18-2
「クロくん?」
呼びかけられて、アリシア付き補佐官クロヴィスは我に返った。空に向けていた視線を前へと戻せば、ローゼン侯爵ジュード・ニコルが不思議そうに首を傾げていた。
「どうしたの? 何か、空に探し物でも見つけたかい?」
「……いえ」
首を振って、クロヴィスは誤魔化す。本当は、名を呼ばれた気がしたのだ。だが、彼女は遠いヴィオラの町にいるはずで、ここで彼女の声がすることなどあり得ない。
さて、改めて気を引き締めなおして、クロヴィスは目の前の光景を――そびえたつ帆船を見上げた。抜けるような晴天の下で白い船がくっきりと浮かび上がる様は大層見事だ。これで帆を開き、海風を受けてぐいぐいと前に進んだならば、さぞや美しいことだろう。
「素晴らしいよね。この美しい船が、僕らをどこにだって運んでくれる。大海原の先、未知なる大地に向けて、僕らはどこまでも自由さ!」
「そうですね。とても、胸が躍ります」
クロヴィスの答えに、ジュードは「そうでしょう、そうでしょう」と満足そうに頷く。そんなふたりの横を、積荷を運ぶ船員たちが通り過ぎる。彼らの手により、一日分の食料や水、そういったものが船に積み込まれていく。――エアルダールへの船旅に向けて。
ここは、ローゼン領の港町ヘルド。帆船はメリクリウス商会の商船で、これからエアルダールのイスト商会への〝土産〟を乗せてサンプストンへと発つのである。
「ああ。はやくダドリーの驚く顔が見たいよ。彼はきっと。いいや、必ず。僕らの贈り物を気に入るだろう」
「ええ。素人の私でも、あれはとても美しいと思えました」
「それこそ重要さ。目が肥えることは素敵なことだけど、心を動かす美は理屈じゃない。なんだかよくわからないけど惹かれるというのが、一番幸せなことだと僕は思うね」
おどけて肩を竦めて見せたローゼン侯爵に、クロヴィスは少しだけ笑って返した。
ニコル家の抱える研究機関から白磁が焼き上がったとの報せが入ったのは、建国式典の最中であった。ちょうどジュードが領地に戻ってすぐに物を確認できるように、当初よりスケジュールを早めたとのことである。それでクロヴィスも、イスト商会との交渉材料を確かめるために、急遽ローゼン領を訪れることになったのだ。
見せられた白磁の出来は素晴らしく、相手の気を引くには十分な出来だった。それが確認できたからこそ、こうして船を準備し、いよいよイスト商会代表のダドリー・ホプキンスとの交渉に向かおうとしているのである。
「せっかくだから、クロくんも一緒にどう? 船旅はいいよ、風が気持ちいいし。少しばかり、揺れは気になるかもしれないけど」
「そうですね。たまにはそういう旅をしても、楽しいかもしれません」
「おや、めずらしいね」
きょとんとした顔をして、ジュードは腕を組んだ。
「クロくんのことだから、アリシア様が待っているから断ります!って、お決まりの流れかと思ったんだけど。……って、ねえ。本当にどうしたの?」
「何がです?」
ふいに声の調子が変わったジュードに、クロヴィスは瞬きをした。すると侯爵は、口をへの字にして明るい緑色の瞳でクロヴィスの顔を覗き込んだ。
「無意識なのかな。君はアリシア様の話題がでるたび、かたーい表情になる。何か困っていることがあるなら、僕でも話を聞くくらいならできるよ」
「いえ。そんなことは……」
「ない? 少なくとも僕には、すぐにわかってしまったけどね。……式典ではあんなに幸せそうだったというのに、一体、何があったっていうのさ」
「は?」
後半、ジュードが声を落として何やら呟く。その内容がどうにも聞き捨てならないものだった気がして、クロヴィスは違う意味で慌てた。彼は動揺を飲み込み、ジュードに真意のほどを問いかけようとした。
