コミカライズ4巻発売記念SS②「照れ隠しのカリイパン」
ジェームズ王の生誕パーティが開かれる、その裏側で。
華やいだパーティとは裏腹に、城に勤める侍女や女官、下男たちは、慌ただしく城内を駆け巡っていた。
「大皿が空いてしまいそうなんですって!」
「料理長がもうすぐケーキをお出しすると言っていましたわ!」
「大変よ! リーンズスからのお客人の一人が、貧血で倒れたの!」
「どうせいつもの仮病だよ! 念のため冷たい水と、温かい紅茶の準備をして。救護室にね、早く!」
「……毎度ながら、ホール担当は修羅場めいてますねぇ〜」
「ほんとにね。ヘルプとはいえ、こっちの配属じゃなくてよかったって思っちゃうわ」
ばたばたとみなが走り回る傍ら。回収したグラスやら小皿やらを厨房に届けたアリシア付き侍女のふたり、アニとマルサは、げんなりと肩を落とした。
ふたりは基本的にアリシアの部屋付きであり、彼女の身の回りのお世話が主な任務である。だから本当はこうしたパーティの日であっても、裏方に回されることはない。
けれども運悪く、給仕担当の下男や侍女数名が、風邪や怪我、ひどい腹痛といった理由でばたばた倒れた。そのため、急遽ヘルプに駆り出されたのである。
「マークスさんが、うっかり古い牛乳のんでトイレから出れないって聞いた時の女官長の顔、やばかったですもんねぇ〜」
「あれはさすがに、お役目終わったんで部屋に戻って待機してまーすとは、言えなかったわよね……」
はあとため息をつき、ふたりは苦笑する。とはいえ、ほかの侍女たちによれば、最大のピークは一応乗り切ったようだ。アニの目にはまだ忙しそうに見えるものの、ほかの侍女たちの間にはホッとした空気が流れている。
壁にもたれてぐったりしていると、ホールのまとめ役の先輩侍女が、ふたりに明るく手を振った。
「アニもマルサも、ふたりともありがとう! こっちはなんとかなるから、ふたりとも持ち場に戻って」
「いいんですか? 私たちまだ働けますよ?」
「いいの、いいの。このままだとズルズル甘えちゃいそうだし、アリシア様が式典を退出するまでに湯浴みの準備とか色々整えなきゃいけないことがあるでしょ?」
だから行って、と。明るく送り出してくれた先輩の好意に甘えて、ふたりはありがたく退出することにした。本当にホール担当の侍女はタフである。
肩を回したりしながら体を労りつつ、二人はアリシアの居室のある城の奥側へとのんびり歩いた。
「どうする? さっきお見かけした感じだと、アリシア様とクロヴィス様、もう少しパーティに顔を出していそうだけど」
「私、お腹ぺっこぺこですぅ〜……。この間街に行ったときに買ったお菓子の残りを食べようと思うけど、アニも一緒に食べません〜?」
「あー……私はいいや。疲れすぎて、何かを食べれる気がしないもの」
軽く笑って、アニはマルサと別れた。
ゆるく結んだ三つ編みを揺らしてご機嫌にかけてくマルサを、アニは苦笑しつつ見送る。お菓子のことを思い出した途端元気になるなんて、ゲンキンな性分だ。
(私なんかもう、本気の本気でクタクタよ)
肩をさすりながら、アニはゴツゴツした城の外壁にもたれた。
ここは回廊の途中にある、中庭への入り口のすぐ脇の、手すりの陰である。式典などにより人が出払っているときはほとんど誰も通らない、随分前から愛用しているお気に入りの休憩スポットだ。
(この場所、姫様がまだ幼いときに追いかけっこで隠れるのに使っていたから、見つけたんだったわね)
昔を思い出して、アニはくすくすと笑う。この場所は人目につかないうえ、中庭の中央にある噴水を眺めることができる。アリシアが好んで隠れ場所に使うのも、納得の快適さだ。
飛び散る噴水の水飛沫の向こう、藍色の空に浮かぶ金色の月を見上げて、アニはほぅと息を吐いた。
仕事仲間はいいひとばかりだし、マルサは相棒としても友人としても信頼してるし、大好きだ。だけど時々、こうしてひとりになる時間が欲しくなる。
心地よい夜風に髪を揺らし、アニが瞼を閉じたときだった。
「見つけた。やっぱりここにいたんだね」
頭の上から降ってきた声に、アニは文字通り飛び上がった。ぎょっとして見上げれば、近衛隊副隊長ロバート・フォンベルトが、回廊の手すりに頬杖をついてこちらを見下ろしていた。
近衛隊一の色男、かつ、神出鬼没度もナンバーワンな男の登場に、思わずアニは叫んだ。
「で、出た!」
「おいおい。出たって、俺はおばけか何かか?」
男前に整った顔をしかめて、ロバートが抗議する。けれどもそんなことで怯むアニではない。地べたに座り込んだまま、彼女は澄ました顔で肩を竦めた。
「だって、そうでしょう。なんであなたが、こんなところで油を売ってるんですか。近衛騎士団はパーティの警護にあたってるはずでしょ?」
「俺一人が油を売ったところで、ガタつくような騎士団じゃないよ。なにせ優秀な副団長が、あらかじめ完璧な警護プランを立てておいたからね」
