18ー3
馬車が大門を潜り抜け、キングスレー城の本殿へと向かう。
カーテンの隙間から外を覗き見たアリシアは、庭園のずっと先にこじんまりとした建物――ミレーヌ殿が見え隠れするのを見つける。ベアトリクスの話では、エリザベス帝は療養を理由にあちらへと身を移されている。
ミレーヌ殿が見えなくなってほどなくして、徐々にスピードを落としていた馬車が完全に停まった。ややあって扉が開けられ、アリシアはゆっくりと外へと足を踏み出す。
前に城を訪れたときとは異なり、大勢の市民が彼女を出迎えるということはない。かわりに大扉へと通じる階段の両脇には衛兵が並び、輝く槍の切っ先を天へと向け、微動だにせず佇んでいる。
馬車から降りたアリシアは、外相夫人ベアトリクス、そしてロバートを筆頭とした近衛騎士を引き連れ、階段を上る。そのとき大扉が開き、中央に細身の人物が立った。
(宰相、ユグドラシル……)
「お待ちしておりました、アリシア様。長旅ご苦労様です」
アリシアの見上げた先で、最後に会ったときと同じ、静かな水面を思い起こさせる穏やかな笑みを浮かべ、ユグドラシルが恭しく城の中を指し示す。
「ご案内いたします。フリッツ殿下が、首を長くしてあなたをお待ちでございます」
「夫人から報せを受けたときは驚きました。ちょうど、シェラフォード領での視察中であったとか」
「ええ、偶然に。ベアトリクス様とお会いできたのは幸運でした。おかげで、こうして駆け付けることができましたから」
前を歩く宰相に答えながら、アリシアは注意深くその背中を見つめる。改めて前にすると、この温厚で思慮深い人物が両国を戦争へと導こうとしているなど、とても信じがたいことに思える。だが、リディからの手紙、そして蘇った前世の記憶が、彼こそが黒幕であると告げていた。
彼がハイルランドを得ることに、なぜそこまで固執するのかはわからない。だが、それが利害、大義、信念のなにであろうと、アリシアが身を引く理由にはならない。
彼女はただ、やりなおしの生の中で懸命に目指した未来を――民を、王国を滅亡から救うという願いを叶えるため、己の全身全霊をかけて宰相に挑むだけだ。
そして、向き合うべきはもうひとり。
「殿下。アリシア王女殿下をお連れいたしました」
「ああ」
短く答えた皇子は、己の近くへ控えるよう宰相に手で示す。エリザベス帝に代わり玉座に座るフリッツ皇子を見上げ、アリシアは目を細めた。
皇子の纏う空気は、最後に会ったときとがらりと変わっていた。表情を消した端正な顔から滲むのは研ぎ澄まされた刃のような鋭さであり、母親そっくりの深緑の双眼は冷徹にアリシアらを見据える。玉座に腰掛ける姿は堂々としており、彼もまた、何かしらの覚悟を固めたうえでこの場にいることをうかがわせた。
皇子は肘をついて軽く前に身を乗り出すと、片方の眉をくいと上げた。
「驚いたぞ。報せを聞いたうえで、我が国に乗り込むとは……。そなたの度胸は大したものだ。君に、恐ろしいと思うことはないのか?」
「私にとってもっとも恐ろしいことは、このまま両国の絆が壊れ、多くの罪なき血が流れることです。それを考えれば、この場に立つことなど造作もありません」
「罪なき血、か。相変わらず、君の答えは模範的だ」
皇子の視線が鋭くなり、唇の端が僅かに歪む。だが、その変化は一瞬のことであり、すぐに彼は元の凍り付くほどの無表情へと戻った。
「しかし、悲しいな。君がそれほどの覚悟を持って来ているというのに、この危機的状況を生んだのが、身の程知らずな臣下の策謀とは」
「恐れながら、殿下。私は強い意志が、正義が、真実を明るみにしてくれると信じております」
「奴の無実を信じているのか?」
「ええ。もちろん、リディを信じます。信じる気持ちがなければ、私は彼を、この地に送ることはなかったでしょう」
アリシアの答えを、フリッツは鼻で笑った。それから彼は宰相から羊皮紙と羽ペンを受け取り、自らのサインをさらさらと書き入れた。
「許可証だ」
宰相を通じてアリシアにそれを渡しながら、彼は告げた。
「公平性を期すため、証言台に立つ者には審判に掛けられる者と面会する権利が与えられる。それが、伝統に基づくルールだそうだ。そうだな、ユグドラシル」
「はい。殿下の仰せの通りでございます」
そういって、宰相は微笑む。その当然のような正しさに、アリシアは薄気味悪さを感じた。一方で、いくら伝統とは言えリディとの面会を平然と許可するほどに、ハイルランドは不利な状況にあるのだと。そのことを、改めて実感した。
「以上だ。審判は、明日の正午より始まる。それまで、好きに過ごすといい」
皇子の合図で、謁見の間の扉が開かれる。アリシアは軽く頭を下げ、その場を退出しようとし――思いとどまって、もう一度フリッツ皇子を見上げた。
「フリッツ様。ひとつだけ、お伺いしたいことがあります」
「なんだ」
皇子は僅かに首を傾け、先を促す。温度の感じない深緑の瞳を見つめながら、アリシアの頭に浮かぶのは、いつの日か丘の上でエリザベス帝に問いかけられた言葉だ。
