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※アリシア目線に戻ります。
アリシア王女の一日は、実に多忙である。
アリシアが学ぶのは、マナー、ダンス、刺繍、歴史、宗教、語学、天文学、薬学、時事問題、その他、エトセトラ、エトセトラ。女王として即位する道もわずかながら存在するため、身に着けるべき学問が多岐にわたるのだ。
それぞれの学問には家庭教師がつけられ、一分一秒のずれもなく組み込まれたスケジュールにのっとって、順番にアリシアの前に現れて教鞭をふるう。10歳の少女にとっては、窮屈極まりない暮らしである。
少し前まで、王位後継者として詰め込まれる学問の数々が、アリシアには苦痛極まりなかった。なんせ、歴史を学べば学ぶほど、自分が女王に即位する可能性の低さを知るのである。であれば、こんな退屈な勉強など放り出して、庭を駆け回った方がどんなに楽しいか!
だが、『革命の夜』の記憶を取り戻してからというもの、アリシアは人が違ったように勉学に真面目に取り組んだ。その変わりようといったら、歴史の家庭教師はあんぐりと口を開け、語学の家庭教師は感涙にむせんだほどである。
とはいえ、人間、そう簡単に生まれ変われるものではない。今までが不真面目であった分、急に真剣に耳を傾けたところで、積み上げた知識がないためにチンプンカンプンなのだ。
「もう、一ミリだって頭をつかいたくないのよ……」
「お疲れさまです、アリシア様。今、甘い紅茶を用意いたします」
一日の授業がおわり、ぱたりと机につっぷした小さな姫君に、ティーセットをもって入室してきた侍女のアニが同情的な表情を浮かべた。
「もう、前みたいに授業を抜け出したりはしないのですか?」
ティーカップに紅茶を注ぎながら、侍女がちらりとアリシアを見る。紅茶のかぐわしい香りに鼻をすんすんと鳴らしつつ、アリシアは首を傾げた。
「私が勉強に真面目になるのは、そんなにおかしい?」
「そりゃあ、ちょっと前まであんなに逃げていらしたんですもの。お城をあげて、姫様と鬼ごっこをするのも、あれはあれで楽しかったですし」
口が正直すぎるアニは、臆することなくそう言うと、ころころと笑った。兄弟を持たないアリシアにとって、アニは年の離れたしっかり者の姉のような存在だ。そこのところをわかってか、彼女の方も主従関係を越えてアリシアにかまってくれる。
「それが、急にお利口さんになってしまわれて、無理をして体を壊されないかと心配です。夜も深くお休みではないようですし……。何か、心配事を抱えているのではありませんか?」
アニの鋭い一言に、アリシアはひやりとした。
星の使いとやり取りをしてからというもの、「未来を変える」という目的のために、アリシアは苦手だった勉学にも取り組むよう己に課した。少しでも状況をよい方に変えるために、なるべく多くの情報がアリシアには必要であるからだ。
クロヴィスを見つけ近くに置くことが叶ったのは、偶然がなしたラッキーである。だが、これより先は、そううまくいくとは限らない。
『革命の夜』を紐解けば、この先に待ち受ける最も大きな問題は、隣国エアルダールとの戦争である。その結果、ジェームズ王は死に、王国は実質的に隣国の支配を受け、革命の夜を引き寄せることになるのだ。
未来を変えるのはもちろんのこと、アリシアの愛する父を死なせるわけには断じていかない。そのためには、待ち受けるエアルダールとの戦争を、なんとしても回避する必要がある。だからこそ、アリシアは苦手な学問に打ち込むのだ。
……と、こうした固い誓いは、当然ながら誰にも告げていない。もちろん、姉のように親愛をよせるアニにもだ。
「なんとなく、よ。そろそろ、しっかりしなくちゃと思っただけ」
アリシアの歯切れの悪い返事に、しかしアニはそれ以上追及しなかった。恐らく感じているだろう疑問を飲み込んだまま、黙って紅茶と菓子をアリシアの前に置いてくれる。
甘い紅茶の香りが、やさしく鼻をくすぐる。アリシア好みの濃さで淹れられた紅茶に、アニの気遣いが注がれている気がして、無性にアリシアは泣き出したくなった。そんな王女の様子を知ってか知らずか、アニはそっと隣に寄り添ってくれている。
「い、いただきます」
「はい、どうぞ召し上がりください」
目をこすってから、アリシアが紅茶に口をつけたその時、何者かが扉をノックした。
「少しお疲れのように見えますが、明日にまとめて報告いたしましょうか」
「大丈夫、気にしないで。それより、今日はどうだったか教えて」
向かいに座るクロヴィスに、アリシアは空色の髪を揺らして笑いかけた。
アリシアとクロヴィスの間の特別な決まり事として、彼が勤務にあたった日はこうして夕刻に一度顔を合わせ、その日に行ったことを報告することになっていた。これは、オットー補佐官のアイディアである。
通常は、こんな決め事がなくとも、主人とその補佐官は何かしら顔を合わせる。だが、公務の量が少ないアリシアではそうもいかない。といって、二人の信頼関係を高めるにはコミュニケーションが必須であり、このような約束がなされたのだ。
アリシアとしては、10歳近く年長の青年に、大した用もないのにいちいち足を運ばせるのはむず痒く、彼にとっても面倒でないかと断ろうとした。だが、意外にも譲らなかったのはクロヴィスの方である。
嫌がる様子も見せず、むしろ(表情だけは冷静沈着を保ったまま)妙にいそいそとクロヴィスがやってくるものだから、それならまぁいいかと受け入れたのだ。アリシアがこの眉目秀麗な補佐官のことを、時たま毛並みのよい大型の黒犬に空見してしまうのも、無理ないことである。
なお、クロヴィスの前にも、アニが用意してくれた紅茶が置いてある。彼の方は、アリシアのそれとは違い、甘さ控えめだ。すすめるアリシアにこたえて紅茶に口をつけてから、クロヴィスはゆっくりと顔を上げた。
「今日は、ナイゼル殿より試験を受けました」
「試験? どんなものなの?」
家庭教師が持ってくる羊皮紙の束を連想し、アリシアは口をへの字に曲げた。だが、クロヴィスがかいつまんで説明したものは、アリシアの想像とはいささか違うものだった。
「では、あなたは手元には何の資料を持たずに、頭の中の知識だけで報告書のデタラメ具合を指摘したというの?」
「大したことではありませんよ。たまたま、目を通していた記録の内容と合致したにすぎません」
若き補佐官はなんでもないことのように話すが、同じように時間と資料を与えられたって、彼のように分析できるものはほとんどいないだろう。ただ膨大に知識を詰め込むことより、必要に応じて引き出す能力の方がよほど大切であるからだ。
「あーあ。私に、クロヴィスの半分でいいから、賢い頭が備わっていればよかったのに」
「アリシア様?」
机につっぷしていじけたアリシアに、クロヴィスは紫の瞳を瞬かせた。だがすぐに、幼き主人の机に積みあがった分厚い本の数々に目をとめ、合点がいったらしい。
きりが悪いですが、一度切ります。