「それ、自画自賛というやつでは?」
「そっか。副団長というのは、俺のことだったな」
うっかりしてたと、ロバートは悪戯っぽくにやりと笑う。ほかの侍女であれば黄色い声をあげて喜んだかもしれないが、アニはそうではない。
(こんなひとだけど、侍女仲間の人気はナンバーワンなのよねえ)
そこそこ長い付き合いな分、アニはロバートと話していても浮ついた気分になることはない。けれども侍女によっては「私、ロバート様と絶対結婚するワ」と熱を上げる者さえいるほどだ。
こんなところを誰かに見られたら、要らぬやっかみを買いそうだ。想像しただけで面倒くさくなったアニは、しっしと手を払った。
「クロヴィス様に見つかって怒られる前に、さっさと持ち場に戻ってください。さもなくば私から、クロヴィス様に言いつけますよ」
「待てって。つれないなぁ。こっちは君を探して、ここまで来たっていうのに」
「え?」
驚いて、アニは改めてロバートを見上げた。
そういえば彼は、開口一番「やっぱりここにいた」と言っていた。アニを探していたというのは、どうやら本当らしい。
「すみません。私に何か御用でした?」
「大したことじゃないんだけどね。これ、アニちゃんにあげようと思って」
ひょいと目の前に差し出されたそれを、とっさに受け取る。くるりと布で包まれたそれは丸くてずっしりと重みがあり、ほかほかと温かい。
疑問に思いながら布をあけて、アニは目を丸くした。
「これって……」
「カリイパン。クロヴィスに聞いたら、マハーラ国の食べ物らしいよ」
ぐうと思い出したようにお腹がなって、アニは飛び上がった。慌ててお腹を押さえるけれど、カリイパンから漂うスパイシーな香りが食欲をそそって仕方がない。
サクサクした見た目の生地は、もしや油で揚げているのだろうか。思い切りかぶりついたら、どれほどジューシーで美味しいのだろう……。
ごくりと唾を飲み込んだアニに、ロバートはにっと悪戯が成功した子供のように笑った。
「ホールを手伝いに来たとき、食べたそうにこれを見てたでしょ。ちょうど周りに誰もいなかったし、一個くすねて持ってきちゃった」
「わざわざこれを、私に渡すために?」
「まあね。チラッと見えた顔が、結構疲れてそうだったから。それでも食べて元気だしな」
「じゃ!」と。用は済んだとばかりに、ロバートは後ろ手を振って立ち去ろうとする。
その背中に、思わずアニは立ち上がってしまった。
「待って!」
「ん?」
素直に振り返ったロバートに、アニは逆に焦った。とっさに呼び止めてしまったが、これといって何か言いたかったわけじゃない。
いや。もちろんお礼は言いたいのだけど、ありきたりの言葉を伝えたところで、ロバートには「気にするな」と笑って流されてしまいそうだ。
だからアニは、焦るあまり頭に浮かんだセリフをそのまま口にした。
「っ、あなたも食べませんか!」
「俺? いいよ。アニちゃんのために持ってきたんだし」
「ですが、これはロバート様が持ち出したカリイパンです。あなたにも食べる権利があるはずです!」
自分でも何を言ってるんだかわからない。だが、こうなるともはや意地だ。アニはロバートに向けて、ほかほかのカリイパンを突き出した。
「えー……?」
当たり前だが、ロバートは呆れた顔をしている。だが、やがて思い直したようにこちらに戻ってくる。
さては根負けして、一口貰ってくれる気になったのだろうか。そう思ったアニは、カリイパンを一口分ちぎろうとして――指に油が付くのを一瞬躊躇した。
その隙に、ロバートがひょいと身をかがめる。
そして、アニの手から直接、カリイパンにぱくりと食らいついた。
「えっ?」
「ん。うまい」
ペロリと、赤い舌で唇を舐める。はらりとこぼれた長い前髪を耳に掛け直すと、カリイパンを突き出したまま唖然と固まるアニに向けて、ロバートは片目を瞑った。
「ごちそーさん。たしかにいただいたよ」
「なっ、なっ、なっ……!?」
「言っとくけど、捨てるのはなしだぜ? 食べ物を粗末にすると、守護星の加護が無くなるって言うだろ。残さず丸ごと、美味しく食べてくれよな」
笑いながら手をひらりとやり、今度こそロバートは去っていく。
残されたアニは、あまりのことにしばらくワナワナと震えながら、夜の中庭に仁王立ちしていた。
一口分きれいに欠けたカリイパンが、妙に羞恥心を煽る。
なるほど。これが近衛隊のプレイボーイ。
なるほど。これが、人呼んで罪作りな女の敵。
だけど。
(わ、わた。わたしは、ぜったいに……)
両手を震わせ、顔を真っ赤にしながら、それでもアニは負けじと欠けた部分を睨みつける。
ややあって、彼女はぱくり!と。思い切りよく、ロバートが食べたのと同じ場所にかぶりついた。
(ぜったいに、ロバート様に惚れたりしないんだからー!)
なお、それはそれとして。
カリイパンはすごくおいしかったと、後にアニは事の仔細をまるごと省いたうえで、マルサにそれだけを話したのであった。