コミカライズ4巻発売記念SS③「補佐官殿のご乱心?」
(明日はいよいよ、エアルダールに向け出立するのね)
すっかり皆が寝静まった深夜遅く。
ハイルランドの美しき青薔薇姫、16歳になったアリシアは、ソファのひじ置きにもたれて、夜空を見上げていた。
視線の先にある夜空は、あいにく小雨を孕んだ曇り空。けれどもそれはかえってハイルランドらしい空で、数日後には遠ざかってしまうことを寂しく思う。
思い出されるのは、やはりというかやりなおし前の記憶。青ざめた美貌の王の姿と、鈍い胸の痛み。
(フリッツ皇子、か)
美しい髪が、はらりと耳から溢れる。
エアルダールの第一皇子、フリッツ・ヨルム。普通に考えれば、彼とも此度の遠征で顔を合わせることになる。
そのことに、不安がないといえば嘘になる。フリッツ皇子と会ったときに自分が抱く感情はなんだろうか。寂寥か、それとも遺恨か。あるいは、そのどちらでもないのか。
だが、行ってみなければ何事も始まらない。新しい未来を切り開くため、ハイルランドを守るため。アリシアは出来うることは何でもすると胸に誓っているのだから。
静かな闘志を燃やし、アリシアはゆっくりと眠りについた――。
――はじめに感じたのは、小さな違和感だった。
ひんやりとした外気が肌を撫で、アリシアは小さく身震いする。それを気遣うように、遅れて何かが肌の表面を滑った。
うっすらと目を開けて、アリシアは形の良い眉を寄せた。
「ここ、は……?」
妙に気だるい体を、どうにかして起こす。頭がぼんやりとするは、辺りに満ちる甘い香りのせいか。頭を振ろうとして、アリシアは自分の右足に枷がしてあることに気づいた。
「え?」
ぎょっとして、アリシアは足首に回された無機質な枷を確かめる。それは重い鎖と繋がっていて、まだ大分余裕があるとはいえ、このベッドからそう遠くに行けないようにアリシアを縛り付けていた。
そもそも、ここはどこなのだろう。
アリシアが繋がれたベッドはふかふかで柔らかく、快適ではあるものの、普段使っているものとは違う。部屋の中だって、ベッドのほかは簡単な椅子とテーブルくらいしかない、殺風景なものだ。
いつのまに、自分はこんな場所へ移されたのか。というより、鎖で繋がれたということは、自分は何者かにさらわれたのだろうか。
そのように、アリシアがサッと青ざめたときだった。
「……どうかしています。こんなもので、貴女を縛り付けるなんて」
「きゃっ!?」
不意に響いた声に、アリシアは文字通り飛び上がった。慌ててそちらを見た彼女は、今度は別の意味で声を上げた。
「クロヴィス!!」
しゃらりと、白い指先で無機質な鎖を撫でるのは、クロヴィスだった。彼は艶やかな黒髪の合間、アメジストを溶かし込んだような美しい紫の瞳で、どこか自嘲めいた視線を鎖に送っている。
いつのまに彼は、アリシアの目の前に現れたのだろう。そう疑問に思わなくもなかったが、アリシアがこの世で最も信頼を置く補佐官の登場に、彼女は一気に緊張を解いた。
「よかった! クロヴィス、私、目が覚めたらなぜか、この場所で繋がれていて……」
「申し訳ありません、アリシア様。すべて、私が悪いのです」
ん?と、アリシアは首を傾げた。自分が悪いというのは、どういう意味だろう。「アリシア様をお守りできず申し訳ありません」という、いつもの彼らしい、忠心からくる発言だろうか。
けれども次の瞬間、アリシアの頭からそんな瑣末な問題は吹き飛んだ。
指先で鎖を辿っていたクロヴィスが、何を思ったかアリシアの足首に到達すると、そこに口付けたからだ。
「――…………ぅえっ!?!?」
一瞬フリーズしたあと、アリシアは弾かれたように飛び上がり、凄まじい速さでベッドの端へと逃げた。
(え? クロヴィス、いま足首にちゅって……え!?)
