18-8
騎士が何やら皇子に囁いたあと、リディ・サザーランドの審判は一時中断となった。三人の代理人のひとり、一番肝心なフリッツが席を外したためだ。
――作戦は、上手くいったらしい。一度自身の席に戻ったアリシアは、集まったひとびとの向こう、空の玉座を挟んで腰掛けるふたりの代理人のひとり、宰相ユグドラシルを盗み見た。
はじめユグドラシルは、騎士に連れられ出ていく王子についていこうとした。しかし、それを留めたのはフリッツ自身だ。ふたりの会話は聞こえなかったが、うるさそうに手を振ったとき、皇子は宰相のほうを見ようともしなかった。
とにかく、これでふたりの間に亀裂を入れるという第一関門は突破した。けれども気がかりなのは、皇子が退出したわけだ。
皇子が姿を消してから、もう随分と経つ。騎士がわざわざ呼びに来たのだから外で何かイレギュラーが発生したのだろうが、アリシアたちにとってこの間は好ましくはない。できれば、皇子が冷静さを失っているうちに一気に畳みかけてしまいたかった。
とはいえ、皇子が無理やり審判を中断する可能性を考えなかったわけではないし、手はいくらでもある。外で何があったのかは、押さえておきたいところではあるが……。
そのとき扉が開き、皇子が謁見の間に戻ってきた。立ち上がる人々の視線を受けつつ皇子は真っすぐに自身の席へと戻ると、己が玉座へと腰掛けてからみなにも座るよう手で示した。
「審判を再開する。アリシア。同じ場所へ」
皇子の呼びかけを受け、アリシアは立ち上がる。先ほどと同じ、リディの隣の証言台に上った彼女は、みなを代表して口を開いた。
「よろしいのですか? 外で何か、問題が起きているのでは」
「君が気に掛ける必要はないし、ここで私がみなに説明する必要もない」
にべもない答えに、アリシアは仕方なく淑女の礼をとる。かわってフリッツは、声を張って宣言した。
「先ほどのアリシア姫からの申し出、王の代理人として私が許可する」
「……っ」
「殿下、発言をどうかお許しください」
人々がざわつき、宰相の眉がぴくりと動く。だが口を開いたのは彼ではなく、もうひとりの代理人だった。学者としての見地から、彼は皇子を説得しようとした。
「恐れながら、審判における王の代理人は殿下おひとりではございません。伝統の様式にのっとるならば、アリシア王女殿下からの要請は代理人三人で決を採るべきかと……」
「では申せ。エアルダール第一皇子フリッツの決に不満があるなら、今ここで」
冷ややかな眼差しを老齢の男にむけ、皇子は淡々と告げる。何の感情もこもらない平坦な声に、男も諦めたらしい。頭を下げ「出過ぎた真似を」と短く詫びた。
「かまわん。――さて。ハイルランド王女アリシアの要請に基づき、この神聖なる審判の場に我が母、エリザベスを召喚する。……その、つもりだったが」
アリシアの胸の内を、嫌な予感がよぎった。だが、彼女が行動するよりも早く皇子が手を掲げた。それを合図に慌ただしく扉が開かれ、剣を手に武装した兵が謁見の間になだれ込む。突然の出来事に、あちこちで悲鳴が上がった。
「姫さま‼」
ひらりと銀色が舞い、ロバートが中央の広場へ身を躍らせる。彼に続いてほかの護衛騎士も素早く駆け付け、アリシアと、ついでに鎖につながれて逃げ出せないリディのふたりを庇うように包囲した。
「ロバート、これは……!」
「大人しく守られてくださいよ、姫さま。これはちょっとばかし、やばそうだ」
口元には笑みをたたえつつ、騎士の目は鋭く周囲を警戒する。その手に構えられた剣に、駆けるエアルダールの兵たちの姿が映る。
庇う背中の隙間から、アリシアは外を窺う。一列となって中央の広間に駆けて入ったエアルダール兵たちは、そのままロバートたち護衛騎士ごとアリシアらをぐるりと囲う。
さらに外を窺えば、エアルダール兵の輪はもうひとつある。中心にいるのは、ベアトリクスとシャーロットのふたりだ。ちらりと檀上をみれば、宰相は表情を険しく見ている。やはり彼もこの事態は予想外のことであるらしい。
と、兵の配置が完璧に整ったために、周囲の足音がやんだ。かわりにザッと金具が擦れる音がして、兵たちの剣が一斉に輪の中心へと向けられた。
