18-9
簒奪者――。その一言は、白い布にじわりと広がる染みのように、広間に集まる人々に不安の影を落とした。
誰もが固唾を飲んで成り行きを見守るなか、ふたりの人物だけが目立たないよう控えめに動く。サザーランド家使用人アルベルトと、補佐官クロヴィスだ。まずアルベルトがリディのもとへ駆け付け、続いてクロヴィスがアリシアへと歩み寄る。
黒髪の補佐官はアリシアの前に立つと、胸に手を当てて頭を垂れた。
「遅くなり申し訳ありません、アリシア様。ご無事でしたか?」
「たぶんね……。お前は随分と、派手な登場をしたものね」
思わずそう口にしたアリシアに、クロヴィスは小さく笑みを返す。それから彼は、その秀麗な顔をアリシアの耳元へそっと寄せた。
「すみません。私はエリザベス帝と、己の領分を越えた取り決めを交わしました。――俺を、信じてくれますか?」
「ええ、もちろん」即座に、アリシアは囁き返した。「私は、どんな時でもあなたを信じる。だから、あなたのしたいようにすればいいわ」
ありがとう。低く澄んだ声が、微かな甘さを帯びて耳元で響く。クロヴィスはすっとアリシアから身体を離し、馬上で静かに待つ女帝にちらりと視線を送った。
それが合図となり、女帝は黒馬から降りた。彼女が一歩踏み出すごとに、人々が左右に割れた道を作る。その手に剣を携えたまま、エリザベス帝はまっすぐに檀上へと向かう。
そのまま彼女は階段を上ると、表情を強張らせるフリッツの前に立つ。
「……簒奪者。あなたは、私をそう呼ぶのか」
母親とよく似た深緑の目を見開き、フリッツは震える声で女帝に問いかける。次の瞬間、彼は覚悟を決めたように表情を歪め、叫んだ。
「ああ、そうだ。私はあなたから王冠を奪った。だが、私は私の手で、この国を……!」
「黙れ」
有無を言わさぬ強さで、女帝が皇子を遮る。思わず言葉を飲み込んだフリッツを冷たく見据え、女帝はつまらなそうに続けた。
「そこをどけ、フリッツ。そなたに用はない。……邪魔だ」
「なっ……」
言葉を失った皇子を軽く鞘で押しやると、さらにその奥にいた人物――ユグドラシル宰相の前で女帝は足を止める。そして、広間全体に響く声ではっきりと宣告した。
「この男を捕らえよ。宰相エリック・ユグドラシル。この者こそが余に毒を盛り、王冠を奪った反逆者だ」
貴族たちの間に、悲鳴に近いどよめきが広まった。まさか。あり得ない。何かの間違いではないのか。人々の顔にははっきりとそうした疑念が浮かんでいたが、ほかでもない女帝の告発に、誰もが堂々と声を上げることを出来ずにいる。
そんな中、宰相はどこか驚いたような表情で女帝を見て、続いてクロヴィスを見た。――そして彼は気づいたらしい。恐ろしくも偉大な皇帝と、才覚に溢れた若き補佐官。両者はすでに、すべてユグドラシルひとりの罪として収めることで合意しているのだ。
そのとき、初めてユグドラシルの目に怒りが浮かんだ。凪いだ夜の海を思わせる、優しく穏やかな、けれども時折どこか寂しげな眼差し。今の彼はそれを捨て、胸の内に激しく燃え滾る激情を瞳に映していた。
「それが、あなたの答えですか」
この場に集う誰もが聞いたこともないような声音で、ユグドラシルが吐き捨てる。驚く人々の目など物ともせず宰相は続ける。
「実につまらないですね。それが、女帝エリザベスの答えですか。帝国の繁栄のためならば、身内だろうと平然と手に掛ける冷酷非情なあなたが。今更、まるで普通の人間のように、子を庇うなど……っ‼」
「庇う? そなたは、勘違いをしているようだ」
くいと眉を上げて、女帝が小さく首を振る。
「初めから無実の者を、庇う術は誰にもない」
ぎりっと歯を食いしばり、ユグドラシルが女帝へと一歩踏み出そうとする。だが、それは叶わなかった。素早くふたりのエアルダール兵がユグドラシルを捕らえ、その場に膝をつかせたからだ。
