コミカライズ2巻発売記念SS②「リディ・サザーランドの哀れな苦難」
ハイルランド行政王国行政機関のひとつ、地方院。ドレファス地方院長官を筆頭に仰ぐこの機関は、公爵領や侯爵領など、有力貴族たちが治める領を束ねる組織である。
束ねるといっても、各領は基本的に自治が行われている。そのかわり、各領の収支状況や領民の生活実態、産業の振興具合などを半期ごとに各領主に提出させている。
その、半年に一度の報告の時期がやってきた。地方院には連日、領主、もしくは領主に任せられた代行者たちが代わり替わりに顔を見せ、必要な書類を提出している。
その一人、シェラフォード公爵ロイド・サザーランドが嫡男、リディ・サザーランド。父に代わって報告に訪れた彼は、今しがた文官から聞かされた言葉にあんぐりと口を開けた。
「……は?え、書類が足りない……?」
「ええ、残念ながら」
領主代行として意気揚々と登城した影は、いまのリディにはない。それを気の毒そうに眺めながら、地方院の文官は大きく頷いた。
「本年から新たに増えた項目です。御触れを出しましたが御覧になりませんでした?」
「触れ……? いいや、見た記憶は……」
「ひと月ほど前、文でご領主宛にお送りしております。今回の報告の期限を知らせる文に同封していたのですが」
「……あれか」
嫌な予感がして、リディは顔をひきつらせた。その手紙なら目を通した覚えがある。
報告期間が例年と大差ないのだけ確認をして、あとはさらりと流し見をした。まさか、そんな重要情報が記載されていたなんて。
(せっかく父上に任せてもらえたのに、こんな失敗をしてしまうなんて……!)
リディは青ざめ、内心頭を抱える。今年の報告は、将来に向けた練習としてリディが主になってまとめたものだ。もちろんロイドも目を通しているが、漏れがあったのはリディの責任である。
張り切っていただけにショックも大きい。だが、文官は慣れたものだ。おそらく他にも、手紙に目を通さず書類が漏れてしまう領主がいたのだろう。軽く首を傾げて、彼は速やかに解決策を提示した。
「幸いにして、追加項目はそう難しい内容ではありません。検分させていただいたものから察するに、すぐにご用意いただけるでしょう」
「な、本当か!」
「ええ。ひとつ問題があるとしたらご領主様のサインが必要ですが、些末な問題です。幸い報告期限まで20日ほど猶予があります。一度お戻りいただいて書類をそろえていただき、改めてご送付いただければ問題ないでしょう」
「え、あ、僕、いや、私のサインじゃだめなのか?」
喜んだのもつかの間、リディは慌てて尋ねる。せっかく王都くんだりまで来たのだ。しかも尊敬する父に任されて。なるべくなら父に知られず、すべてを済ませて帰りたい。
だが、そんなリディの期待をよそに、文官は難しい顔をした。
「失礼ですが、ロイド様は病に伏しておられますか?」
「い、いや」
「では隠居をされて、リディ様に全権を委任されるご予定が」
「そうではないが、僕は父の跡継ぎで……」
「存じております。ですが、いまのご領主はロイド様です」
なだめるように文官は小首を傾げた。「あ、待って……」と食い下がろうとするリディをよそに、話は終わったとばかりに彼は立ち上がった。
「恥じる必要はありません。よくあることなのです、ご経験を積まれた領主様であっても。お父君様のサインまでいただいたら、またご提出ください。それでは」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! これは? ほかのものは、不備がないんだろう!?」
慌てて呼び止めれば、文官はちらりとリディの手元を見る。そこにまとめられた書簡を一瞥してから、彼は肩をすくめた。
「すべてがそろったら、一緒にご提出ください。そのほうが確実ですから」
「は!? いやいやいや! せめてこれだけでも受け取ってくれ!」
そうでないと、王都に足を運んだのがすべて無駄になってしまう。そのように悲壮な顔をするリディに、文官は一度足を止めて優しく告げた。
「ご安心ください、リディ様。よくあることですよ」