だが黒髪の補佐官が口を開くより先に、港の先にひとりの騎士が姿を現すのを見た。遠目に騎士の顔を見て、クロヴィスはすぐに眉をひそめた。彼が北方騎士団の所属する騎士ではなく、ロバートと同じ近衛騎士のひとりだったためである。
騎士もまた、クロヴィスに気づいた。すると彼は、人の波を器用によけて足早にこちらに向かってきた。
「クロヴィス・クロムウェル補佐官。王宮のナイゼル・オットー筆頭補佐官より至急の報せです。どうぞ、こちらを」
騎士の告げた言葉に、クロヴィスはますます眉間を寄せた。ナイゼルならば、王の代理人としてシェラフォード領の視察へ向かったはずだ。それがなぜ、エグディエル城にいるというのだろう。
訝しみつつ、クロヴィスは封を開き手紙に目を通す。その紫の目は、すぐに驚きで大きく見開かれた。
「まさか、これは……っ」
ただならぬ様子のクロヴィスに、ジュードがちらりと心配そうに彼を見る。だが侯爵に応えてやることも出来ずに、彼はもう一度手紙にゆっくりと目を通す。その手は、小刻みに震えていた。
リディ・サザーランドが捕まり、エアルダールとの開戦の危機迫る。その状況を打開するべく、王女アリシアが隣国へと渡った。
簡単に言えば、手紙にはそういった内容が記してあった。一方で、クロヴィスへの指示などはこれといって書かれてはいない。だが。
「――至急、王都へ向け出立します」
「いえ! お待ちください、クロムウェル補佐官!」
身を翻したクロヴィスを、騎士が慌てて引き留める。焦りを滲ませて振り返れば、騎士はさらに二つの手紙を差し出した。
「陛下は、クロムウェル補佐官に王都に戻らなくて良いと仰せです。詳細は、こちらを読むようにと……。そして、もう一通はアリシア様からです」
「……アリシア、様から」
息をのんで、補佐官は二通の手紙を受け取った。手の中のそれらを見下ろし、クロヴィスはしばし逡巡した。そののち、意を決した彼はまずジェームズ王からの手紙を開いた。
『シアがエアルダールに向かったことを知って、お主はとても驚き、慌てていることだろう。けれど、お主が城に戻る必要はない。私はお主に、別の役目を与えよう』
真剣に、クロヴィスはジェームズ王の少し癖のある字を追っていく。だが、ある部分に行きついたとき、彼は思わず「……は?」と声を出していた。
『ところでクロヴィス。私は知っているからね。何を、とは言わないがの。強いて言うなら……そうだね。私の宝は、とても愛らしく魅力的だとは思わんかの?』
「な、な、な……⁈」
「ちょっと。大丈夫かい?」
目に見えて動揺するクロヴィスの肩を、ジュードが控えめにゆする。それで、補佐官はなんとか立て直すことができた。――正確には、ジェームズ王の放ったとんでもない爆弾に彼の胸中は大混乱をきたしていたが、とにもかくにも、今は先に進まなくてはならない。
『まあ、それはそれとして。シアはヴィオラより隣国へ渡った。言わずと知れた、陸路の拠点である。そしてお主は偶然に、そして幸運にして、航路の拠点ヘルドにいる。たしか、そこからサンプストンまでは、大型帆船であれば一日ほどで行けるらしいの』
風が強く吹き抜け、塩の香りが頬に叩きつけられる。目を見開く青年の手の中で、王の手紙は彼に命じた。
『エアルダールに渡れ、クロヴィス。彼の地へ赴き、シアを救い、王国を救うのだ。それが叶ったならば、私の宝をお主に授けよう』
クロヴィスは沈黙した。表情を消したまま補佐官はもうひとつの手紙を――アリシアからの手紙に手をつける。時間がなかったためだろう。人差し指ほどの細長い紙をくるくると開いていくと、見慣れた字で一行だけ記されていた。
――だが、そのたった一行が、彼の世界を鮮明に塗り替えた。
「……――ふ、ははっ」