感情のこもらない目でそれを見下ろし、女帝は剣を引き抜き、鞘を捨てた。身動きの出来ない宰相の首に冷たい刃が添えられると、女官の間に悲鳴が上がった。
「告白しろ」場が騒然となる中、どこまでも冷ややかに女帝は続ける。「天の星々、地の賢人たちの前に、すべての罪を認めよ。そうすれば、命までは取りはしない」
すべての罪。その意味を正確にとらえることが出来る者は、かなり限られる。だが数少ない者たち――その中には、当然アリシアもいた――は、女帝が、フリッツの分の罪もすべてひとりで負うようユグドラシルに命じたのだと、正しく理解した。
しかし、それを聞いたユグドラシルは笑った。憎しみと怒りをその目に宿したまま、それは壮絶としか表現しようのない笑みだった。
「それが脅しになると思っているなら、あなたは愚かだ。殺したければ、殺せばいい。ああ、そうです。あなたは今すぐに剣をふるうべきだ。――彼を守りたいならば」
真意を探るように、女帝が目を細める。それに直接答えることはせず、ユグドラシルは自らを抑えつける手に抗い、金縛りにあったように立ち尽くす人々へと顔を向けた。
「私を見ろ‼」
声を張り上げたユグドラシルに、アリシアのすぐ近くにいたシャーロットの肩がびくりと震えた。白くなるほど両手を握り合わせる彼女の視線の先で、首に冷たい刃を添えられたまま、ユグドラシルは人々へ鋭く視線を投げかけた。
「私は今日、ここで死ぬことになる。だが、血が流れ失われようと、誇りが穢されることはない。目を見開き、耳を澄ませ、見届けるのです。そして真実を……真に裁かれるべきは誰であるかを、あなた方は胸に刻みつけることでしょう」
最後の部分で、ユグドラシルはその目をフリッツへと向けた。女帝に相手にされなかったときから呆然としていた皇子であったが、宰相の視線に射抜かれて、僅かに身じろぎをした。
それだけで十分だった。元老院貴族のみならず、エアルダール内には宰相ユグドラシルを慕う者が多い。普段からの信頼、そして女帝に糾弾されてもなお毅然とした態度を貫く宰相の姿は、貴族たちを強く動揺させた。
ここで彼を処刑したら、貴族たちは思うことだろう。いちの側近であり、貴族たちの精神的支柱であるユグドラシルを、女帝は無実の罪を被せ処刑した。彼らがそう信じこんだなら、みなの心は一気に女帝のもとから離れる。もともと保守層から反発の強い彼女だ。今まで力で抑えつけていた分、一気に不満が膨れ上がり、本当の意味で国が倒れる危険すらある。
一方で宰相を生かした場合、フリッツ皇子を守りたいという女帝の願いは叶わない。ユグドラシルは女帝の意図を見抜き、そのうえで拒否をしたのだ。いずれ開かれる審判のなかで、彼は必ず皇子を告発するだろう。
それらを恐らく理解したうえで、エリザベス帝はしばらく動かなかった。ややあって彼女は、ユグドラシルひとりにしか聞こえない声音で、淡々と呟いた。
「余の負けだ、ユグドラシル。そなたは余をただの女にし、さらに貶めてみせた。見事だ。……だが、この敗北の先で、余は必ず勝つ。あの世でそれを、見届けるといい」
悲鳴を上げたのは誰だったろうか。
黄金の柄を摑む手に力を込め、女帝が剣を振り上げる。磨き上げられた鋭い切っ先が、高い窓から差し込む陽の光を受けて、銀の鈍い輝きを放つ。
ひゅっと風を切る音が響き、勢いそのままに打ち付けられた刀身が地を砕いた。
「……――ふたりとも、邪魔をするな」
響いた低い声につられて、人々は思わず伏せた顔を上げた。
彼らはまず、女帝に寄り添うようにして立つクロヴィスの背中を見た。彼の手は剣を持つ女帝の腕に添えられており、彼が阻んだせいで刃は狙った場所とはまったく異なるところに振り下ろされている。
さらに人々は、ふたりの先――両側から羽交い絞めにされた宰相ユグドラシルの首に手を回し、庇うようにしがみつく赤髪の少女の姿を見た。
