17-4
少し迷ったのち、リディは祖国に向けて文をしたためた。
現状として、ロイドと繋がっていた高官としても最も怪しいのがユグドラシルであるが、あくまで可能性が高いというだけ。しかも、その根拠も、アダム・フィッシャーとエリック・ユグドラシルが元々見知った仲であったという、それしかない。
だが、もしも本当にユグドラシルが黒幕であるならば、一刻も早く祖国に伝える必要がある。そのように判断したリディは、『自分が、ユグドラシルを疑わしいと思っている』という事実そのものだけを、祖国に知らせることにした。
「と仰いますが、坊ちゃん。私にはどうにもこの手紙がそういう内容には読めないです。そんなこと、一言も書いてないですよね?」
「何を言っているんだ、当たり前だろう。僕らは今、敵陣にいるのだぞ。途中で誰かに奪われるリスクを考えたら、あからさまな内容を書けるわけがない」
「それはそうなんですが……」
「安心しろ。勘の鋭い奴が読めば、ちゃんとそういう手紙になっているんだよ」
リディがそのように言って鼻を鳴らせば、なんだか狐につままれたような顔をして、アルベルトはくるくると手紙を丸める。それを眺めながら、リディは自分をこの国に送り込むことを決めた青髪の王女と、その隣に常に控える補佐官の姿を思い浮かべた。
あの補佐官なら――鋭いクロヴィス・クロムウェルなら、自身の手紙を正しく読み取ってくれるはずだ。〝友〟への信頼ともとれるその確信は、のちにクロヴィス本人に証明されることになるのだが、もちろんこの時のリディが知るよしのないことである。
さて、容疑者が浮かび上がったことで、すぐにでも女帝に伝え、相手を排除するのかとアルベルトは問いかけた。だが、リディは楽観的な予測を立てる従者に首を振り、しばらくは情報収集に徹すると告げた。
理由は大まかに二つ。
一つは、宰相というユグドラシルの立場だ。元老院を束ね、女帝に最も近しい地位にあるユグドラシルを切るのだ。アリシアとの協定があるとはいえ、よほどの確信がなければ重い腰を上げはしないだろう。
そしてもう一つは、まさしく、確たる証拠がないことだ。痣の男、その不自然な死、その男と繋がる元老院の有力者……。これらの全てがユグドラシルを怪しいと告げるが、決定的な証拠にはなり得ない。
といって、こちらが危険を冒し踏み込んだところで、宰相を黒と裏付けるもの――例えば、ロイドとの誓約書などだ――はとっくに処分済と考えられる。加えて、こちらの動向のほとんどが宰相には掴まれていると予想できることからも、危ない橋を渡ろうにも、メリット、デメリットの差が開きすぎる。
「そもそも、だ。ユグドラシルが黒幕だとすると、腑に落ちないことがある」
「えっと、黒幕が統一派、ということででしょうか?」
「なんだ。ちゃんとわかっているじゃないか」
意外に察しのよい従者に感心しながら、リディは肩を竦めてみせる。
「そう。クロムウェルによると、黒幕の狙いは我が国とエアルダールとの統合。そのために、両国の関係を悪化させ、戦争へと持ち込もうと暗躍しているらしい。なんとも回りくどくて、気の遠くなる話だ」
それをしているのがユグドラシルというのが腑に落ちないと、リディは眉をひそめる。
「エリザベス帝は、統一派の多くを占めた旧元老院貴族を否定し、即位と同時に排除したと聞く。なのに、『統一派』のユグドラシルを、わざわざ宰相なんて地位につけるか?」
たしかにエリザベス帝から見ても、ユグドラシルをどう扱うかは判断が難しい。彼は姉、第二皇女の夫であり、加えて自身とはタイプは全く違えども優秀な男だ。即位し、国を統治することを考えれば、ユグドラシルのような側近は喉から手が出るほど欲しかったに違いない。
だが、彼が統一派となれば、話は変わってくる。乱れ果てた国内を立て直すために、徹底してエリザベスは旧体制を想起させる者を政治の表舞台から遠ざけた。ユグドラシルのことも同様に、もっと無難で、政治的な影響力の低い役職に収めただろう。
「と考えれば、少なくともエリザベス帝は、エリック・ユグドラシルを統一派だとは思っていない。実際、ユグドラシルは所謂『統一派』ではないんだろう……。だが、だとしたら、奴が我が国と隣国の統合を望む理由はなんだ? 宰相という立場にありながら、女帝に進言するでもなく下らぬ策を巡らせ、叶えたい野望とはなんなんだ?」
それを明らかにするには、今の自分たちには圧倒的に情報と味方が足りない。
そのことを、リディはしっかりと自覚していた。
だからこそ、しばらくは情報収集に専念すべきだとアルベルトに告げたのだ。
「僕らは知る必要はある。ユグドラシルがどういう人物で、何を望み、何を忌避するのか。僕らは誰を敵とし、誰を味方にしうるのか」
こうした考えを踏まえて、次の一週間をリディは茶会や晩餐会、歌劇鑑賞といった「貴族的交流」に費やした。
