18-1
隣国の使者が国境の検問所に到着した。その報せは、たまたまシェラフォード地区を訪れていたオットー補佐官に直ちに届けられた。それを聞いたナイゼルは、王女に同行しての視察をいったん離れ、予定にはなかった使者の来訪目的を確かめるべく国境へと向かう。
そこで彼は、リディ・サザーランドが投獄されたという事実を知ったのである。
「ベアトリクス様!」
ナイゼルから手短に事情を説明されたアリシアもまた、国境へと急行した。隣国の使者――エアルダールのクラウン外相とその妻ベアトリクスが待つ部屋へ到着すると、中で座ってまっていた夫妻もすぐに立ち上がってアリシアを迎えた。
「ああ、アリシア様! お会い出来てよかったわ。ちょうどヴィオラにいてくださったのは、とても幸運でしたわ」
「私も同じ気持ちです。それで、リディが投獄されたというのは、どういうことなのですか?」
アリシアが腰を下ろし、その後ろにオットー補佐官と護衛のロバートが控えるのと同時に、クラウン外相が代表して口を開き、ここ数日の間に隣国で起こった〝事件〟について説明する。外相が語ったのは、エアルダールとしての公式見解――つまり、リディ・サザーランドに女帝暗殺未遂の疑いが掛かっているというものだ。
「リディがエリザベス様に毒を? そんな、まさか!」
「サザーランド公は、二日後の正午より審判にかけられます。我が国としての対応が決するのは、その後。――ですが、ここだけの話、リディ様のお立場は非常に危ういと言えるでしょう。フリッツ殿下は、リディ様が犯人だとほぼ確信しておられるようです」
「ありえないわ……。リディを捕らえるのは、殿下ご自身がなさったのですか?」
「陛下が倒れられた部屋に駆け付け、そこで捕らえたのです。その場には殿下のほかにも、ユグドラシル宰相と騎士もいたと聞いております」
「ユグドラシル公が……」
アリシアがナイゼルに目配せすれば、王の筆頭補佐官は眼鏡の奥に鋭い光を浮かべつつ、小さく頷く。やはり、彼もアリシアと同じ結論に至ったらしい。
すなわち、リディは嵌められたのだ。犯人は、エアルダール宰相のエリック・ユグドラシル。彼はリディからの手紙で、ロイドと通じていた黒幕かもしれないと示唆されていた。今回のことは、リディの動きを警戒したユグドラシルが、思い切った手段に打って出たのだろう……。
「アリシア様、お願いです。私と共に、エアルダールへと来てください」
「え?」
虚を突かれたアリシアは、思考を一度止めてベアトリクス・クラウンを見た。クラウン夫人もまた、真剣な表情でまっすぐにアリシアを見返した。
「殿下は、このまま開戦に踏み切るおつもりです。真実が何か、正義が何か。あの方はいま、それを見失っておられます。どうかエアルダールに来て、殿下を止めてください。陛下のお心をもつかんだアリシア様だけが、唯一残された頼りなのです」
「お待ちください」
鋭く声を上げ、ナイゼルが前に進み出る。厳しい表情のままベアトリクスを一瞥してから、筆頭補佐官はアリシアに向け頭を垂れた。
「申し訳ありません、出過ぎた真似を」
「かまわないわ。王の右腕として、思うところを話してちょうだい」
「御意」
アリシアが先を促すと、ナイゼルは再度一礼。それから彼は、かちゃりと眼鏡の位置を直してから、改めてベアトリクスに辛辣な視線を向けた。
「失礼ながら、クラウン夫人。あなたの仰ることは、あまりに不確かで危険な賭けだ。そんなものに、我が国が大事な御方をみすみす差し出すと、あなたは本気でお思いか?」
「無謀は承知の上、当然受け入れがたい提案だということはわかっております。それでも、あえて私はこのように答えます。どうか、私を信用なさって。何物にも代えて、アリシア様の御身は私が御守りいたします」
「それこそ、無理な提案と言えましょう。あなたはエアルダールの使者です。突き詰めた先、あなたの忠義はエアルダールにある。ハイルランドにはない」
「少しだけ間違っていますわ。私が忠義を尽くすのは、ただひとり。エリザベス様――偉大なる皇帝陛下、そして、私の可愛いベス。あの方だけ」
だけど、愛する者はたくさんいるのだと。自身の爪先へと視線を落として、夫人はそのように続ける。
「事件が起きる前日、私はリディ様より、エアルダールに来訪した真の目的を伺っております。その上で、ハイルランドの友であり続けることをあの方に誓いました。……あの夜、本当は何が起こったのか。それも、あの方より聞き及んでおります」
「ならば真実を伝え、直接フリッツ皇子を止めたらいかがです?」
「残念ながら私が申しあげたところで、殿下が聞き入れることはないでしょう。理由は言えません。けれど、お二方とも、うすうすと見当がついていらっしゃるのではないかしら」
その返答に、ナイゼルはこめかみを押さえて深く嘆息し、アリシアは唇をきゅっと引き結んだ。つまり夫人は、ユグドラシルだけではなく、フリッツ皇子も事件の背後に関わっていると示唆したのだ。
どこかで、星の瞬きを閉じ込めたような高く澄んだ音が響いた気がした。
それでアリシアはゆっくりと瞼を閉じた。
ナイゼルはますます難色を示し、首を横に振る。それをなんとか説得しようと、尚もベアトリクスが言い募る。だが、その言葉のどれとて、アリシアの耳には届いていない。音も、光も、感覚さえも。すべてを遮断した暗い世界で、彼女はたったひとりだった。
アリシアはその場所を、とても寒いと感じた。なぜ自分だけしかいないのだろうと考えて、そうなることを選んだのは自分だったことに気づいた。
進むべき道が見えない。上も下もわからない。
出口が、見えない。
そのとき、終わりのない暗闇の中で紫の光が瞬いた。
〝重要なのは与えられたきっかけに対して、何を考え、何を為すかです。少なくとも私はあなたの本心を知り、ますますアリシア様が主君でよかったと思っております〟
はっとして、アリシアは紫の光を追いかけて首を巡らせた。すると、今度は反対側で、緑の光がゆらゆらと揺れた。
〝まずは飛び込んでごらんなさい。それが、あなたの十八番でしょう?
