17-5
その夜、リディはアルベルトを伴い、女帝を訪ねた。
「遅くに悪かった。生憎と、この時間しか空いていなかったのでな」
入室したリディを見てすぐ、女帝は手に持つグラスを掲げてみせた。
一日の公務後の、寛いだ姿なのだろう。彼女は灼熱の太陽を思わせる波打つ長髪を下ろし、ビロードに似て光沢のあるドレスに身を包んで、ひじ掛け椅子にしどけなく腰掛けている。その姿は、百獣の王を前にしたかのような迫力がありながら、ひとりの女性としてひどく魅力的だとも思わせる。
さて、ここまで連れてきてくれた騎士が部屋の外へと消え、室内には自分たちだけとなる。それを確認してから、リディは改めて彼女のもとへと歩み寄った。
「どうだ、調査は順調か? もしくは、それどころではないかもしれないな。どうやら近頃は己の主催する社交の場にそなたを招くことが、我が国の流行りとなりつつあるようだが」
「皆様にはたいへんよくしていただいております。おかげで、興味深いお話を色々と知ることができた。中には、ぜひ陛下のお耳にいれたいことも」
「結構」
視線で自身の近くに座るようにと告げる女帝に応え、椅子に腰かける。すると、人払いをしているために、女帝は自らの手でグラスにワインを注ぎ、リディへと渡す。続いてアルベルトの分も用意してやろうとして、彼が扉の脇から動かないのを見て、彼女は首を傾げた。
「なんだって、そんなに遠くに立っている。来い。従者とはいえ、そなたも客人だ。それでは、さっかくのワインが飲めぬだろう」
「い、いえ、それは……」
「お許しください、陛下。あの者は、これほどまで近くで陛下にお目通りかなっただけで、すでに感無量なのですよ」
顔を青ざめさせ、ちらちらと視線で助けを求めるアルベルトに、仕方なく、リディは茶化しながらも助け船を出してやる。幼い頃から公爵家に仕えており貴族には慣れているとはいえ、あの名高い女帝が相手となれば、さすがのアルベルトも恐縮しきるというものだ。
女帝自身も、相手に恐縮されたり、恐れられたりするのは日常茶飯事のようで、それ以上強く求めることはしなかった。というより、女帝相手にひとりで立ち回ってみせたアリシアのような存在のほうが、よほど珍しいのである。
「両国の変わらぬ友情、そして繁栄に」と、彼女は赤い唇を吊り上げた。
「それで、だ。そなたは今、誰について調べている」
「あなたの右腕、宰相エリック・ユグドラシルについて」
リディの返答に、エリザベス帝の眉がぴくりと動く。グラスを傾けて唇を湿らせてから、彼女はつまらなそうに肩を竦めた。
「あの者は統一派ではない」
「ええ、そうです。宰相閣下は、統一派ではなかったはずだ。少なくとも、次期王候補にあげられる前までは」
含みを込めて女帝を見れば、彼女は沈黙を貫いたまま、再びグラスを傾けた。
統一帝国派。女帝が即位してからはすっかり表舞台から消えたが、古くからエアルダールに存在した一派であり、最盛期には時の王すらも取り込んで何度となく北へと進軍させた。
エリザベスが王位継承闘争の渦中にあったとき、元老院の中枢、つまりはエアルダールに古くからある家柄の者たちの多くが、統一帝国を主張した。そこには、疲弊しきったエアルダールを立て直す狼煙として、改めて「悲願」達成を掲げようとしたという背景がある。
旧元老院に取り込まれていた第一皇子レイブンは、これに賛同した。一方で、ベアトリクスの後押しで表舞台にのし上がってきたエリザベスは、鼻で笑って一蹴した。
そして、当時レイブン第一皇子の片腕であり、彼の旧知の友であったエリック・ユグドラシルもまた、統一派の主張を否定した。
「ユグドラシル様は本来、レイブン殿下が即位された暁に宰相となることが約束された方だったそうですね」
