19-2
「いったい、どこに行かれるのですか」
後ろを歩くクロヴィスが、アリシアに問いかける。彼が疑問に思うのも無理はない。外を歩こう。そう彼女が言うものだから、てっきりクロヴィスは庭を散歩するものだと思った。しかし、彼女は庭をまっすぐに通り抜けただけで、さっさと城内に戻ってしまったのである。
ふたり分の足音が、静かな回廊に響く。いくつかの曲がり角を越え、階段を降り、たどり着いた先でクロヴィスは切れ長の目を瞠った。
「ここは……」
「星霜の間よ」
足を止めたアリシアが、くるりと振り返る。青い髪が揺れた向こうに、灰色の像がいくつも立ち並ぶ道が奥へと続くのを、クロヴィスは見た。
形の良い眉を寄せて、クロヴィスは主人に問いかける。
「なぜここへ? ……お言葉ですが、この場所は」
「前世で、私が死んだ場所。――私が、あなたと初めて出会った場所。だからよ」
だから、ここに来たのだと。アリシアがもう一度そのように繰り返すと、補佐官は主人の胸のうちを探ろうとするようにじっと彼女を見つめ、それから改めて星霜の間へと視線を映した。
星霜の間。ハイルランドの歴代王、そして聖人たちの姿が並ぶ場所。まさしく、この国の歴史と威厳が濃縮されたような、神聖なる空間。
この場所がすべての始まりだった。
「あなたはとても、恐ろしかった。怒りと憎しみ。そして、憤り。あなたはそれらを、容赦なく剣に込めた。――式典であなたの姿を見たときは、心臓が止まるかと思ったわ。まるで、黒い死神。本当に、そう見えたの」
光が満ちる、大ホールの中央。艶やかな黒髪が揺れて、整った白い面差しと、印象的な紫の瞳がゆっくりと上を向く――。
そのとき感じた震えを、今でも鮮明に覚えている。
「けれど、去っていこうとするあなたを見て、どうしても放っておけなかった。だから、あなたに手を伸ばした。……あなたを補佐官にすると決めたことは、私がもっとも誇れる決断よ。おかげで私は、多くを学んだわ。己の愚かさや、目指すべき道。そして、愛すらも」
はっと息を飲み、クロヴィスが顔を上げる。その視線のさきで、アリシアは苦笑した。
「気づいてなかったの? そうよね。私は子供だったし、あなたに熱い視線を送る女性は大勢いた。それに私は、自分の心に蓋をした。だってそうでしょう? 私には、前世の過ちがある。やりなおしの生をやり遂げるまでは、誰かを愛する資格はない。そう、思ったから」
「すると、あなたは……」
「ええ。ずっと前から、あなたを――クロヴィスを、愛している。あなたが想像もつかないくらい、長い間」
紫の目が大きく見開かれ、唇が驚きのために薄く開かれる。ややあって彼は、視線を逸らし、不服そうに腕を組んだ。
「……そのくせあなたは、私を拒みましたね」
「あなたを、死なせたくなかったの」
けれども、その選択は間違っていたと。苦々しく、アリシアは続ける。
「前世の恐怖より、私はみんなと、あなたと、一緒に歩んできた今を信じるべきだった。その過ちのせいで、あなたを、深く傷つけてしまった。許してほしいなんて、そんなこと言えない。けど、お願いよ。もう一度チャンスが欲しい。もしあなたが受け入れてくれるなら……っ‼」
「私が受け入れるなら、ですか。随分と控えめで、中途半端な要求ですね」
遮られた声に、アリシアは言葉を失った。恐る恐る前を見れば、クロヴィスは腕を組んだまま、どこか呆れたような顔をしてアリシアを見下ろしていた。
「では問いましょう。私が嫌だと言えば、あなたは諦めるのですか。初恋は綺麗なものとして封印し、心を殺して、またどこぞの王族でも伴侶として迎えるつもりですか」
