4-4
「アリシア様がお疲れなのは、勉学によるものでしたか」
「姫様の場合、今までの怠け癖が祟ったのです」
すかさず入った侍女の容赦ない突っ込みに、アリシアは愛らしい唇を突き出し「むー」とうなった。それには、クロヴィスも苦笑を浮かべた。
ちなみに初めの頃、侍女があまりに口が正直であるため、「主人を蔑ろにしている」と判断したらしいクロヴィスが途端にアニに向け黒いオーラを放ち、アリシアはあわてた。
アリシア自身が彼女を姉のように慕っていること、アニの口が正直なのはアリシアを真に思う故だと何度も説明し、若き補佐官はようやく納得した次第である。
「クロヴィス卿はご存知ないでしょうが、アリシア様の勉強嫌いは有名でしたのよ。「姫様が逃げた!」を合図に、私共侍女が総出で姫様を追いかけたりして……。ま、クロヴィス卿がいらっしゃる前のことですけれど」
「左様ですか。ですが、聡明なアリシア様が勉学の重要さに気がつかれ、真面目に取り組まれるのは当然のことです。ええ、付き合いの短い私でも、すぐにそのように推察できますよ」
……アリシアの信頼する従者二人が、満面の笑みをうかべたまま舌戦を繰り広げているが、これも早速見慣れた光景ゆえアリシアは気にしないことにした。
「しかし、なるほど。今までの背景がわからないため、新たな知識も頭に入らないということですか」
何やら思案しながらクロヴィスは立ち上がると、アリシアの机から分厚い本を取り上げ、ぱらぱらと内容を確認し始めた。長い足をクロスさせ、窓に身をもたれて本をめくる様は妙に色気があり、まるで絵画のモデルかどこぞの王族のようである。
余談だが、クロヴィスがアリシア付きとなってからというものの、城勤めの女たちが非常に色めき立っている。特に若い女官なんかは、用もないのに補佐室の周りをうろついてきゃあきゃあ騒ぎ、女官長の頭痛のタネになっていた。
(もうちょっと仲良くなったら、ぜひにも恋愛事情なんかも聞き出してみたいものだわ)
顔だけは大真面目を装いながら、アリシアはそんなことを密かに決意した。
さて、クロヴィスが目を通している書物は、様々な記録を元にまとめられた王国の歴史書だ。細々とした字で綴られたそれを軽い調子で目を通してから、黒髪の青年は顔を上げて口角を持ち上げた。
「家庭教師殿には及ばないものの、歴史や時事に関する事柄でしたら、このクロヴィスが姫様の力になれるかもしれません」
本当に!?と勢い込んだアリシアに、クロヴィスは微笑をうかべて頷いた。
「一通りの知識は、王立学院で叩き込まれました。書物に沿って内容を補足する程度であれば、お力添えできましょう」
「クロヴィスが助けてくれるなら、これほど心強いことはないわ。ね、アニ!」
「ソウデスネ」
なぜか棒読みで返事をした侍女は置いておいて、さっそくアリシアは頼れる家庭教師と化した補佐官に、あれこれと質問を重ねるのであった。
暗く、暗く。
底のない、冷たい海の中に浮かんでいるような孤独の中。
全身にまとわりつく水の感触は重く凍えて、小さな体から力を奪い取っていく。息が詰まり、アリシアが口を開くと、かぽりと音がして空気の泡が零れ落ちた。
ここはどこだろう。
ジェームズ王は、フーリエ女官長は、アニは。
みんな、アリシアを置いて、どこに行ってしまったのだろう。
揺らめく水の壁の向こうで、オレンジ色の光がゆらりと揺れた。それはみるみるうちに広がり、決して熱を伝えないまま、アリシアを取り囲むように輪になる。
“殺せ、エアルダールの犬を殺せ”
“ハイルランドの誇りを、穢すものを殺せ”
