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「ただの一度も、ですか?」
「ええ。おじい様とおばあ様が住む東の離宮にも、私は行ったことがないの。フーリエ女官長が、『王女たるもの、軽々しく城を出て民の前に顔を晒すべきではない』、なーんてことを言うから」
以前、よく家庭教師の授業を逃げ出していた時、アリシアはあっちへちょろちょろ、こっちへちょろちょろと、城内を歩き回っていた。何をしているのかといえば、宮廷騎士の稽古場に顔を出したり、文官の仕事部屋を回って相手をしてもらったりしていた。
人懐っこい性格で、空色の瞳をきらきら輝かせて遊びにくる愛らしい王女に、それはそれは城内の皆は甘かった。慣れている者だと、お菓子を用意して待っていたり、追いかける侍女から匿ってくれたりした。
フーリエ女官長としては、それと同じ気軽さでアリシアが城下に出かけてしまっては、王女として体面が保てないと言うのだ。
「本当のところ、私が城の皆と仲良くしすぎるのも、女官長はあまりよく思っていないの。それに関しちゃ、もう諦めているらしいけれど」
「……宮廷教育の方針に、私は明るくありません。ですが、むしろ私は、君主と民の距離が近いことは好ましいと考えます」
ぽつりと漏らしたクロヴィスは、はっと口元に手をやった。
「申し訳ございません! 出過ぎたことを申しました」
「いいわ。それより、なぜクロヴィスがそう思うのか、教えてくれる?」
興味をひかれて、アリシアが空色の瞳で顔を覗き込めば、クロヴィスは気を落ち着けさせるようにこほんと一つ咳をした。
「――長い目で見た時に、国の力の源となるためです」
涼やかな瞳に町並みをうつし、クロヴィスは先を続けた。
「圧倒的な権力とカリスマで、民を従える王の形もあります。ですが、信頼によって王と民が結ばれ、民の一人ひとりが己の範疇で国をよくしようと動けば、王がたった一人に権威を揮うよりも、ずっと大きな力となりましょう」
「あなたが提言していた、えーっと、”登用制度における、身分格差の撤廃”、だっけ? それを述べたのも、同じ理由?」
前にクロヴィスが提出した、エアルダールの報告書の内容を持ち出すと、若き補佐官は驚いてアリシアをみた。
「まさか姫様も、あれをお読みに?」
「ううん。お父様に頼んで見せてはもらったのだけど、難しくてさっぱり読めなかったわ」
だから、いつかクロヴィスに内容を聞こうと思っていたのだ。そう口にすると、彼はわずかに顔を赤らめた。
「同様の理由です。限られたものだけが知恵を絞っても、王国に新しい風を吹かせることは難しい。--どうせ埋もれるだけの身ならばと、思いの丈をぶちまけた提言でした」
どうやらクロヴィスは、提言によって、王の怒りを買うことすら覚悟をしていたようだ。だが予想に反してジェームズ王は、王国の現状と全くかけ離れた”理想”を興味深いといい、それを提言した二人の若者を好ましいと気に入った。
その器の大きさこそ、自慢の父が賢王と呼ばれる所以だろう。
「王と民の、信頼、か」
アリシアの頭に浮かぶのは、耳にこびりついて離れない、革命の夜に響いた大勢の人々の声だ。松明をかかげ、武器を手に「殺せ」と唱和した彼らとフリッツ王の間には、信頼を築くことは出来なかった。
恐らく、アリシアと民の間にも。
「民は、私のことをどう思っているのかしら」
穏やかな風が吹き、澄んだ空色の髪がふわりと舞い上がった。隣でクロヴィスは、少女の横顔があまりに大人びてみえることに、驚いて目を奪われた。憂いに表情をかげらせて街を見つめるアリシアは、やがてゆっくりと首を振った。
「私は、外の世界がこわい。守るべき、自国の民でさえも」
「アリシア様?」
「だめね。これじゃあ、王女失格ね」
誤魔化して浮かべた笑みは、本人が狙ったよりもずっと弱々しいものになった。髪をなびかせるアリシアの隣で、クロヴィスはもどかしげに唇をひき結んでいた。
「姫様。せっかくのお休みなのに、まーたお勉強ですか?」
クロヴィスと別れ、「どうせなら書庫にでも行って調べ物をしようか」などと考えながら自室に立ち寄ったアリシアは、鉢合わせた侍女ふたりに何故か詰め寄られていた。
「えーっと……、ダメ?」
「「ダメです」」
仁王立ちして前を塞ぐアニとマルサは、声を揃えてきっぱりと否定した。ちなみにアリシアは、ふたりに追い詰められてベッドの上にちょこんと座らされている。
ここは通さぬと肩を並べるメイド2人の顔を交互にみて、アリシアは苦笑した。
「授業を抜け出して女官長に怒られるのは慣れっこだけど、勉強のしすぎで怒られるのは初めてよ?」
「最近のアリシア様は、いくらなんでもこんを詰めすぎです」
腰に手を当てて、アニはやれやれとため息をついた。となりでマルサも、三つ編みを揺らしてうんうんと頷いた。
「お顔はどんどん青ざめていくし、目の下にはおっきなクマまであるし、このままじゃあ、ぱたーんと倒れてしまいますよぉー」
「私の顔、そんなに酷いの?」
「「ええ、割と」」
きっぱりはっきり言い切った2人の侍女に、アリシアはがくりとうな垂れた。2人がアリシア相手に構えずに話してくれるのは嬉しいが、もう少しオブラートに言ってくれないと堪える。主に心に。
「とにかく、今日はもう書庫にむかうのはおやめください。せっかくのお休みです。たまには、気分転換くらいしても罰はあたりませんよ」
「といってもねぇ……」
ベッドに後ろ手に手をついて、アリシアは侍女二人を見上げた。アニがいうところの気分転換なら、さっき風にあたってリフレッシュしてきたつもりなのだが。
すると、「そうですわ!」とマルサが笑顔で両手を合わせた。
「アリシア様といえば、やっぱりあれですよぉ。追っかけっこ! すっかりご無沙汰じゃないですかぁ。せっかくだから、お城のなかぱぁーっと走って、ぱぱぱぁーっと運動しちゃいましょーぅ。きっと、気分もすっきりぱっちり! ですよぉ」
「はぁ? それもダメでしょ」
おっとりと進言する相棒に、アニはジト目になった。
「アリシア様はお疲れなの。お身体が休みを欲していらっしゃるの。追っかけっこだなんて、そんなの言語道断……」
「ううん。ひさしぶりに、思いっきり走るのも悪くないわ」
「姫様~!」
アリシアはぴょこんとベッドを降りると、通せんぼするアニに笑いかけた。
「たしかに、座って本を読んでばかりでは、体がなまってしまうわ。城のみんなも、私があまり顔をださないものだから、お菓子を用意して待っているかもしれないし」
「普通に歩いて回ればいいじゃないですか」
「それだと、スリルがないもの。それに、私を心配するなら、さっさと捕まえてしまえばいいのよ」
「……いいましたね?」
あえて挑戦的に言ってウィンクをしてみせれば、アニの方も不穏な笑みを返した。腕まくりをして仁王立ちし、がらりと雰囲気を変えた侍女に、アリシアは素早く身を翻して二人の脇をすり抜けた。
「アリシア様!」
「姫様!」
「悪いわね。やるからには、簡単には捕まらないんだから!」
その日、「姫様が逃げた!」と城内に号令が響いた。
号令は厨房、騎士訓練所、書庫を駆け巡り、そしてついには――。