「――――と、いうわけなんだ」
数分後。リディはまだエグディエル城にいた。
意気消沈して俯くリディ。その向かいで困った顔をしているのは、サザーランド家に仕える従者アルベルトだ。リディが文官と話す間、従者控室で彼の帰りを待っていたのだが、青い顔をして戻ってきたリディに柱の陰に引っ張られ、事の次第を知ったのだ。
目の前にいるリディは、明らかに落ち込んでいる。そんな彼を刺激しないように、アルベルトは注意深く言葉を選んだ。
「……それは、難儀なことですね」
「だろう!? たったひと項目抜けただけなのにすべて受け取ってくれないなんて、いくらなんでもひどすぎる!」
頭を抱えてリディが嘆く。たしかにその点は、アルベルトも気の毒に思った。
だが、元はといえばこの定期報告、送付での提出でもまったく問題がないのだ。万が一不備があったら……という懸念もなくはないが、わざわざ登城している領の大半が王城と顔つなぎをするため。こうして文官とやり取りができた時点で、目的の半分は達成したといえる。
手のかかる坊ちゃんを慰めるべく、アルベルトは優しく声をかけた。
「早くに気付けただけ、よかったではありませんか。お屋敷に戻りましょう、若旦那様。どうするかは、それから考えましょう?」
若旦那様、の部分を殊更強調する。そうすれば、リディは大抵機嫌がよくなる。
そうだ。文官の言うように領に戻ってから後日書類を送付してもいいし、どうしても自らの手で提出したいというなら、出来上がったものを一度領に送ってロイドにサインだけしてもらい、改めて王都のサザーランドの屋敷に送り返してもらえばいい。第三者の手で運ぶのが心配というなら、アルベルトが早馬でかけても構わない。
やりようはいくらでもある。そう慰めるつもりで、アルベルトは声をかけたのだが。
「若旦那……、はは、そうだよな。うん、僕はサザーランドの跡取りで、領主代行だ」
なにやら呟きながら、リディが頷く。アルベルトが狙ったのとは少々違う形で、元気づけてしまったらしい。アルベルトが一抹の不安を感じたそのとき、リディはくるりと背を向けた。
「よし! もうひと踏ん張り、粘ってくるぞ!」
「え!? は、あの、リディ様!? 粘るって何を!?」
「案ずるな、アルベルト! 僕はサザーランドを継ぐ男だ! これしきの逆境に負けてなるものか!」
(いやな予感しかしないんですが!?)
口から飛び出しかかった言葉を、なんとかアルベルトは飲み込む。下手なことを口走れば、リディの機嫌は途端に急降下する。といって、このまま彼を行かせてしまってよいのだろうか……?
――そんなアルベルトの不安をよそに、リディは再び地方院の扉を潜り抜ける。入ってすぐ、先ほどの文官を見つけてリディは胸を張った。
「おい! そこのお前!」
「――おやおや。リディ・サザーランド様、お早いお戻りで」
顔を上げた文官は、驚くことなく頭を下げる。そんな彼につかつかと歩み寄ると、リディは芝居がかった仕草でひらりと手を振った。
「ひとつ、大事なことを忘れていた。さっき、領主のサインが必要だと言ったな」
「ええ。そのように申し上げました」
「残念ながら、問題発生だ。父上はいま、サインができないんだ」
「おや。それはどうしてです?」
胸の前で手を組んで、文官が首を傾げる。それに対し、リディは大袈裟に溜息をつきながら肩をすくめた。
「それが……領主ロイドは、いま利き腕を負傷していてな」
「なんと!」
「ちょうど、私が自領を出る日の前日だったか。気の毒に、しばらくは羽ペンを持つどころか、日常にも支障をきたすだろうな。杖も持つこともかなわないだろう」
「それはそれは。ご難儀でありますな」
眉尻を下げて、同情するように文官は頷く。しめしめ、と。笑みが浮かんでしまいそうになるのをなんとか堪えて、しおらしくリディはつづけた。
「そういうわけで、領主のサインを用意することができない。そういった場合、領主に次ぐ代行者のサインをもってして公的文書を受け取ってもらえると記憶しているが」
「ええ。おっしゃる通りですとも。そういうことでしたら、仕方がありませんね」