「……シャーロット、離れていなさい」
驚きに目を見開いていた宰相であったが、ややあって、ぴったりとくっついて離れようとしない娘をたしなめた。だが、彼女は嫌々をするように首を振った。
「シャーロット。言うことを聞きなさい」
「……嫌です」
「シャーロット、」
「嫌ったら、嫌です‼」
叫んだ少女の声は、涙にぬれていた。
彼女の目からは大粒の滴がいくつも零れ落ち、頬を伝って宰相の肩のあたりを湿らせる。そのことに戸惑いを見せるユグドラシルに、別の者が声を張り上げた。
「もう、その辺でやめたらどうです?」
果たして、声を上げたのはイスト商会副会長、バーナバス・マクレガーであった。共に乗り込んできた仲間のなかから一歩前に踏み出した彼は、複雑な表情で宰相を見据えた。
「お前さんが何を企んでいようと――本当は、腹のうちで何を考えていたんだとしても、彼女にとってお前さんは大切な親父で、恩人だ。俺だってそうさ。……これ以上、俺たちを失望させないでくれ」
兵たちは、シャーロットを宰相から引き離すべきか悩んだ。普通に考えれば乱入者は速やかに排除すべきところだが、隣国の補佐官に制止をされたまま、女帝はなかなか次の行動に移ろうとしない。
そのとき、アリシアが動いた。人垣が割れるなか、ハイルランドの青薔薇姫は檀上へと上がり女帝の隣に立った。そして、まず王国の代表らしく女帝と二言三言を交わし、淑女の礼をした。それから、先ほどの混乱のさなかに皇子が手から落としたままになっていた、6年前の誓約書を拾い上げ、あらためて宰相に向き直った。
「ユグドラシル宰相。先ほどの発言を訂正し、あらためてあなたを告発します」
シャーロットにしがみつかれたまま、宰相はゆっくりと顔を上げた。そこに、いつも彼が浮かべていた穏やかな笑みはなかったが、といって先ほどまで見せていた激情もない。ただただ、まっすぐに己を見上げるユグドラシルに、アリシアは誓約書を差し出した。
「この誓約は、私とあなたの間に結ばれたものではありません。これは、旧シェラフォード公爵領の領主、ロイド・サザーランドとあなたが結んだもの。そうですね」
ユグドラシルは答えない。否、答えられなかった。彼が何か口を開いた途端、己にしがみつくシャーロットの腕が強くなり、彼に返事を躊躇わせたのだ。
一方、アリシアも返答を期待しての問いかけではなかった。唇を薄く開いたまま眉間にしわを寄せるユグドラシルを見下ろし、彼女は静かに続ける。
「あなたの目的は、統一帝国の建国。そのために我が国とエアルダールの関係を悪化させ、戦争へ導こうとした。けれど6年前、その試みは一度失敗した。だからあなたは、自分へとつながる二人の人間を始末した。ひとりはロイド・サザーランド。そして、もうひとりはアダム・フィッシャー。……ロイドの息子、リディがそれを突き止めてくれたわ」
ふたりのやり取りを見守る人々のなかで、リディがきゅっと唇を噛みしめ、強く手を握りしめた。そんな彼の肩を、檀上へ向けた視線は動かさずに、ロバートがぽんと軽く叩いた。
「真実に限りなく近づいたリディを、あなたは警戒した。焦ったあなたは、陛下に毒を盛り、彼をその犯人に仕立て上げた。……これが、一連の騒ぎの真相よ」
言い終えたアリシアはその場に屈み、ユグドラシルと視線を合わせた。そして、問うた。
「あなたは、なぜこんなことをしたの?」
黙ってふたりを見下ろす女帝の眉が、ぴくりと動く。口には出さずとも、そんなことを馬鹿正直に聞いてどうするのだと、女帝が言いたげであるのはよく伝わった。それでもアリシアは、気にせずに続けた。
「あなたは賢いひと。人望も厚く、みなに慕われている。……あなたのすべてが嘘だったと、私には思えない。本来のあなたなら――あなたを突き動かす『何か』がなければ、あなたはきっと、素晴らしい為政者になれたはずよ」