「そんな……だって……」
「残念ながらその程度の覚悟では、見通しが甘いとしか言いようがありません」
容赦のない言葉が突き刺さり、息苦しさと鋭い痛みがアリシアの全身を駆け巡った。
何も言うことが出来ず、アリシアは力なく俯く。大きな瞳にみるみるうちに涙が溢れ、視界が歪んでいく。ついにそれが零れそうになったときに、溜息がひとつ聞こえた。そして、大きな手が彼女の頭にぽんと置かれた。
「まったく。これでは俺が、あなたを虐めているみたいだ」
「クロヴィス……?」
「仕方がない。あなたに手本を示してごらんに入れましょう」
そういうと、彼は補佐官用の長いローブの下からいくつかの書状を取り出した。突然のことにぱちくりと瞬きをするアリシアの前で、彼はまず一つ目の紐を解いてくるくると開き、アリシアに差し出す。受けとったアリシアは、署名の主を見て「えっ」と声を上げた。
「これは何?」
「ジェームズ陛下の王命です。『我が娘、アリシアの夫に、クロムウェル家のクロヴィスを迎える』。そう、補佐室へと御触れが出ています」
「はい?」
「まだあります」
唖然とするアリシアに、クロヴィスは次々に書状を渡していく。
「こちらは王命を受けて、補佐室が枢密院へ交付した書状です。そしてこれが、枢密院からの合意の返書。……まったく、抜け目のない方だ。ジェラス公からはさらに、ホブス家として婚礼の儀を支援するとの申し出が来ています」
「え? ええ?」
「最後はこちら――エリザベス帝からです。『皇帝エリザベスは王女アリシアを次期ハイルランド王として支持し、また彼の者が定めし夫もまた、二国の友好をもたらす者として歓迎する』。加えて彼女は、これからの二国の外交窓口に、要望として私の名を挙げています」
ついにアリシアは、ぽかんと口を開いたままその場に棒立ちになった。彼女の空色の瞳は、まず渡された書状を一通り追い、それから余裕を滲ませるクロヴィスへと向けられた。
「いくつか聞きたいことがあるのだけど」
「ええ。かまいません」
「これらは、いつ用意したの?」
「もちろん帰国してから。といっても陛下のものは、お頼みするより先に出てきましたが」
「エリザベス帝からのものは?」
「届いたのは昨日です。しかし、話を通したのは帰国前。囚われの身であったエリザベス帝を味方に引き込むために、ミレーヌ殿へと乗り込んだ際に」
「あのときに話したの!?」
仰天して、思わず声が裏返る。するとクロヴィスは少しも悪びれる様子なく、軽く肩を竦めた。
「エリザベス帝はすぐに頷きました。当然です。リディの件でフリッツ皇子を糾弾しないと誓ったばかりか、あの方の留学先まで工面すると約束して差し上げたのですから」
再び言葉を失って、アリシアはまじまじとクロヴィスを見上げた。対するクロヴィスは、大真面目に「仕方がないでしょう」と続けた。
「あなたを手に入れるには、確実な方法で外堀を埋める必要があった。国内は陛下の御言葉があれば問題ないとはいえ、諸外国に横やりを入れさせないためには、エリザベス帝の書状がもっとも手っ取り早い方法だったんです」
「けど、さすがに大袈裟すぎない……?」
「あなたを逃がさないためなら、どこまでいってもやりすぎというものはありません」
ぐっと抱き寄せられ、アリシアはクロヴィスの胸に手を突いた。戸惑う彼女を、秀麗な面差しが真剣に見下ろす。愛おしむように青く美しい髪をゆっくりと撫でてから、クロヴィスは再び口を開いた。
「以上が、俺の覚悟です。――もう一度、チャンスを差しあげましょう。あなたは、俺をどうしたい。あなたは、俺とどうなりたいんですか?」
