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姫様が逃げた。
その号令は、またたくまに城を駆け巡った。
「ここのところ、めっきり大人しくなられたと思ったら、姫様ときたら……」
フーリエ女官長は、長々とため息を吐いた。一国を代表するレディが、元気に城を駆け回るなど言語道断なのだ。
それから、手隙の女官と侍女には姫を追うように、それ以外の者も姿を見つけたら最優先に姫の確保にあたるよう指示を出した。
「シアが逃げた? はて、午後は授業がなくなったと聞いていたのだがなぁ」
執務室のたくさん書類がつまれた机で、ジェームズ王はきょとんと首を傾げた。報告を運んできたオットー補佐官は、微笑を浮かべて答えた。
「もとが元気な方です。せっかくのお休みを、羽を伸ばして楽しんでいるのかもしれませんよ」
「よいよい。子供は元気が一番だ。けれど、アンリの鉄仮面は、きっといい顔をせぬだろうなぁ」
「如何にも」
姫を捕まえようと躍起になる女官長の姿がうかんで、2人は思わずにやりと笑った。だがすぐに、筆頭補佐官は笑みを消して表情を引き締めた。
「陛下。あなたはあの方を、アリシア様をどのようになさるおつもりですか?」
「さぁのー。不確定の未来を、ぴたりと言い当てることはできぬ。たとえ私が王で、お主が筆頭補佐官でもな。……お、みよ! シアが走っている!」
とぼけた調子で肩をすくめてみせてから、王は窓の外に興味を示して声をあげた。走り方がかわいい、隠れ方もかわいいと娘に夢中になる王に、オットー補佐官はかしこく頭をさげて、執務室をあとにした。
「アリシア様はいた!?」
「こっちにはいなかったですぅー」
アニとマルサは、王女を探して城を走りまわっていた。すばしっこく逃げ回るアリシアを、ふたりはとっくの昔に見失ったのである。
「厨房は? 調理長がかくまっているんじゃないの?」
「それが、ずいぶん前にきて、お菓子を食べてからどこかに行ったって。そう言うんですよぉ。飲み終わったティーカップもあったし、ほんとだと思いますぅ」
あわあわと説明する相棒に、アニは考え込んで腕をくんだ。
騎士団訓練所に行けば、ひさしぶりに遊びにきた姫様が愛らしかったと、騎士たちがご機嫌に報告してくるし。
書庫にいけば、ちょこちょこと本棚の合間を隠れながら進む王女がほほえましかったと、書庫管理官がほのぼの教えてくれるし。
厨房にいけば、一緒にお茶をしたのだと、ひげ面の調理長が顔をにやけさせるし。
「……なんとまぁ、この城の者はうちの姫様に甘々なんだから」
自分たちのことは棚にあげて頷きあうと、ふたりは再び王女を探して走り出した。
あちこちで匿ってもらったり、歓迎してもらったりしながら、青い髪をなびかせて少女は走る。―――巡り巡った号令は、ついにここにも届いた。
「アリシア様が逃げた?」
「ええ。それで、こちらに姫様はいらしてません?」
息を切らして補佐室にあらわれた女官長の言葉に、対応したクロヴィスは瞬きした。その長身をどけて、補佐室内をのぞきこみながら、フーリエは口早に説明した。
「ああ。あなたは知らないかもしれませんね。姫様は、よくこうして侍女相手に追いかけっこに興じるのです。大抵は、授業を抜け出してのことですが」
「それは、アニ殿より伺いました。しかし、今日の午後はお休みのはずでは?」
「……いらっしゃいませんね。姫様はあなたを気に入ったようですから、こちらにも来るかもしれません。その時は、必ず、あの方を捕まえてくださいね。いいですね」
クロヴィスの質問には答えず、手短に指示を飛ばして、嵐のごとく女官長は去っていく。
置いてきぼりを食らった補佐官の方は、しばらくそわそわと自身の机まわりを動き回っていた。やがて、意を決したように走って補佐室を出ていった。
(よし。追いかけてきている人は、いないみたい)
柱からぴょこんと顔を出して、アリシアはあたりをうかがった。さっきまで、アリシアは探してばたばたと走る複数の足音が聞こえたが、今はそれすらも聞こえず静かなものだ。
アリシアは安全を確認してから、膨らんだ布バックを撫でてほくほくと笑みを漏らした。
調理長や近衛騎士たちなど、しばらく会えていなかった面々は、アリシアをみるとものすごく歓迎してくれた。おかげで、レースのハンカチにくるまれて、焼き菓子が鞄の中ぱんぱんに詰められているのである。
(やっぱり、たまにはみんなのところに遊びにいくのもいいわね)
満足してふわふわと歩くアリシアの心は、すっかり晴れて爽快だった。「ぱぁーっと体を動かしましょう」とマルサは言っていたけど、彼女の言う通りにしてよかった。
……そんな風に、気分よく歩いていたために、アリシアは自分がどこにいるのかに気が付いていなかった。
座れる場所があれば、腰かけて菓子でもつまもうか。そんなことを考えて角を曲がったところで、そこに広がる光景にアリシアの足が止まった。
耳の脇で、心臓がどきんと大きく鳴る。
その時初めて、自分が無意識のうちに、その場所を避けていたことを知った。
「星霜の、間……」
しんと静まり返った回廊に、彫の深い顔立ちをした乳白色の銅像が並び立つ。いっそ無機質といえるほど装飾をしていないため、かえって荘厳であるその場所は、記憶の中にある景色とまったく変わっていなかった。
どきん、どきんと、心臓が早く脈を打った。
息苦しさを感じて、自分がうまく呼吸を吐き出せないことに気付いた。
まずい。
一刻もはやく、この場所を立ち去らなくては。
アリシアが踵を返そうとしたとき、回廊の先に人影が立った。
その人物を目でとらえた途端、アリシアの頭の中は真っ白になった。