「……――そう、だったかもしれません」
かすれた声で、ようやくユグドラシルが答えた。未だ離れてくれない娘に身を預けるようにして、ユグドラシルは表情を歪めた。
「ええ、そうです。私はもはや、為政者とは呼べない存在だ。だが、そんなものはどうでもいい。人の命を虫けらほどにも思わず、邪魔な者は容易く殺す。そんな王も、王を慕う愚かな民衆も、すべてが忌々しかった。――だから私は、誓った。彼女が不要だと切り捨てたものを、私が覆す。そうして、みなが偉大だと褒めたたえる女帝が取るに足らない存在だと――彼女の築く栄華に価値などないと、必ずこの手で証明してみせると……!」
「くだらない理由ね」
一瞬、ハイルランドの者たちは――クロヴィスですらも、己の耳を疑った。それほどに冷ややかに、アリシアの声が響いたからだ。一方、ばっさりと切り捨てられた宰相は、再び瞳に怒りを燃え上がらせた。
「くだらないだと……。あなたに、私の何が!?」
「わからないし、わかりたくもないわ」
ぴしゃりと言い放ち、アリシアが宰相を睨む。
「あなたは一体、誰のことを話しているの? 人の命を軽んじ、邪魔な者を簡単に廃除する。その言葉、そっくりそのままお返しすればいいのかしら?」
「それは……っ」
「己を恥じなさい、ユグドラシル。そして、悔いるといいわ」
すっと立ち上がり、アリシアはユグドラシルを見下ろす。そして、どこまでも気高く、凛と響く声で宣言した。
「あなたの独りよがりの正義のために、民を傷つけることは許さない。決して、あなたの思い通りになんかさせない。私は、私が仕える民のために、何度でもあなたを否定するわ!」
ユグドラシルの目が、僅かに見開かれる。
民に、仕える――。その言葉を、彼は反芻していた。
熱く燃える信念を瞳に宿し、力強く宣言する若き王女の姿は青臭く、眩しい。若さゆえの純粋さだと、否定をすることは簡単だ。だが、そうしたくはないと思わせる何かが、彼女にはある。
しばらく考えて、ああそうかと、ユグドラシルは納得をした。より多くを知り、魑魅魍魎の渦巻く嵐の中を潜り抜けるしたたかさを持った彼女ではあるが、女帝も――エリザベス帝も、民には誠実であった。
ずっと、エリザベスを憎んできた。だまされたと。お前のせいだと。彼女によって消えていった者たちの最期の叫びが、夜闇のなかで何度も響いた。そのたびに無力な己を呪い、死んだ者たちに詫び、彼に願いを託した友に復讐を誓った。
だが、心のどこかで、彼女を優れた君主だと認めていた。急進的すぎる政策を力づくで通してしまうことも、反対派の意見に耳をかさないところも、色々と頭を悩まされることは数多とあったが、エアルダール帝国の発展のためという確固たる軸をぶらさないところは、純粋に尊敬に値すると思っていた。
すべては、帝国にとって有益であるか、そうでないか。その判断基準は、時にとして人間らしい温かみを欠いた非情な決断を、彼女にさせる。
わかっていた。エリザベスはユグドラシルを出し抜こうとして、嘘をついたのではない。帝国の未来と人としての情を天秤にかけ、そのうえで選んだのだ。
だが、それを認めてしまえば――仕方がなかったのだと諦めてしまえば、誰が死んでいった者たちを弔うのだろう。誰が、レイブンの最期を悼むのだろう。
そう決めつけて呪いをかけたのは、他でもない自分だった。
「……――愚か者は、私のほう、か」
ぽつりと呟き、宰相が項垂れる。
それから彼は、己の肩のあたりに顔をうずめているシャーロットに何かを囁いた。父の変化を、彼女も感じ取ったのだろう。今度は素直に応じて彼女が離れると、宰相はエリザベス帝へと顔を向けた。
罪を、すべて認める。女帝を見上げ、ユグドラシルはそう告げた。
その一言は、やりなおしの生を与えられた少女の戦いにも、ひとつの終止符を落としたのであった。