「ハイルランド王女アリシア。ならびに、ベアトリクス・クラウン外相夫人とシャーロット・ユグドラシル。そなたたちには、別の容疑が掛かっている」
玉座から立ち上がり、フリッツが輪の中心にあるアリシアを見下ろす。その冷たい眼差しを見返し、アリシアは冷静に問う。
「容疑、とは。一体、なんのことでしょう」
「エアルダール皇帝にして我が母、エリザベスがミレーヌ殿より姿を消した」
動揺を露わにしそうになるのをぐっとこらえて、アリシアは毅然とその場に立つ。さすがにこのまま静観しているわけにいかないと判断したらしい宰相が、立ち上がってフリッツに並んだ。
「フリッツ殿下、陛下のお姿が見えないというのは……」
「そのままの意味だ」
皇子によると、騎士に連れられてどこかへと行ったあと彼は謁見の間に直接戻らず、エリザベス帝のいるミレーヌ殿へと向かったのだという。それが、アリシアの要請を受けるためだったのか、エリザベス帝を味方につけようとしてのことだったかはわからない。とにかくそこで、フリッツは衝撃の事実を知った。
「私が到着したとき、ミレーヌ殿は何者かの襲撃を受けたあとで、すでに陛下の姿はなかった。実に鮮やかな手口で、密やかに事は運ばれた。だが、昏倒から目覚めた兵によれば襲撃者のひとりは珍しい黒髪を持つ男だという」
となりでリディが息を飲み、前ではロバートが小さく舌打ちする。アリシアもまた、胸の前で手をぎゅっと握った。
黒髪の男と言われ、彼らの頭に浮かんだのは当然クロヴィスだ。だが彼がエアルダールに来ているならば、なぜアリシアの下へ駆け付けない。なぜエリザベス帝の誘拐など。
それでも、すぐにアリシアは頭を振った。
あまりに大胆な手段に踏み切ったクロヴィスの意図は読めない。しかし、クロヴィスが相手なら何を不安に思う必要があるだろう。審判の前に、ロバートに話した通りだ。アリシア付き補佐官となってからの6年間、クロヴィスがアリシアの期待を裏切ったことはない。
何より、彼は常にアリシアのことを第一に考え、選択をしてきた。
その想いを知るからこそ、アリシアは彼を信じられる。
「陛下の御身は、我が国の兵に追わせている。じきに無事お救いすることができるだろう。……賢明な君ならわかるはずだ。剣を収め大人しく従うよう、彼らに指示してくれるね」
肩越しにロバートが小さく首を振る。彼が言いたいことは、アリシアにもよくわかった。ここで皇子に従えば、アリシアは確実に牢へ入れられる。そうすると、ナイゼル・オットーとの約束が守れない。もし期限を越えてアリシアが帰らなければ、ジェームズ王も次の手に打って出ざるを得なくなるのだ。
けれどもアリシアは、一度頷いてみせた。
「わかりました。――しかし殿下。本当に陛下の御身は、攫われたのでしょうか?」
「なに?」
眉間を寄せたフリッツに、あえてアリシアは挑戦的に問いかける。澄んだ空色の眼差しの強さに、わずかに皇子がたじろぐ様子を見せる。
「陛下は意志が強く、勇敢な女性です。たとえ脅されたとしても、卑劣な手段に訴える誘拐犯に大人しく従うとは思えません。……陛下は自らの意志で、自らの足で、ミレーヌを出ていかれたのではありませんか?」
「なっ……!?」
「ならば、私が殿下の求めに応じる必要はありませんね」
その一言に、フリッツは表情を歪ませる。だが、彼が腕を振り上げて兵たちに指令を与えるより、先にロバートが動いた。閃光が走り、鋭く切り込んだロバートの一太刀によってエアルダール兵が三人ほど吹き飛んだ。
「よくぞ言ってくださいましたぜ、姫さま!」
振り向きざまににやりと笑って、ロバートが叫んだ。
「これより、我が隊は救出作戦に移る。ミッションは王女殿下、およびリディ・サザーランド殿を我が国へ無事お連れすること。いいか。できるだけ穏便に、な!」
言いながら、ロバートが飛び出していく。その先をアリシアは目で追おうとしたが、隣で「ひっ!?」という叫び声と何かが割れる音が響いたので慌ててそちらを見た。そこには自由になった両手を唖然と見下ろすリディがいた。どうやら、味方のひとりがリディを繋ぐ鎖を叩き切ったらしい。