「答えて、アリシア」と、クロヴィスが耳元で囁く。いつもより近くで響く声は低く、そしてどうしようもなく甘い。背筋に震えが走るのをなんとか堪えて、アリシアはそろそろと顔を上げる。空色と紫。ふたつの眼差しが交わり、彼女の頬に朱が浮かんだ。
「わ、私は……」
答えを待つクロヴィスを見上げて、アリシアは思う。
運命というのは、なんと数奇なものだろう。
取り戻した記憶のなかで、彼をどんなにか恐ろしく思ったことだろう。それがいつの間に頼もしい味方となり、かけがえのない友となり、愛おしい想い人となった。
大好きで、誰よりも大切な人。
相手にとって自分も同じとなれたら、何度胸に焦がれたことか。
「私は、あなたの唯一になりたい」
手を伸ばし、アリシアは彼の白い頬にそっと触れる。そのまま頬を包み込むと、クロヴィスの切れ長の目がゆっくりと瞬きをした。
「もう、絶対に手を離さない。あなたにも、離して欲しくない。お願いよ、クロヴィス。補佐官としてじゃない。クロヴィス・クロムウェル。あなた自身のすべてを、どうか私に……」
クロヴィスが身を屈めて、アリシアの唇を奪う。柔らかく、温かな感触はどうしようもなく心地よく、泣き出したくなるくらいに優しかった。
「逆ですよ」
唇を離したあとで、クロヴィスはアリシアの背に手を回した。抱きしめられた腕のなかで、アリシアは不思議と、少し早い彼の鼓動を感じた気がした。
「俺のすべては、すでにあなたに捧げています。――今度は俺が、あなたを奪う番だ」
アリシアが瞼を閉じる。その頬を、ひと滴の涙が滑り落ちた。
ああ、そうだ。6年前、アリシアがその手を摑み、彼が答えてくれたあの日から、ずっとふたりはゴールを探して歩いてきた。
その道は険しく、暗く、霧に満ちていた。ときにひどい嵐に見舞われ、苦しみ、そして悲しみを経験した。けれども、彼が決して手を離さずにいてくれたから、アリシアは足を止めずに進んでこれた。嵐を抜けた先には必ず光があり、その美しさをふたりで喜びあった。
そうして今、ふたりは新たな草原にいる。
ここはどこまでも自由で、どこまでも不自由だ。生い茂る草に覆われた地には道はひとつもなく、同時に、いくつもの道が隠れている。決められたゴールもない。行く先も、道も、どこに足を踏み出すかすらも、すべてが探索者にゆだねられた世界。
だけどクロヴィスが一緒なら、そんな世界も怖くない。
草原を抜けた先にはきっと、見たこともない素晴らしい星空が広がるはずだ――。
首の後ろに手を回すと、彼がほんの少しだけ顔を持ち上げた。甘い熱がゆらゆらと揺れる紫の瞳を、アリシアはまっすぐに見つめる。そして、小さく息を吸い込んだ。
――――よろこんで、と。
その答えを聞いたクロヴィスは微笑み、強くつよく、彼女を抱きしめたのであった。
抜けるような晴天に、鐘の音が響く。祝福の音色に応えて白いハトたちが青空に飛び立ち、美しい曲線を描いた。
その日ひとびとが集うのは、エグディエル城の東、セント・ジュール大聖堂だ。壮麗な聖堂のなか、駆け付けた大勢のひとびとに見守られ、今日という日、ハイルランドの青薔薇は愛する男と結ばれる。
「汝、今このときより終わりのときまで、伴侶アリシアを愛し、共に歩むことを誓うか」
高い天井に、司祭の読み上げる誓いの言葉が朗々と響く。
「誓います」
堂々と答えたクロヴィスの声が、聖堂のなかに響き渡る。老年の司祭はクロヴィスの返答に頷くと、今度はアリシアへとその顔を向けた。
「汝、今このときより終わりのときまで、伴侶クロヴィスを愛し、慈しむことを誓うか」