でも、と。アリシアは両腕で体を抱いて、湧き上がる恐れに首を振った。何も壊したくない。誰も失いたくない。けれども大事なものはいつも脆くて、指の隙間から零れおちてしまいそうになる。
すると、今度は目の前で、赤い光がぴょんぴょんと跳ねた。
〝安心して、リディ・サザーランドという駒を使えばいい。僕だけじゃない。あなたは優秀な駒をたくさんお持ちだ〟
光に向けて、アリシアは問いかけた。それでいいのかと。皆が信じてくれる自分は、未来を託してくれる自分は、本当は大したことのない人間だというのに。一度はすべてを失い、再び同じ過ちを犯すことを恐れる、弱くて小さいただの人間なのに。
赤い光はぷるりと震えて、大きく跳ねてどこかへ飛んでいった。代わりに光が消えた先で、再び紫の光がちりっと瞬いた。その光は徐々に大きくなり、闇を優しく穏やかに、アメジスト色に塗り替えていった。
引き寄せられるように、アリシアは光へ手を伸ばした。恐れ、躊躇い、それでもどうしても触れたくて。葛藤の末、細く白い指が光に触れた。
途端、数多の流星が光の中心から飛び出した。
様々な人の姿が洪水のように溢れ、目の前を通り過ぎた。王国の未来のために、改めて絆を結びなおした枢密院。輝かしい功績を上げる、頼もしい商人とひとりの領主。憧れの人を超え、自らの道を歩き出した青年。傷つけるためではなく守るため、剣に誓いをたてる騎士。
そして、誰よりも近くにいた、誰よりも大切なひと。
〝あなたの補佐官は私ですよ。それだけは、奪わないでください〟
ああ、そうかと。アリシアの胸に熱い思いがこみ上げた。
過去に怯え、道を見失う前に。自分は己と、己と共に歩みを進めてくれた者たちとの軌跡に目を向け、きちんと信じるべきだった。
貴族も、商人も、友も。みなそれぞれが悩み、決断し、そのうえで道を選んできた。その結果が今であり、この先を切りひらくのもまた、みなと積み上げた歩みである。
これは、王女アリシアのやりなおしであり。
同時に、彼女と共に進むすべての人のやりなおしなのだ。
「とてもじゃありませんが、了承できません。陛下も、そのようにお答えになるでしょう」
「ここでお会いできたことこそ、運命なのです。お願いです。今はとにかく、時間がありません。このままでは、間に合わないことに……」
「待って」
アリシアが片手を上げると、すぐにナイゼルとベアトリクスが口を閉ざす。様子を見守っていたクラウン外相と騎士ロバートも、同時に彼女へと視線を向けた。
4つの視線が集まる中心で、王女はゆっくりと手を下ろす。そして、少しの曇りもない澄んだ瞳でみなを見返してから、桜色の唇を開いた。
「エアルダールへと渡ります。ナイゼル、あなたは王都に戻り、お父さまにこのことをお伝えして。クラウン外相、そしてベアトリクス様。すぐにでも同行をお願いします」
「アリシア様……!」
「自棄を起こしたわけじゃないわ。安心して」
息をのんだ筆頭補佐官であったが、向けられた王女の微笑みにおやと言葉を飲み込んだ。ここ数日彼女がまとっていた、どうにも思い詰めているような嫌な緊張がふいに消え、かわりに凛とした、それでいて静かな闘志が王女の中に宿っているのに気づいたのである。
「このまま何もしなければ戦争が起き、リディも、多くの民の命をも失うことになる。だから私は可能性に賭けるわ。ハイルランドの人々のため。そして、自分のために」
「ですが……」
「どのみち、いずれは対峙しなければならない相手よ。それが、思ったより早かっただけ。それにナイゼル? 私があちらに渡る以外に、何か良い手が思いつく?」
父王そっくりに首を傾げてこちらを見た王女に、王の筆頭補佐官はやれやれとこめかみを押さえた。彼女の言うように、このままでは数日のうちにリディは有罪となり、宰相と皇子はそのことを口実に戦争へと踏み切るだろう。