あまりのことに顔を赤くしたり青くしたりしながら、アリシアはバクバクと鳴る胸を押さえる。するとクロヴィスは、しゅるりと首のリボンを解くと同時に、長い補佐官ローブを床に落とした。
「アリシア様。ようやく、あなたを俺だけのものにできる」
「あ、ああああの!? クロヴィス!?!?」
「ずっと嫌だった。あなたの瞳に、俺以外の男が映るのが」
これ以上は奥に逃げられなくなったアリシアを、クロヴィスがあっという間に捕らえる。慈しむように両手でアリシアを上向かせた彼は、美しい切れ長の目をうっとりと細めた。
(ここここんなの、クロヴィスじゃない!!)
混乱しつつ、アリシアは完璧超人な補佐官を正気に戻そうと、服を掴んで揺さぶった。
「ク、クロヴィス、落ち着いて! なんだかよくわからないけれども、あなたは錯乱してるのよ! はやく目を覚さなくちゃ!」
「俺は前からこうですよ。とっくの昔に狂ってる」
(ひゃあ〜〜〜〜〜っっ!?)
今度は額に口付けられた気配に、アリシアの思考は完全にショートした。
嬉しいけど、喜んでる場合じゃない。こんなクロヴィス、絶対におかしい。どうにかしたいのに、クロヴィスから漂う絡めとるような色気を前に、アリシアは無力である!
「もっと早く、こうしておくべきでした」
眉目秀麗な顔にうっすらと笑みを浮かべて、クロヴィスはアリシアを覗き込む。そして彼は、言葉を失ってパクパクと口を開け閉めするアリシアの頬をそっと撫でた。
「アリシア様。あなたの瞳が映す者も、あなたの姿を映す者も。あなたの声を聞く者も、あなたが声を聞く者も。その手も、肌も、唇も。触れるのを許されるのは、世界中で私だけです」
「クロヴィス……?」
「俺はもう、迷わない」
強く優しく、クロヴィスがアリシアを抱きしめる。
足首にかかる枷が重さを増していく。金縛りにあったように動けないアリシアに、クロヴィスは緩やかに青く美しい髪をよけ、薄い唇でそっと囁いた。
「永遠に永久に。あなたはずっと、俺だけのものです」
「ひゃああああああーーーっ!」
「姫様!?」
がばりと羽ふとんを跳ね上げ、アリシアが飛び起きる。
すると、両脇で侍女のアニとマルサがぎょっと振り返った。
(え、な!? ここ、私の部屋!?)
「な、なんですか、姫様! 急に大声出して」
目に入るのは見慣れたベッドに、見慣れた部屋。いつも通りの朝に混乱するアリシアに、アニが度肝を抜かれたように目を丸くする。その反対側で、マルサも胸を撫で下ろした。
「も〜。びっくりしましたよぉ〜。姫様、寝ぼけちゃったんですかぁ?」
「え? つまり、夢!?」
「じゃなかったらなんだって言うんですか?」
呆れたように腰に手を当てるアニをよそに、アリシアはバッと足元のふとんをめくりあげる。足首に枷が嵌められていないのを見るまでは、どうにも信用できなかったからだ。
けれども、案の定。
(ま、枕が足の上に!?)
寝ている間に、枕のひとつがなぜか中に入り込んでしまい、アリシアの右足に乗っていたらしい。だから重さを感じて、あんな夢を見たようだ。
「ゆ、夢でよかった〜〜〜………」
どっと疲れを感じたアリシアはベッドの上に崩れ落ちる。そりゃ、ほんのちょっぴり、ほんのひとかけらだけ残念に思う気持ちがないわけではないけれども、あんなクロヴィス現実にはあり得ないのである。
へにゃんと倒れるアリシアに、アニとマルサは顔を見合わせた。
「で、姫様どんな夢をみたんですかぁ〜?」
「あんな悲鳴をあげてたんですもの。気になりますよ」
「え?」
ふたりに聞かれて、とっさにアリシアは思い浮かべてしまう。
こちらを覗き込む、仄暗くも熱に満ちた眼差し。うっすらと幸福そうに開かれた唇。肌に触れる、白い指の冷たい温度……。
真っ赤になって、アリシアは首を振った。
「い、言えない!」
「え〜? ますます気になりますよぉ〜?」
「そうですよ、姫様。そーれ、言わなきゃこうです!」
「あ、ひゃっ!? だ、だめ! くすぐらないで! くすぐりはなしだから!?」
それからしばらく、アリシアの居室からはきゃっきゃっと女子3人の声が響いていたけれども。
決してアリシアは、堅い口を開かなかったのであった。