「! そうか!」
今度こそ、リディは笑みが浮かんでしまった。声を弾ませ、リディはいそぎ部屋を出ようとする。
「そ、そういうわけだからな! すぐに書面を用意して、明日には持ってくるぞ!」
だが、己の機転を喜び退出しようとする彼を、文官が呼び留めた。
「……ところで。ロイド様のお怪我、心配でございますねぇ」
「ん? ん、ああ。そうだな」
すぐにでも準備にかかりたいリディは、焦れながらも足を止める。すると文官は、窺うようにリディの顔を覗き込んだ。
「私も、長くロイド様のことは存じ上げているのですよ。日常生活にも支障が出るほどの大怪我とは……腕が折れてしまったのでしょうか」
「あ、ああ。そんなところだな」
当然嘘であるので、リディは目を泳がせるしかない。そこを突くように、文官はさらにずいと身を乗り出した。
「それはいけません! すぐに長官に報告を上げ、見舞いの品を送らせていただきます」
「は!?」
仰天して、リディは思わず声を裏返した。見舞いの品など送らせるわけにいかない。慌てて彼は、ぶんぶんと首を振った。
「い、いや! それには及ばないぞ!」
「そうは参りません。ロイド・サザーランド様といえば、枢密院に名を連ねる重鎮中の重鎮です。そのような方が大怪我をされたというのに、地方院として黙っているわけにはまいりません」
「心遣いには感謝するが、何もそこまでしてもらわなくても……っ!」
「いいえ。かつてドレファス様が足を滑らせ大怪我をした折、陛下に次いで早く見舞いの品をお送りくださったのはロイド様とお聞きしております。いただいた恩は返す。それが人の繋がりというものです。それではリディ様、また明日に」
「ちょ、ちょちょちょちょ、待った!!」
くるりと背を向けた文官を、リディは必死に引き留めた。不思議そうに振り返った彼に、リディは目を泳がせながら肩をすくめた。
「い、いや……。怪我をしたといっても、そこまでの大事ではないんだ」
「おや。先ほどは生活に支障が出るほどだと」
「強く手を打ち付けたんだ!」
焦ってこたえると、くいと文官の眉が上がる。
「つまり、打ち身をされたと?」
「そ、そうだ。しばらく痛みが続くが、休めば治る。その程度の怪我で、見舞いの品を送っていただくわけには……」
「そうですか。それはよかった」
一転してにこやかに文官は答える。次に続いた言葉に、リディは顔をひきつらせた。
「でしたら、報告期限までにサインも間に合いそうですね。ではリディ様。改めて、提出のほどお待ちしております」
優雅に扉を手で示した文官に、リディは言葉をなくす。ややあって、彼の掌の上で踊らされていたことにようやく気付いたリディは、瞬時に頭を沸騰させた。
「お、お前、わかっていて乗ったな!!??」
「なんのことでしょう。私はただ、ロイド様のお怪我を案じただけですが」
「よくも僕を謀ったな!? いいか、僕はサザーランドだ!! 僕が公爵になったら、この借りは必ず返してやるぞ!!」
「それはそれは、楽しみにしております」
あくまで丁寧に微笑み、文官は出口を指し示す。最後に彼は、こう付け加えた。
「いいですか、リディ様。こういうことも含め、よくあること、なのですよ」
「若旦那様!」
リディは大丈夫だろうか。そのように地方院の扉の前でそわそわ歩き回っていたアルベルトは、リディが戻ってきたのをみてホッとする。
だが駆け寄ったアルベルトは、リディの表情がさっきよりもずっと暗く――機嫌もテンションも比べられないほど急降下していることに気付く。
あ、これは悪い方に話が転がったな。
アルベルトが否応もなく察したその瞬間、リディが低く呻いた。
「……帰る」
「は、はい」
「寄り道はなしだ。さっさと帰りたい」
「……はい」
ぐすん、と。うつむいたリディから鼻をすするような音がした気がしたが、アルベルトは敢えて触れることはしなかった。
尚、この小一時間も立たないうちに、リディとアルベルトはとある人物と街中で奇跡的――かつ不幸な再会をすることになるのだが。
それはまた、別の物語である。