だがアリシアが隣国へと渡れば、いくつかの可能性が生まれる。彼女はそもそもリディを隣国に派遣した張本人だし、証言台に上がるために隣国へ渡ることに不自然さはない。加えてアリシアは女帝と協力関係にある。今は臥せているという女帝とどうにかコンタクトを取り、真の敵が誰であるか白日の下に暴き出すことが出来れば、この危機的状況を乗り越えることもできるかもしれない。
だが、とナイゼルは同時に首を振る。この事件には宰相だけではなく、フリッツ皇子も絡んでいる。状況が変わった今、女帝がアリシアとの関係を維持する保証はない。そしてひとたびリディの有罪が決せば、アリシアもそのまま隣国で捕虜とされるだろう。
「2日です」
王女を見据えて、補佐官が告げる。
「キングスレーでの滞在は2日間。その後は審判の行方がどちらであろうか、あるいは結論がでておらずとも、こちらにお戻りください」
「それは……いくらなんでも時間が足りないわ」
「ご自身で仰ったように、これは賭けです。多くの時間を投じたところで、勝率に変化が生まれるとお思いですか?」
少し考えてから、アリシアは納得をして頷いた。確かに、これは時間を長く掛けたほうが上手くいく類の問題ではない。こちらが使えるカードは限られているし、新たなカードを手に入れられるか否かもほとんど運のようなものだ。
「ご理解いただき感謝します。では、アリシア様の御身をお預けする代償と言ってはあれですが……」
「私が残ろう」
ナイゼルの視線を受けて、クラウン外相が後を引き継ぐ。
「人質としての価値は妻のほうがあるだろうが、彼女はアリシア様に同行させたほうがいいでしょう。その点、私は使者として、ジェームズ王に報せを運ぶ義務もある。――私もこの戦争には反対だ。陛下の命ではない限り、止める術があるなら足掻きたいのです」
「正直なところ、あなたを捕虜とすることに効力があるかは甚だ疑問ですが、この際仕方がない。アリシア様が無事帰国されるまでは、その身を預からせていただきますよ」
結論は出た。そうして、集まっていた人々は解散し、慌ただしく己が次に向かうべき場所へと足を踏み出した。
ただちにナイゼルはクラウン外相を連れて、エグディエルへと発った。もちろん、まずはジェームズ王にこのことを知らせるためだ。
――約束を過ぎ、アリシアが帰国しなければどうなるか。最後まで王の筆頭補佐官はそれを口にしなかったが、王女にも大体の予想がついた。そのための捕虜であり、そのための騎士団なのである。
「……みなを守るためにも、なんとしても戻ってこなくてはならないわね」
手早く身支度をまとめ、あとは馬車の準備が整うのを待つばかり。そんな折、忙しく駆け回る騎士たちを見つめて、アリシアが呟く。それはほとんど独り言であったが、隣に立つロバートがすかさず肩を竦めてウィンクをした。
「当然。いざとなったら、俺がこの剣で道を拓いてみせますよ」
「そうはならないことを祈るばかりね」
悪戯っぽく剣に手を添えてみせた銀髪の騎士に、アリシアは苦笑をする。ロバートを含める数名の護衛騎士は、このままアリシアについて隣国へと渡る。エアルダールへ行くのを決めたことには後悔はないものの、彼ら騎士たちの身も同じように危険に晒すこととなってしまい、アリシアの胸はちくりと痛んだ。
「ごめんなさい。あなたたちまで巻き込んでしまって」
「やれやれ、ご冗談を。俺たち近衛騎士の剣は、主君を守るためにある。……いいや、近衛兵だけじゃない。とにかく、姫さまはどれだけ自分が愛されてるか自覚がないようだ。あなたのためなら、みな這ってでもお供するでしょうよ」
それに、とロバートは苦笑した。
「もしもあなたがひとりで行くのを許しでもしたら、俺があいつに殺されちまう。ご存知ですか? あいつ、意外と怒ると怖いんですよね」
「……ええ。知ってるわ」
大切な補佐官の――大好きな人の反応が容易に想像でき、アリシアはくすりと笑う。
言いたいことがたくさんある。伝えたいことがたくさんある。彼が受け入れてくれるか、許してくれるかはわからない。だけども、まずは己の役割を果たさなければ。
天を見上げて、アリシアは胸の内でその名を呼ぶ。そして誓った。
必ず、この国に戻ってくると。