「……我が国の者は、随分と古い話を、そなたに聞かせて喜んでいるらしいな」
「そのような言い方をしては、皆さまが気の毒だ。私が尋ねたので、親切に教えてくださったのですよ」
急進的な政策を推し進めるエリザベス帝に最も近い場所に仕え、貴族たちとの繋ぎ役として陰になり日向になり支える宰相エリック・ユグドラシル。
その彼はもともと、女帝の政敵にして皇位継承順位第一であったレイブンの側近であり、傾国のさなか元老院の傀儡となりはてた友を諌め、なんとか元老院から引き離そうとした。
だが、警鐘を鳴らし続けたユグドラシルの言葉がレイブンに届くことはなく、最終的にふたりは決裂した。
ユグドラシルが彼の元を去ってほどなく、第一皇子はエリザベスの暗殺を企てた疑いで幽閉された。一説には、暗殺を企てたのは皇子本人ではなく周囲の悪臣たちだったとも言われている。だが真実がどちらにせよ、その事件をきっかけに、皇子は獄中で命を落とすことになった。
貴族たちは、口々に話す。
レイブンに王の器はなかった。
彼と共に、ユグドラシルまで堕ちるようなことがなくて良かったと……。
恐怖にも近い圧倒的なカリスマ性で皆を抑えるエリザベスとも違い、理知的な温厚さで皆の信頼を得ているためだろう。尊敬と親しみを込めて、こうした事柄を、貴族たちは喜んで教えてくれた。
「その中で、ユグドラシル様について、気になることを聞いたのですよ。といっても教えてくれた数名も信じておらず、根も葉もない噂の域をでない事柄ですが」
「かまわぬ。申してみよ」
先を促す女帝に、リディは恭しく会釈。水差しに手を伸ばし、空になりつつある女帝のグラスにワインを注いでから、リディは赤味がかった髪の合間から彼女を見据えた。
「宰相ユグドラシルは過去に一度だけ、ハイルランドとの統合をエリザベス帝に進言したことがある。だが、さすがのエリック・ユグドラシルでも、女帝陛下の気持ちを変えることはできなかった、と」
女帝の表情は変わらない。否定も肯定もなしにグラスを揺らす彼女に、リディは挑戦的に身を乗り出した。
「私の見解はこうです。噂は、真実だ。統一派の主張とは別に、両国の統合を望む理由が、ユグドラシル様にはある。いや、あった。それは、疾うの昔に失われた理由のはずだった」
違いますか?と、リディは畳み掛ける。
エリザベス帝は答えない。赤い紅をさした唇を固く閉ざし、リディの視線を正面から受け止める。
だが、彼女がついに重い口を開こうとしたとき、
――エリザベス帝の手からグラスが滑り落ち、高い音を立てて粉々に砕けた。
「……は?」
彼女の足元には、きらきらと光る硝子の破片と、赤い液体とが飛び散っている。深緑の瞳が、驚きに染まって自身の手元を見つめている。――その手が小刻みに震えていることに気づいて、リディも我に返った。
「陛下、お怪我はございませんか? すぐに人を……」
「まて。これ、は……っ!?」
「陛下!!」
がくりと女帝の体がくずれ、とっさにリディがそれを受け止める。腕の中でエリザベス帝は微かに震えている。リディがアルベルトに人を呼べと叫んだところで、女帝本人に止められた。
「やめ、ろ! 誰も呼ぶな!」
「しかし、陛下」
「嵌められたのだ!」
そう言ってから苦し気に咳き込んだ女帝を、慌ててリディは抱えなおす。地面に広がるワインが、女帝のドレスの裾に染みを作っていく。それが目に入り、リディもようやく全てを理解した。
毒だ。エリザベス帝のグラスには、毒が盛られていたのだ。
だが、誰が。いつの間に。頭の中に様々な疑問が駆け巡るなか、新たに響いた若い女性の声に、リディははっと顔を上げた。
「失礼いたします、陛下。今、何か大きな物音がした気が……っ」