「以前、王とは何か陛下に問いかけられたとき、王は力であり、象徴であると。国家そのものであると、殿下はお返事されました。その考えは、今でも変わりませんか?」
真意を探ろうとするように、皇子はしばらく沈黙を貫きながらアリシアを見つめた。ややあって、彼は厳かに口を開いた。
「変わらない。変わることはない。……それはおそらく、君の答えとは別なのだろう。だが、それは見解の相違というものだ。どちらが正しく、どちらが間違っているというものではない。だから私は、私の理想を追うまでだ」
君も同じだろう、と。薄く微笑んで、フリッツが問いかける。それに対しアリシアは、小さく、しかし確かに頷いた。
「そうですね」答えた声は凛と響いた。「私も、私の信念を貫きます。そのために、この地に来ました」
ぱちりと、静かだが激しい火花が皇子とアリシアの間に散る。それを最後に、アリシアは今度こそ謁見の間を退出した。
やはり、皇子と自分は違う。王族としての理想も、国家への考え方も、何から何まで重ならない。皇子のいうように、そこに正否はないのだろう。だからこそ、単純な話し合いで彼を止めることは叶わない。
――ただひとつ、審判のなかで勝利を収めることでしか。
「奴さんも頑固ですね。これは、一筋縄ではいかなそうだ」
唯一、護衛として謁見の間まで同行していたロバートが、後ろで肩を竦める。なお、ベアトリクスや他の護衛騎士は、控えの間で待機していた。
周囲を警戒しつつも、いつも通りの飄々とした声でロバートが問いかける。
「さて。一応、客人としての仁義は通したわけですし。この後はどうします? 行先がどこであろうと、俺がきちんとお守りしますよ」
「これを使うわ」
フリッツから渡された証書を騎士に差し出し、アリシアは微笑む。対するロバートもアリシアの答えを予想していたのだろう。整った顔ににやりと笑みを浮かべて、「そうこなくっちゃ」と嬉しそうに言った。
「アリシア様⁉」
クラウン夫人とロバートとを伴い、暗く冷たい階段を降りてアリシアが地下牢へと姿を現すと、リディ・サザーランドが仰天して牢の中で立ち上がった。
着ている上質な服は薄汚れてしまっているものの、思ったよりも元気な姿にアリシアはほっと息をつく。夫人からあらかじめ聞いていたように、頭部に包帯を巻いている以外に目だった外傷はなく、囚人として痛めつけられた様子はない。
兵士が鍵を開けるのを待って、アリシアは牢へと入りリディのもとへ駆け寄った。
「リディ! よく無事で……」
「なぜ、こんなに早くエアルダールへ? 早くても、審判が始まってから到着されるかと思っていたのですが……」
困惑を顔に浮かべて、リディがアリシアとロバートを見る。
彼にしてみれば当然だ。クラウン夫人から、最後の賭けとしてアリシアをエアルダールに呼ぶつもりであるとは聞かされてはいたが、ジェームズ王がそれを了承するとは思えなかった。それなのに、予定を大幅に上回る早さで王女が駆け付けたとあれば、何があったのかと驚くのも無理もない。
そんなリディの心中を察したアリシアが、ここに至るまでの経緯を説明してやろうとする。だが彼女が口を開くより先に、たたたたっと誰かが階段を駆け下りる音が響いた。
「アリシア様! ベアトリクス様‼」
「シャーロット!」
階段に通じる物陰からぱっと飛び出した赤髪の少女は、アリシアを見つけるとやはり牢屋の中へ飛び込んできた。
「良かった、来てくださって……。ごめんなさい、アリシア様。父が、殿下が……」
「いいのよ。それより、リディを守ってくれてありがとう」
心からの感謝を込めてアリシアが手を握ると、シャーロットは大きな瞳にいっぱいの涙を浮かべる。
事実、ベアトリクスや彼女が味方に付かなければ、リディの身は危なかった。皇子と宰相は、審判など開かずにリディを処刑、もしくは〝不慮の事故〟で亡き者とし、早々に開戦まで持ち込みたかったはずだ。それをしなかったのは、フリッツの精神的支柱であったシャーロットがこちら側についてくれたおかげだろう。
さて。何から話し、何から聞くべきだろうか。
アリシアとリディ、そしてシャーロット。それぞれに渦中にあり、怒涛のときを過ごした三人は、互いに向かい合ったまま途方に暮れる。
そんな三人の戸惑いを吹き飛ばすように、ぱんぱんと乾いた音がした。はっとして三人がそちらに顔を向けると、両手を合わせたまま微笑むベアトリクスと、その横で愉快そうに腕を組むロバートがいた。
「皆さま。気持ちはわかりますが、とりあえずは落ち着きましょう」
「ええ。ご夫人の言う通りです。せーの。ほら、息を吸って。吐いて。ね、すっきりしたでしょう?」
「あ、ああ」
「そうね……」
「こうして、会えましたしね」
頰をかくリディと、ぱちくりと瞬きするアリシア。そんなふたりにシャーロットが少しだけ笑って、暗く澱んだ地下牢の空気がちょっぴり明るくなる。
三者三様の反応を見せた三人に相変わらず様になるウィンクをひとつ飛ばし、ロバートが優雅に右手を掲げた。
「では、情報交換と行きましょうか。俺のモットーはレディファーストなんだが、そうも言ってられない。まずは坊ちゃん。エアルダールでお前に起きたことを、洗いざらい話してもらうぜ」




