コミカライズ1巻発売記念SS 逸る想いと、幸せな時間
王室補佐室の筆頭補佐官、ナイゼル・オットー。その机に、いくつかの書類の束が丁寧に差し出された。
「ナイゼル様。ハーバー侯爵領の過去2年の税収、こちらにまとめています」
「モーリス侯爵領のこの春の大雨の記録はこちらに」
「地方院より新たな嘆願書が。こちらを補足資料としてご利用ください」
「助かるよ、クロヴィス。ありがとう」
柔らかく微笑んだオットー補佐官に、クロヴィスは恭しく一礼。麗しき新人の補佐官が席に戻る傍ら、一連を眺めていた先輩たちは感心して溜息をついた。
「すごいな、クロヴィスの奴」
「一体、ひとりで何人分働いているんだ」
「ていうか、ナイゼル様も仕事しすぎだろ。まあ、クロヴィスがものすごい勢いで雑件を処理しているおかげで、ナイゼル様も手間が省けているんだろうけど」
そんな風に先輩たちが半分感服、半分呆れる中、クロヴィスは与えられた席に戻る。補佐室が抱えている急ぎの案件は、あらかた手を回せた。あとは、二か月後に控える式典に向けて昨年の資料を確認するのと、それから……。
そこまで考えたとき、クロヴィスはふと、床に差す影が長いことに気づいた。はっとして顔を上げれば、空はいつの間にか茜色。彼は慌てて、がたりと立ち上がった。
「すみません、ナイゼル様!」
「本当だ。もうこんな時間なのだな」
窓の外を一瞥してオットー補佐官は微笑む。それからわずかに焦りをのぞかせるクロヴィスに、優しく頷いた。
「行っておいで。主人をあまり、待たせるものじゃない」
「ありがとうございます」
一礼をして、クロヴィスは身をひるがえす。いそいそと補佐室を出ていく背中を見送りながら、先輩たちは伸びをしたり、肩を回したりした。
「そうか。あいつは、アリシア様に夕方の報告があるんだったな」
「いいよなあ。アリシア様とお茶飲んでお話しするんだろ? 楽しそうだよなあ」
「俺も一日一回、アリシア様と話して癒されたいぜ」
「まあ、けど」
ひとりの補佐官が、悪戯っぽく笑った。
「ほんと、嬉しそうに報告に行くよな、あいつってさ」
噂をされているとはつゆ知らず、クロヴィスは足早に廊下を歩いていた。
逸る気持ちは、いつもより補佐室を出るのが遅くなってしまったから――だけではない。
〝お疲れさま! また明日ね〟
別れ際の彼女の声が、耳に蘇る。その声を早く聞きたくて、その笑顔に会いたくて、クロヴィスはいそいそと、彼女の部屋へと向かう。
〝今日はどうだった? 何か面白いことはあった?〟
彼女が必ず尋ねる問い。それにクロヴィスは、小さく頷く。
今日は先輩の後について、地方院に足を運んだ。ドレファス長官に会い、肩を勢いよく叩かれた。痛かった。けれども豪胆な人柄は心地よい。そう思える人物だった。
ナイゼル様は、今日も張り切っておられた。先日のお休みにご息女と出かけられたのが、いいリフレッシュになったそうだ。エラム川のほとりの花々が大層見事で娘が喜んだのだと、顔をほころばせて話されていた。
それから、先輩の奥方が身ごもったことが分かった。先輩は大層幸せそうで、終始笑み崩れていた。温かな空気が補佐室に流れ、自分も幸せな心地になった。
それから。
それから。
楽しそうに耳を傾ける彼女を想像し、クロヴィスはそっと微笑んだ。
ここでの日々は充実している。そう思えるのは、彼女が居場所をくれたから。
だから彼は、精一杯に言葉を紡ぐ。楽しかったこと、興味深かったこと。愉快だったこと、驚いたこと。目の前に広がる鮮やかな日々を描き出し、心の中でこう叫ぶ。
あなたがくれた世界で、私はとても幸せです、と。
「どうぞ中へ。姫様がお待ちです」
クロヴィスが戸を叩くと、待ち構えていたように扉が開き、侍女が中へと招き入れてくれる。目に飛び込んでくるのは、ソファに座る小さな背中。ぴょこんと空色の髪が揺れて、彼女は元気よく振り返った。
「こんにちは、クロヴィス。待っていたわ」
明るい空色の瞳が、きらきらと輝いて自分を見上げる。愛らしい顔いっぱいに笑みを浮かべて、彼女は無邪気に問いかけた。
「座って、座って。それで、今日はいったいどんな一日だったのかしら?」
予想した通りの流れに、クロヴィスの表情も自然と緩む。
――今日という日を、どんな風に伝えよう。どんな風に伝えたら、あなたは笑ってくださるだろう。
あなたの笑顔がはやく見たくて、私は急いでやってまいりました。
「はい、アリシア様」
補佐官らしく胸に手を置いて、クロヴィスは恭しく一礼。それから彼は、にこりと美しい笑みを浮かべた。
「今日もたくさん、あなたにお話ししたいことがございます」
――彼の幸せな時間は、まだ始まったばかりだ。
2020年6月12日(金)青薔薇姫のやりなおし革命記 コミカライズ版1巻発売です!