グラスの割れる音が聞こえたのだろう。恐る恐る入室した侍女が、その場で息をのんだ。
驚愕に見開かれた瞳が、椅子からくずれ落ちた女帝と、それを抱えるリディとを見た。その瞳を見れば、この状況を目の当たりにした彼女が何を考えたのか、火を見るより明らかであった。
「だ、誰か! 誰か……!!」
「待て!」
呼びかけも空しく、侍女が飛び出していく。
真っ白になった頭で、リディは己の手を下ろした。
じきに大勢の騎士がここに押し寄せるだろう。
このまま自分は捕まるのだ。女帝を亡き者にしようとした、謀反人として。
その時、ぱんと乾いた音がしてリディの目の前に火花が散った。
「冷静になれ、阿呆が‼」
果たして、リディの頬を勢いよく叩いたのは、毒で全身の自由が利かないはずの女帝だった。目を見開いて叩かれた頬に触れるリディに、女帝はさらに彼の胸倉をつかんだ。
「まだ、手は、ある、はずだ。考え、ろ。次の、一手を」
アリシアと約束してきたのだろうと。途切れ途切れに、それでも強い口調で問われ、リディの頭は急速に冷えていった。
そうだ。落ち着け、考えるんだ。
サザーランドは、約束を違えない。
それが、脈々と受け継がれてきた一族の矜持なのだから。
「アルベルト‼」
気づけば、リディは叫んでいた。女帝をその腕で支えたまま、事態の成り行きに呆然と立ち尽くしていた従者を振り返り、彼は口早に指示を出す。
「行け、アル。行先はクラウン外相邸。夫人を頼れ。真実を彼女に伝えるんだ」
「で、ですが。そんな、坊ちゃんは……?!」
「騎士が来るんだ、早く行け! お前だけが頼りなんだ!」
頼む。そうリディが続けると、彼の真剣な眼差しを受け止めたアルベルトが、緊張した面持ちでごくりと唾を飲み込む。続けて頷いたとき、従者の目には強い覚悟の色が浮かんでいた。
駆け付ける騎士を警戒してのことだろう。敢えて自身の背後の扉でなく、アルベルトは開け放たれた窓からひらりと身を躍らせる。一瞬リディはぎょっとして目を剥いたが、そこは幼い頃から互いを知る間柄。意外と身体能力の高い彼なら、無事に下まで降り、夜目に紛れて逃げ果せてくれるはずだと、すぐに首を振る。
頼んだぞ、アル。
従者が消えた窓を祈るような心地でリディが見ていると、ふいに背後が騒がしくなり、荒々しく開かれた扉から騎士たちがなだれ込んでくる。
ついに来たかと。額から一筋の汗が滑り落ちつつ、リディは堂々と乱入者たちへと振り返った。
エリザベス帝が倒れた現場に居合わせた以上、リディ本人に逃げるという選択はなかった。この場から姿を眩ませれば、より一層容疑をかけられるだけだ。
そして同時に、彼は確信していた。リディが捕らえられる瞬間を見届けるために、黒幕がこの場に必ず姿を現すに違いないと。
だからこそ彼は、王命により遣わされた使者にふさわしく、少しの怯みもなく騎士たちの視線を受け止めた。
だが次の瞬間、リディは目を瞠った。
鋭い切っ先を己へと向ける騎士たちの奥には、ふたりの人間がいた。ひとりは、予想した通り、宰相ユグドラシル。先日に回廊で会いまみえたときと同じに、彼は穏やかに微笑んでいる。そして、もうひとり――宰相の隣から冷ややかな眼差しを向けるのは、第一皇子フリッツだ。
フリッツ皇子がこの場に駆け付けることに、何の不自然さはない。だが視線が交わった途端、皇子は薄い微笑みを――仄暗く、凍えるほどに冷たい笑みを、整った顔に浮かべた。それで、リディは悟った。
「なるほどな」不敵な笑みと共に、リディは吐き出した。「陛下を敵に回すなら、黒幕は誰を味方に付けるべきか。――その選択は、僕が想定した中で最も大胆なものだったぞ」
騎士のひとりが、剣の柄を振り下ろす。鈍い音と共に後頭部に衝撃が走り、リディの意識は暗闇の中へと溶けていった。