「こちらへ! 早く!」
「あ、ああ。行きましょう、アリシア様‼」
両手首のすぐそばを剣先がかすめたショックから立ち直ったリディが、アリシアに先を促す。だが、飛び出していてしまったロバートがまだ戻っていない。そう思って首を巡らせると、ちょうど彼がベアトリクスとシャーロットのふたりを囲むエアルダール兵たちに切りかかるところだった。
出来るだけ穏便に。そう口にしただけあって、相手の兵に致命傷はない。だが、戦闘を熟知した隙のない身のこなしと重く鋭く繰り出される剣先によって、武器を撥ね飛ばしたり相手を昏倒させたりなどして、ロバートは一瞬にして敵を刈り取っていく。さすがは剣聖の再来とまで謳われ、若くして近衛騎士団長の座に収まるだけある見事な手腕だ。
そうして輪を乱すと、ロバートはシャーロットたちに手を伸ばした。
「来るんだ! 一緒に、走れるね」
「は、はいっ!」
すぐに騎士の意図を察したシャーロットが、ベアトリクスと共に駆けだす。すかさず先を阻もうとする兵を再びロバートが防いで、その隙にふたりはアリシアたちと合流した。
「アリシア様‼」
「シャーロット! よかった。行きましょう!」
「っ! 待て、シャーロット‼」
フリッツの制止の声が響くが、ちらりと振り返ったシャーロットは悲しそうな顔をしただけで、すぐに前に向き直る。つないだ手の強さに彼女の覚悟の固さを感じ取ったアリシアは、自身も手をシャーロットの手を握り返し、出口に急ぐ足を速めた。
審判のため集まっていたエアルダール貴族たちも、戦闘を逃れるため我先に出口へと向かう。それも妨害となり、エアルダール兵たちは思うようにアリシアらに追いすがることができない。と、そうした混沌とした状況のなかで異変が起きた。
最初に足を止めたのは、アリシアたちを先導していたハイルランドの護衛騎士だ。続いてエアルダールの兵らも足を止め、剣を構えなおして警戒の姿勢を取る。しかし、彼らはその剣を、ハイルランド勢に向けるべきか、それとも開け放たれた扉の向こうに向けるべきか迷っているようであった。
「今度はなんだ……!」
一応アリシアらを庇うように前に立ちつつ、武器を持たないリディが呻く。その背中越しに、アリシアは床を震わすほどの大勢の足音響く、回廊の先を見守った。
次の瞬間、角を曲がって、数えきれないほどの人々が黒い波のようにこちらへと押し寄せるのが見えた。その異様な光景に、先に回廊へと逃れていたひとびとも悲鳴を上げ、慌てて謁見の間へと逃げ戻る。
「な、なんだあれは!」
「いいから下がれ、坊ちゃん‼」
唖然と口を開けるリディの肩をぐいと引き、ロバートが叫ぶ。アリシアとシャーロットも、ベアトリクスに抱きしめられるようにして後ろに下がり、さらにその前を護衛騎士たちが守った。
そうしている間に扉のすぐ近くまで人々が迫り、エアルダール兵らが飛びついて扉を閉ざそうとする。だが、完全に戸が閉まる前にドンッと衝撃が走り、二度目の衝撃と共にせき止めていた水があふれ出すようにして人々が中になだれ込んできた。
「これは何事か‼」
「フリッツ様、こちらへ! 殿下をお守りしろ!」
前に出ようとしたフリッツを押しとどめて、ユグドラシル宰相が近くにいたエアルダール兵に呼びかける。一方アリシア一行も、遠巻きにぐるりと囲む人々を睨みつつ、剣を構えたまま警戒を続ける。
とその時、人垣が割れて道が生まれた。硬い蹄が地を打つ音が響き、堂々と黒馬が謁見の間に入室する。フリッツが、ユグドラシルが、その他審判に集っていたひとびとの誰もが馬上に座る人物に、呆然と目を見開く。だがひとりだけ、アリシアだけは、黒馬にまたがる人物の横に控える黒髪の男に目を奪われ、瞳を潤ませた。
「我が王冠を返してもらうぞ」
黒髪の美丈夫、クロヴィス・クロムウェルを従え、エリザベス帝が冷たく宣告する。彼女はまっすぐに剣を檀上へ――凍り付いた表情のまま固まったフリッツと、すっと目を細めたユグドラシルへと向けて、女帝は赤い唇を吊り上げた。
「――これで全て終いだ、簒奪者」