幸いリディの元には、外相夫人を通じて山のように社交の誘いが届いた。なにせ彼は、エリザベス帝に招かれた隣国の客人。女帝が隣国と何らかの密約を交わしたことを嗅ぎつけ、有力者たちは我先に、ハイルランドからの特使であるリディに近づこうとしたのである。
さらに幸運なことに、リディはこうした貴族的交流、つまりは華麗なる世界での腹の探り合いが得意だった。このあたりは、さすがは元公爵家嫡男である。
生前の父には「感情が顔に出やすい」と苦言を呈されたものだが、そこはこの6年で成長もあるというもの。特使としての〝親愛の情〟を貴族たちにちらつかせ、代わりとして、巧みに欲しい情報を引き出していく様は見事としか言い様がなく、ずっと近くで仕えてきたアルベルトなどはつい目頭が熱くなりもした。
そのようにして、リディたちは見極める。
誰が、ユグドラシルの味方となりえるのか。
誰が、自分たちの味方となりえるのか。
「――そうして、私を味方だと。あなた方の真の友となりえると。そう、判断くださったのかしら?」
「ええ、クラウン外相夫人、いえ、……ベアトリクス様」
頷いたリディに、向かいに座るベアトリクスは可憐に笑みを漏らした。
ぽかぽかと暖かな日差しが、よく整えられたクラウン邸の庭に降り注ぐ。祖国はそろそろ寒くなる頃だというのに、やはりエアルダールは気候が違うと、リディは思う。そういえば、今日は建国祭の最終日だったなと、今更のように頭の隅をよぎった。
「国を出るとき、アリシア王女殿下からは、エアルダールにいる間の判断はすべて私に任せると言われております。その上で、私自身の判断で、あなたは信じることが出来ると――アリシア様とエリザベス帝、お二方を決して裏切りはしないと考えました」
「まあ! それは、光栄なことですこと」
にこりと笑みを返した夫人は、上品な仕草で紅茶を口に運ぶ。そこには、驚きもなければ動揺もない。リディが単なる客人ではなく、密命を背負って送り込まれたことを、やはり彼女も察していたのだろう。
ベアトリクスを味方に引き入れることを決めたのは、リディが本人に告げた理由のほかにも、王家を出てもなお彼女が国内外に強い影響力を有しているためでもある。
言うまでもなく、リディの立場は非常に危うい。背後にはエリザベス帝という強力なバックがいるが、言ってしまえば彼女しかいない。何かの事情で女帝がリディを切り捨てるつもりになれば、それでおしまいなのだ。
その点で、ベアトリクスは頼もしい。彼女は、宰相のほかに唯一エリザベス帝が耳を傾ける相手だ。そのベアトリクスの口添えがあれば、女帝も簡単にリディを見捨てることはないだろう。
加えて、かつてのこともある。
「私が追う相手は、6年前刺客を送り込み、父を亡き者とした。今回も、同じことが起きたとしても、何もおかしくありません」
「そう……。リディ様は案じておられるのね。ご自身だけでなく、陛下の御身を」
「あまり想像したくない事態には違いありませんが」
あえて気取った笑みを浮かべて肩を竦めながらも、リディはそれを否定しない。
女帝本人を害するつもりがあれば疾うに実行に移しているだろうから可能性は低いが、人間追い詰められれば何をしでかすかわからない。万が一の事態に備えて、女帝のほかにもうひとり、真実を知る者が必要だと考えたのである。
「私は今夜、エリザベス帝に謁見します」
秋の花の香りを運ぶ風が、ふたりの間を駆け抜ける。赤みがかった髪を風が揺らすのを感じながら、リディは身を乗り出した。
「どういう形であれ、今夜を境に事態は動き始めるでしょう。その時、ベアトリクス様には、変わらず我が国の――ハイルランドの友であり続けていただきたいのです」
ことりと音がして、ベアトリクスがティーカップを受け皿に戻す。ゆっくりと瞼を閉じた彼女は、ややあって、その目を開いてリディをまっすぐに見据えた。
「リディ様。外相夫人としては、お約束致しかねます。だって私は、ハイルランドの友である前に、エアルダールの忠実なる僕であるのだもの」
息をのむリディに、夫人は「ただし」と続ける。
「私個人、ベアトリクスとしての答えは別です。ヨルム家の子、チェスターの血をこの身に継ぐひとりとして、謹んでお引き受けいたします。あの子たちを――私の愛する子たちを傷つけようとする者を、決して許しはいたしませんわ」
絶望に突き落とされてからの、手のひら返し。リディがなんと反応すべきが戸惑っていると、ベアトリクスは少女のようにくすりと笑った。
「女の扱いがお上手ではないのね。女はね、リディ様。理屈や損得勘定よりも、時として、情に訴えかけたほうが心動かされるものなのですよ。そして私が愛するのは、陛下だけではありません。ジェームズも、アリシアも、みんな私の可愛い子たちなのです」
そう言って、エアルダールで絶大なる影響力を誇る貴婦人――前王の末妹にして現王の育ての親は、薄く開いた目の奥で瞳を光らせた。
「リディ様。私が、このベアトリクスが、あなたをお守りしましょう。この身に流れる、王家の血の誇りにかけて」