その言葉を受けて、アリシアは顔を上げた。少しだけ視線を横にずらせば、固くつながれた手があり、そして、自分を見下ろす紫の瞳がある。
「誓います」
アリシアがそのように答えると、手を包み込むクロヴィスの強さが増した。
互いに誓いを交わし、ふたりは改めてひとびとのほうへと向き直る。次期女王、そしてその夫が結ばれる場を一目見ようと集まったひとびとは、途端に聖堂のあちこちで感嘆の声を漏らした。
ステンドグラスから差し込む陽光に包まれ、純白を身に纏うふたりの美しさは、いっそ神々しいと言えるほどだ。なにより救国の姫として立つアリシアと、彼女に勝利をもたらしたクロヴィス。こんなにも似合いのふたりが、ほかにいるだろうか。
「どうか祝福を!」ふたりの背後で、司祭が声を張り上げた。「誓約は結ばれ、男と女はひとつとなった。星の加護が光を灯し、永久の先までふたりを導くであろう」
「幸福なるときも、災いあるときも、わたしは永久にあなたのもの」
わっと歓声があがり、ふたりを見上げる大勢のひとびとによる拍手が聖堂に反響する。クロヴィスに手を取られたまま、アリシアは彼らのひとりひとりを見渡した。
手前側には、枢密院の貴族たちがいる。ジェラス公爵に、ハーバー侯爵。アダムス法務府長官や、ドレファス地方院長官。よく見ると、ドレファスの近くにはリディの姿もある。ひげ面の長官に肩を抱かれて迷惑そうにしつつも、どこか諦めた様子だ。
少し離れたところには、メリクリウス商会から招いた者が数名。筆頭にいるのは、もちろんジュードだ。貴族たちと一緒ではなく、商会のひとびとのなかにいるのが彼らしく、見つけたアリシアもつい笑みを漏らしてしまう。
ここからは見えないが、聖堂の外には大勢の市民たちも街道に出ている。きっとそのなかには、教会のひとびとやエドモンドなど職人たちもいることだろう。
数えきれないひとびとの笑顔が、ここにはある。
彼らが力を貸してくれたからこそ、今日このときがある。
「アリシア。そして、クロヴィス。私の子供たちよ」
側で見守っていたジェームズ王が前へと踏み出し、アリシアとクロヴィスはそちらに顔を向ける。王の後ろには、筆頭補佐官ナイゼルと、近衛騎士として控えるロバートもいる。
騎士の礼服に身を包んだロバートは、アリシアと目が合うと、いつもと同じににやりと笑ってみせる。一方のナイゼルは、アリシアとクロヴィスを交互にみて、困ったような泣き出す寸前のような、そんな笑みを浮かべた。
司祭が身を引き、代わりにジェームズ王がそこに立つ。アリシアが見上げれば、ジェームズ王はアーモンド色のきらきらと輝く目を細め、アリシアの額に口付けを落とした。
「可愛いシア。幸せになるんだよ」
「ありがとうございます、陛下」
「クロヴィス。君もだ」
「ありがたきお言葉にございます」
クロヴィスを軽く抱きしめてから、ジェームズ王はナイゼルから王笏を受け取る。宝石がいくつもちりばめられたそれは、まさしく王の証。それをアリシアに見せて、ジェームズ王は茶目っ気たっぷりにウィンクする。――まるで、自分でやる?と問いかけるように。
アリシアは笑って、それに首を振る。ジェームズ王により、正式に次の王と指名されたアリシアだが、王位を継承するのはまだ先のこと。それまで、まだまだ自分には学ぶべきこと、目を向けるべき事柄がたくさんある。
クロヴィス、そしてやりなおしの生が結んでくれた多くの人々との絆を抱き、これからもハイルランドと共に歩んでいこう。そんな決意を込めて隣を見上げれば、クロヴィスが応えて微笑んだ。
見つめ合う若いふたりの後ろで、王は王笏を高々と掲げ、叫んだ。
――ハイルランドに、祝福あれ!