大勢の人の声が、揺らめく炎に合わせて水の中を反響する。
寒い。怖い。聞きたくない。
身をよじって耳をふさぐが、遠い合唱は水の中を何層にも反響を重ねて、アリシアの耳から離れてくれない。
ふいに周囲の水の濃度があがり、どろりとした憎悪がアリシアを覆いつくした。空色の瞳を怯えさせてアリシアが顔をあげると、どす黒く渦巻く怒りと憎しみを燃え上がらせ、クロヴィス・クロムウェルがそこにいた。
アリシアの細いのどから、悲鳴がこぼれる。だがそれは、新たな気泡を生むだけで音にはならない。
今にも泣き出しそうな笑みも、褒められて照れた顔も見せることなく、ただ黒き死神として、クロヴィスはどこまでも冷徹にアリシアを見据える。その手に鈍く輝く剣が握られているのを見て、アリシアは逃げ出そうとした。
だが、アリシアを捕らえるどろりとした水はつかみどころがなく、もがけばもがくほどその場に王女を縫いとめる。気が付けば、黒き死神は目の前に立ち、蔑みをこめてアリシアを見下ろしていた。
やめて、クロヴィス。
その手が剣を振りかざすのを見て、アリシアの大きな瞳から涙が零れ落ちた。だが、王女の悲痛な懇願は、死神の耳には届かない。
紫の瞳に憎悪を燃やし、クロヴィス・クロムウェルは剣を振り下ろした。
「――――やめて!!!」
寝室に響いた悲鳴に、アリシアの意識は覚醒をした。
幼い少女の薄い胸は激しい動悸のために上下を重ね、額も背中も、全身いたるところからどっと汗が拭き出している。荒い息を吐き出しながら億劫な体を起こし、乱れた髪ごとアリシアは額を押さえた。
同じ悪夢にうなされるのも、自分の悲鳴に目を覚ますのも、もうこれで何度目であろう。
「……アリシア様?」
控えめなノックの音と共に、扉越しに侍女の声がしたことでアリシアははっと息を呑んで薄い木の板を見つめた。
「……どうしたの、アニ。こんな遅い時間に」
深呼吸を繰り返してから、どうにか声だけは平静を装うことに成功した。軽い調子の問いかけに、扉の向こうで侍女はしばし沈黙をした。やがて、幾分か柔らかさを取り戻した声で、アニは答えた。
「偶然に前を通りかかったところ、姫様の声が聞こえた気がして。何か、飲み物を用意しましょうか?」
「ううん。大丈夫。アニもぐっすり休んで」
「かしこまりました。おやすみなさい、姫様」
足音が遠ざかり、侍女が離れていく気配がする。彼女が十分に遠ざかったのを確認してから、アリシアはぐったりとベッドに身を横たえた。
毎日だ。星の使いと言葉を交わした、その翌日から、毎日同じ悪夢を見るのだ。
悪夢は10歳の少女の精神をガリガリと削り疲弊させたが、それ以上に、アリシアは夢の内容が腹立たしかった。
(ごめんね、……クロヴィス)
歴史書を並んで覗き込みながら、アリシアがつまずくたび、噛み砕いた解説を加えてくれた秀麗な横顔を思い出す。
まだ、ほんの短い期間しか付き合いのない従者であるが、思いの外アリシアは黒髪の新米補佐官に対して情が湧いてしまったらしい。何度、前世の凄惨な出来事を突きつけられても、目が覚めれば、精一杯自分に尽くそうとしてくれる姿の方が瞼に浮かぶ。
クロヴィスは特殊な身の上であったためか、アリシアがその手を取ることを決意した以上に、自分に深い忠誠を誓ってくれている。それほどに信頼を寄せてくれる相手を、アリシアが信じてやらなければクロヴィスが不憫だ。
(大丈夫、未来は変えられる。変えられる。変えられる。変えられる)
瞳を閉じて、悪夢のたびに唱える文言を、今日もアリシアは何度もなんども言い聞かせるよう繰り返した。