「ク、クロくん?」
「クロムウェル補佐官?」
ふいに笑い出したクロヴィスに、いよいよジュードと騎士は顔を見合わせる。よもや、衝撃的な報せのせいで彼がおかしくなってしまったのではないか。そんな不安に脅かされつつ、代表してジュードがクロヴィスに触れようと手を伸ばす。
だが侯爵が触れるよりも先に、クロヴィスがぱっとジュードに詰め寄った。
「お願いです、ジュード」
「わっ!?」
突然のことに、若き侯爵は思わず後ろにのけぞった。目を白黒させてジュードが見返せば、強い光を湛えた紫の双眼が自分を射抜いている。わけがわからずごくりと唾を飲み込んだジュードに、彼は落ち着いた口調で告げた。
「私を乗せ、すぐに出航してください。行先は予定通りサンプストン。ハイルランドを――あの方を、救いに行きます」
それから僅か数時間のうちに、予定を大幅に早めて帆船は大海原へと旅立った。その先端にて欄干に手を添え、海の向こうにうっすらと見えるエアルダールを見ながら、クロヴィスは己を振り返っていた。
ローゼン侯爵領への道中。否、ヘルドに着いてからも、彼はずっと考えていた。前世の真実を知った今、自分に彼女の側にいる資格はあるのか。――いっそのこと、補佐官という立場すらも、捨ててしまおうかと。
だが何度考えても、それは出来なかった。
このままではいけないと心の奥底で何かが叫んでいた。
フリッツ皇子との縁談をまとめることが、もしかすると彼女の言うように王国を救うことになるかもしれない。だが、それだけではだめだ。王国が救われるだけでなく、アリシアもまた救われてなければ、その未来はクロヴィスにとって価値がないのだ。
――いいや、より正直にいえば。その未来では、己が彼女の隣にありたい。それも、ただ隣にいるだけではなく、愛し愛されるかけがえのないパートナーとして。
(俺も随分と、欲深くなったものだな)
苦笑をして、クロヴィスは首を振る。その昔、まだ彼がグラハムの呪縛に囚われていた頃であれば、決して抱くことのなかった願望だ。
殻に閉じこもっていた彼の世界を開き、手を伸ばすことを教えてくれたのは彼女だ。だからクロヴィスは、この変化を好ましいと思う。
資格があるとか、ないとか。
そんなものはとうの昔に、共に歩んできた日々が証明してくれている。そしてこれからも、変わらず彼は証明し続けていくつもりだ。
だからもう迷わない。どんな手を使ってでも彼女を手に入れ、その笑顔を、王国を、守り抜いてみせる。
――そのように、やっとのことで己が答えを摑んだというのに、彼女と来たら。
「ところで、クロくん。アリシア様の手紙だけどさ」
船員と針路の確認を取っていたジュードが、話を切り上げてクロヴィスに声を掛ける。海風に黒髪を揺らし彼が振り返れば、侯爵は興味津々といった様子で彼に笑いかけた。
「あれに目を通したとき、君、笑ったよね。一体、なんて書いてあったんだい?」
「ああ。手紙ならこれですよ。どうぞ。見られて困る内容ではありませんから」
渡された細長い文を、ジュードは嬉しそうに覗き込む。だが、すぐに彼の表情は怪訝なものに変わった。
「これだけ?」
「そうですよ」
手紙を――『あなたが必要です。』と、それだけが書かれた紙切れを返しながら、ジュードが肩をすくめる。
「僕はてっきり、もっとロマンチックな台詞が記されているのかと思っていたよ」
「そう思いますか?」
侯爵の言葉に笑って、クロヴィスは大海原へと視線を戻し、眩い蒼に目を細めた。
「彼女が俺を必要としてくれる。俺には、どんな言葉をもらうより価値がありますよ」
青空の下に白い帆が広がり、風を受けてぐいぐいと前進する。その上で、青年は愛しい人を救うため、まっすぐに未来を見据えたのであった。




