど、想像しただけで夢見が悪くなりそうだがのぉ」
「くっ」
茶目っ気たっぷりの的確な突っ込みに、クロヴィスは言葉に詰まった。だがジェームズ王は、ちょうど王女の部屋からでてきたアニを捕まえて、肩を竦めた。
「ひとつだけ、頼む。この者が、ここを動かぬと頑固でな。無理をして倒れられても敵わぬから、シアのベッドのとなりに椅子を用意してやってほしいのだ」
「……はい!?」
「陛下、それは!」
思わず素が出てしまったらしいアニが、目をむいてクロヴィスを見る。だが、慌てたのはクロヴィスとて同じだ。
「私はここでかまいません。姫様の寝室にお控えするなど……」
「お主を一晩この場所にたたせたとなれば、私がシアに怒られてしまう。――お主がシアに忠義が深いことはよく知っている。それだけで、お主を信頼するには十分じゃ」
呆気にとられるクロヴィスの肩をぽんと叩いてから、ジェームズ王はその場を立ち去ってしまった。すると、アニがぱんぱんと両手を叩いた。
「いつまで呆けているのです。ジェームズ王は、あなたにアリシア様をまかせると仰せになったのよ。椅子なら先生が使っていたのがあるから、さっさと中にお入りください」
「いや、私は――」
なおもクロヴィスが渋ると、アニはキッとクロヴィスを睨んだ。
「アリシア様は、私たちには何も教えてくださいません」
クロヴィスは、はっとしてアニを見返した。
「あの方は、何か大きな悩みを抱えています。けれど、それを私たちには悟られまいとしている。あの方がそう望むなら、こっちは気づかない振りをするしかないじゃない」
けど、あなたは違う。悔し気に、侍女はそう続けた。
「きっかけが何かは知らないけれど、あなたを相手にしたときだけ、アリシア様は胸中をさらけ出した。……あんな形だったとしても、私はあなたが羨ましい」
「あの方を苦しめ、憔悴させてもですか?」
「ええ」
つい厳しくなってしまったクロヴィスの問いにも、アニはあっさりと頷いた。
「隠れた場所で苦しんでいる人を見つけ出して抱きしめるより、目の前の人を抱きしめる方がずっと簡単だわ」
なるほどなと、クロヴィスは胸の内で唸った。
あの心優しい王女が、自分のいない場所で同じように苦しんでいたらと考えたら、クロヴィスの心はひどくざわついた。どうせ同じ苦しみを背負わせるなら、手の届く場所で苦しんでくれたほうがよほどいい。
アニの方も言いたいことは済んだとばかりに、廊下の先を指し示した。
「突き当たりの小部屋が、私とマルサの部屋よ。姫様に何かあったら、呼んでください。では、私はこれで」
軽く頭をさげ、侍女は暗い廊下の先へと消えていった。
残されたクロヴィスは小さく息をついてから、アリシアが眠る部屋の扉に手をかけたのだった。




